- ナノ -

■ あの日の世界は死んでしまったようだ


「…お手上げだな。どうやっても開けられない」

それはまるでジャムの蓋が開かない、とでも言うような調子で呟かれた言葉だったが、事態が切迫していることは明白で。
けれど死に対する恐怖など初めから持ち合わせていない彼は、落ち着きはらって私に言った。

「悪い、最後まで一緒にいてやれなくて」

「馬鹿なこと…言わないでよ」

彼の手には木で組み合わされた、一見何の変哲もない小箱。けれどもそれには強力な念が込められていて、それがもうすぐ彼の命を奪ってしまうのだ。

中には鍵が入っている、らしい。クロロが手に入れた古書を読むための鍵。でもその本と対となる鍵はいわく付きで、どの除念師に見せても駄目だった。そう、蜘蛛の為の除念師であり、彼の恋人であるこの私でさえも。

「本の為に死ぬなんて、我ながらなかなかの死に方だと思うよ」

「今日の日付が変わるまでがタイムリミット…」

「大暴れでもしようかと思ったが、なんとなくひっそり死んでいきたい気がしたんだ」

クロロは穏やかに笑った。図々しいか?なんて。
沢山の人間の命を奪ってきた俺が、穏やかに死にたいだなんて片腹痛いか、だって。
団員にもこのことは伝えるなと口止めされていた。唯一私だけが除念師として恋人として仲間のうちで彼の状態を知っていたのだけれど、全く彼の役には立てなかったのだ。

「その小箱、貸して」

「自分を責める必要はない」

「いいから貸してよ!」

これさえ開けて、中の鍵で本を読めばクロロは助かる。そんな簡単なことができない訳が無い。そんな簡単なことが……

「待ってて、絶対に助けるから!クロロは死なせない」

私はそう言って彼の仮宿から飛び出した。不可能を可能に変えるだけの対価を、払う覚悟はできていた。





あと4時間を切ったか……。

読んでいた本から顔をあげ、時計を確認した俺はふぅと深く息を吐く。たとえあと数時間の命だとしても、やることはいつもと変わらない。
せめてこの今読みかけの本を、読み切ってしまえればいいのだが。

物音一つしない殺風景な部屋に一人でいると、なんだか現実味を欠いてくる。他の人間ならこういう時どうするのだろう。やはり大事な人と共に最期の時を待つのか。

けれども彼女は今いない。俺を助けようと必死になって、出ていってしまった。
でもきっとそのうちに帰ってくる。時間ギリギリになって、泣きそうな顔してきっと謝る。ごめんね、ごめんねクロロ……。あまりにも容易に想像がついてしまって、苦笑するしかなかった。

死が怖くないのは本当だった。でも、嫌でないかと言われるとそうとは言い難い。まだたくさんやりたい事だってあったし、手に入れたい物だってあった。
いくら世に恐れられるA級賞金首だとしても、結局最期に思うことは俗物的だ。死は怖くない、でももう少し生きていたい。

仲間やナマエと一緒にいたい。

流星街にいた頃からずっと欲しかったものの答えを今さらになってわかったような気がして、なんだ俺はもう手に入れていたのか、なんて感慨に耽った、その時。

「クロロ!」

予想通り泣き出しそうな顔で戻ってきた彼女は予想外にもキラリと光るものを俺に差し出した。
今にも転びそうになっていて、俺は咄嗟に彼女の体を支える。彼女の手にあるのは鍵だ。「クロロ、早く!」

「開けられたのか!?」

彼女はこくこくと頷いた。それを見た瞬間体中の力が抜けるのを感じた。時間はまだある。間に合う。肝心の本は同様に念がかけられていて図書館から持ち出すことが叶わなかったが、ここからあの図書館までもそう遠くない。

「ナマエ、助かった、ありがとう……」

「待って、一つだけ行く前に約束して」

「なんだ?」しがみつくようにして俺に縋る彼女は、後から思えば様子がおかしかった。だけどその時俺は突如としてふって沸いた希望に、その異変を見逃した。タイムリミットがあったせいもある。

