■ ◆昨日だけがどこにもなくて
いつものように仕事から帰ると、キルアがオレの部屋の扉の前で立っていた。
もちろんただ立っているだけのはずがないから、オレに何か用事でもあるのだろう。
そんなことは今までにないことだった。
弟の訓練は全部担当していたから仕方が無いが、小さい時ですらキルアはオレを避けていて。
一体何の用だろう、と首をひねる。
近づけば弟が泣いていることがわかって尚更訳がわからない。
どうしたの。
そう口を開く前に、キルアは俺に掴みかかってきた。
「殺したのかよ!?本当に、殺したのかよ…!」
泣き腫らしたぐちゃぐちゃの顔で、服に皺が寄るくらい乱暴に掴まれて。
殺したのかよって、そんなの当たり前じゃないか。
暗殺一家に生まれて、小さい頃からそれこそ何人も殺してきて、今更人を殺すことに躊躇なんてあるはずもない。
弟がどうして泣いているかわからなくて、叱るに叱れなかった。そんなくらいで泣いてちゃ駄目だよと諭すにも、その『そんなくらい』がわからない。
ねぇ、オレは一体誰を殺してきたんだっけ。
昨日どこで誰を殺したんだっけ。
返り血でも浴びたのか、オレの服は所々汚れている。いつもはこんなヘマしないのに。
まるでぽっかりと心に穴が空いたみたいだ。どうやっても思い出せない。それなのに弟があんまりに泣きじゃくるものだから、温度差が激しい。
「キル、放して」
「なんで…!なんでそんな平気な顔してるんだよ!ナマエのこと、好きじゃなかったのかよ!」
「…ナマエ?」
だれ、そいつ。
そう言った瞬間、キルアはぴたりと動きを止めてオレを見た。
絶望しきった表情。なんでそんな顔してるの?ナマエって誰?好きだった?オレが?
「ねぇ、」「最低だな…最低最悪だよ。兄貴もこんな家も何もかも!」
オレが質問するよりも早く、キルアは駆け出して行った。追いついて、その言葉の意味を問いただすこともできたけれど、視線でその後ろ姿を追うだけで既に億劫だった。
最低最悪…か。
そのフレーズ、どこかで聞いた気がする。
ありきたりといえばありきたりだけれど、誰かの声で。
─ゾルディックなんて、きっと世の中の人からしたら最低最悪の名字なんだろうね
─そうかもしれない
─でも、やっぱりイルミの大事なものをそんな風に言われるのは心外だな
─そんなこと言うの、たぶんナマエだけだよ
「ナマエ…」
聞き慣れない名前の筈なのに、唇は簡単に動いた。
頭が割れるように痛い。思い出せない。昨日、一体何があったんだ?オレは何をしたんだ?
─ねぇナマエ、いつかその最低最悪の名字を名乗るってことになったら…嫌?
─え、それって…
オレはとうとう立っていられなくなって、床に膝をついた。
駄目だ、目眩がする。壊れてしまいそうだ。
原因はおおよそ見当がつく。きっとオレは自分で自分に針を刺して、昨日のことをすっかり記憶から消してしまったのだろう。
そして、その空白の昨日とナマエという人物が深く関わっているのだろう。
─嬉しいよ…だってイルミのこと好きだもん
昨日以外の断片的な記憶。
キルアの様子からしても、ナマエはオレの大切な人だったんだろう。
思い出そうと思えば思い出すことができた。だって針を抜けばいい。そうしたらこの割れるような頭の痛みからも、混乱からも開放される。
だけどオレはそこにうずくまって痛みが引くのをただ待っていた。『昨日』を確認してしまったら、今度は心が壊れてしまうような気がしたから。
「ごめんねナマエ」
声しか思い出せないその彼女にオレは謝る。
本当に自分の家が、自分が、最低最悪だと思ったのはこれが初めてだよ。
End
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