とにかく後からどんなに後悔しようと、なんて言い訳しようと、その時俺は決定的なミスを犯した。

「本を読んだら、日付が変わる前にここに戻ってきて欲しいの。絶対よ、ねぇ」

「あぁ、わかった。念を解くだけなら全部読む必要はないからな」

「絶対よ、絶対に絶対よ?私待ってるからね」

俺は彼女をぎゅっと抱きしめて約束する、と言った。そしてすぐに鍵を持って部屋を飛び出した。

……でも、気づくべきだったんだ。どうやっても開かなかった小箱を、どうやって彼女が開けたのか。

彼女がどうしてそんな約束をさせたのか…。


古びた図書館の禁書棚に難なくたどり着いた俺は、お目当ての本をすぐに発見した。禁書棚の本はどれも濁ったオーラをまとっていたが、その中でもとりわけよく目立つ赤黒い表紙。これが全ての元凶だ。装丁に施されたベルトの鍵穴に鍵を入れ、かしゃりと回す。

思わず息を殺して、震える指で中身を開いた。その震えは生をたぐり寄せた歓喜と、底の無い知識欲からくるものだった。
そして…。


気がつくと、もう1ページ、もう1ページとめくっていた。棚の前で立っていたのが、いつしか床に座り込んで本を読みふけっていた。携帯が鳴ったような気がした。それでもページをめくった。


「ふぅ…」

結局、最後の一行までも目に焼き付けた俺は、満足しきって息を吐いた。ぱたり、と本を閉じる。その瞬間、ふと時計が目に入った。

─絶対よ、日付が変わる前に

彼女の声が聞こえた。



今となってはもう、あの本に読んだものを虜にする念がかけられていたかどうかは定かではない。禍々しいまでのオーラを纏っていたあの本は、俺が読み終えた後はただの普通の本になってしまったからだ。

とにかく俺は今さらになって彼女との約束を思い出して、遅まきながら当然至るべき疑問にぶち当たった。
彼女は一体どうやってあの小箱を開けたのか。どうしてあんなに泣きそうだったのか。

嫌な胸騒ぎがして、俺は走った。もうとっくに日付は変わっていたけれど、息が切れるくらい走った。頭に浮かんだ最悪のケースを必死で打ち消した。

「ナマエ!」

あの時の彼女のように、転びそうになりながら部屋に飛び込む。返事はない。
彼女は俺が座っていたソファーに、崩れるようにして倒れていた。

「ナマエ!おい、起きろ!」

肩を掴んで揺さぶると、彼女の手からぼと、と携帯が落ちた。

それは命の落ちる音だった。




毎年同じ日の日付が変わる頃、俺はたった一人で喪服に身を包み夜を過ごす。今度は本を読むわけでもなく、ただひたすらに携帯を耳に当てて夜が明けるのを待つのだ。

「本当に欲しいものがわかった途端、永遠に手に入らなくなるなんてな…」

結局あの日、俺の命を助けるために、彼女が差し出したものは彼女自身の命だった。それくらいの対価が無ければ、あの箱を開けるのは不可能だったろう。俺のタイムリミットはそのまま彼女に移った。

そしてきっと、俺が最期の時を彼女と過ごしたいと思ったように、彼女も俺と最期を過ごしたいと思ったのだろう。履歴に残っていた着信は彼女から。日付が変わる5分前に、せめて声だけでも、と。

けれど俺はそれに応えてやれなかった。あの日、冷たくなった彼女を抱きかかえて、なにかもを後悔した。

あれ以来、俺の世界は止まっている。
何度季節が廻ろうとも、彼女がいたあの日の世界は死んでしまったようで俺だけがまだ惨めに生きている。
これは他人を殺してきたくせに、もう少し生きたいと願った俺への罰なんだろうか。


決して許されることのない罪を贖うため、俺は聞こえるはずもない彼女の返事が携帯から聞こえてくるのを待っている。

「…ナマエ、愛してる」囁くようにして、あの日言えなかった言葉を紡いだ。



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