- ナノ -

■ 揺れてはいけない天秤の話

「そんな...」

母の話を聞いた私は、あまりのことに言葉を失ってしまった。こんなことってない。来月には幸せが待ってるはずだった。好きな人の妻になって、新しい幸せな生活が待っているはずだったのに。
呆然とする私の肩に、母は同情するように手を置いた。でもその慰めは宥めでもあり、私にただ耐えることを強要していた。

「貴女にとっても悪い話じゃないわ」

「でも、私は彼と」「婚約破棄のお金も、全額支払ってくださるそうなの」

「何言ってるのよ!」

そんなことどうだっていい。母が悪いわけではないとわかっているけれど、止まらなかった。手を振り払い、上ずった声で叫ぶ。「お金じゃない!」私には好きな人がいたのだ。そしてその人と結婚するはずだった。それなのにどうして急にゾルディックになんか嫁がなきゃならないんだ。こんなの酷過ぎる。

やるせなさが涙となって頬を伝った。母への抗議は自然と嗚咽に変わる。

「...断れるわけ無いでしょう。わかってちょうだい、ナマエ」

そう言われてしまっては私にはもうどうしようもなかった。




迎えた結婚式は何の滞りもなく執り行われた。流石にゾルディック家の長男だけあって、当初計画していたよりも何百倍も豪華な結婚式。初めて顔を合わせた旦那となる人も、年をとった醜い老人なんかではなく、若くてびっくりするくらい綺麗な人。
けれども私の心はちっとも晴れなかった。なぜ私がこんなところに立っているんだろう。

無機質なキスを交わして、冷たい枷を薬指に嵌めて。気を抜けば式の途中でも泣いてしまいそうになった。彼に会いたい。私は彼が好きだったし、今こうして隣にいるのは彼のはずだったのに……。


「ナマエ、泣いてるの?」

「……」

たった一枚のペラペラの紙で、私達の関係は確固たるものにされた。
式が終わった後、当然部屋で二人きりになったが会話はない。
沈黙に耐えかねてバルコニーで風に当たっていると、後ろから旦那─イルミに声をかけられた。

「……どうして、どうして私を選んだの」

静かに涙を流していたのだが、どうやら気づかれていたらしい。
けれども気づかれたからってなんだというのか。この男が私を結婚相手にさえ選ばなければ、今頃私は笑っていたんだから。

「…ナマエは知らなかっただろうけど、オレはナマエのこと前から知ってたんだ」

「……え?」

「一目惚れって言うのかもね。仕事先のパーティーでナマエを見かけて、それから忘れられなかった」

ぽつりぽつりと紡がれる突然の告白に、私は涙もそのままに振り向く。
嘘をついているようには見えなかったし、そもそも彼が嘘をつく理由はない。急に結婚が決まったのも、全ては彼が決めたことだったのだ。

「ねぇ、オレじゃ嫌?好きだよ、ナマエのこと」

「……」

真っ直ぐに見つめられて好きだと言われてしまっては、私はどうしていいかわからなかった。
欲しかったから手に入れた。
きっと彼は悪いとも思っていない。黙り込んだ私に首を傾げた彼は子供みたいに純粋で、自分の欲望に忠実だった。


その日から、私はイルミの前で泣かないようにした。それだけじゃない、悲しそうな素振りすら見せなかった。
というのも私が少しでもそんな様子を見せれば、彼は決まって「忘れなよ」と言うからだ。

前の男のことなんて忘れなよ。オレじゃダメ?首を傾げるイルミは本当に不思議そうだった。
いつまでも過去に囚われる私を理解できないみたいで、不機嫌になる。
その点さえ除けば、イルミは優しすぎるくらいに優しかった。

だから私ももう、忘れようと思った。今更絶対に叶わぬ恋なのだし、いつまでも他の男を想っているのはイルミに対しても少し罪悪感がある。
そうやって過ごした1年間は、幸せとも不幸せとも言えなかった。

そんなある日。

「ナマエ!」

久しぶりにパドキアの街へ下りたのだ。いつもは買い物なんて全て執事が行うけれど、気晴らしも兼ねてその日は外に出た。
そして自分の名を呼ぶその声に、思わず胸がドキリと高鳴った。

「どうして…!?」

驚いていると、ぎゅっと抱き竦められる。「探したんだよ」イルミが前の男だと表現した彼は、あれから一年経った今でも私のことを愛してくれていた。

「あの時、無理矢理に婚約破棄されて、それからずっと君を探してた。そうしたら、嫁ぎ先はあのゾルディックじゃないか!
とても助けにはいけなかったけれど、いつかパドキアで待ってたら君に会えると思った」

興奮気味に早口でそう言った彼に、じーんと胸が熱くなる。忘れようと決めたはずの恋心が、また蘇ってくるのを感じた。

「僕と逃げよう」

「でも…」

「わかってる。1年も経ったんだ、君にだって色々あっただろう。
だから一週間後の夜、君の家の門の前で待つよ。
僕と来てくれる気があるなら、そこへ。じっくり考えて欲しい」

押し付けるようなイルミの愛とは、正反対だな、なんて思った。「…わかったわ」私は頷いて、逃げるようにその場を後にした。思いがけない事態と抱えた秘密の重さに混乱していたのだと思う。


とにかくそれからの一週間は矢のように過ぎ去って行って、私は夜の道を懸命に駆けていた。
試しの門はとても私の力では開けられないが、この日のために用意した隣の小さな門の合鍵。
外側からの侵入者をミケの元へと導くそれは、内側からならそう危険ではなかった。そもそも1年もここで過ごしていれば、吠えられることすらないのだから。

けれども息を切らして門の前にたどり着いた私の心臓は、思いがけない光景にその動きを止めそうになった。

「…イル、ミ……」どうして。仕事に行ったはずなのに。

口の中が乾いて、うまく言葉を発せられない。その間にもイルミはいつもの無表情のまま、ゆっくりとこちらに近づいてきた。

「ねぇ、ナマエ。どうしてオレがお前の元婚約者を殺しておかなかったか、わかる?」

静かな声は夜の闇によく響いた。私は首を振って後ずさりする。イルミは確かに優しい夫だった。ある一点を除いては。

「死んだ人間は流石のオレでもどうしようもないからね。死んだことによって美化した想い出になって、いつまでもナマエの心を占められちゃかなわないだろ」

でもさ、と彼は真っ直ぐに私を見つめて言った。「お前がまだあいつのことを選ぶっていうなら、オレはあいつを殺さなきゃならない」

その言葉は彼が暗殺者だという事実を差し引いても、重すぎるまでの現実味を帯びていた。
そしてその重みにバランスを崩した天秤は、私に必死の懇願をさせる。「待って!ごめんなさい!お願い殺さないで!」けれども同時にその懇願は、私の天秤が昔の彼に傾いていたことをはっきりと示したのだった。

「……ふーん」

ぽつりとそう呟いたイルミの瞳は底冷えのするような黒色。
彼はゆっくりと私に背を向けると、片手をついてあの重そうな門を開いた。「待って!お願い!」
イルミは何も言わなかったが、その意図がはっきりと分かって私は震え上がる。


扉が閉まる瞬間、振り返ってこちらを見たイルミは笑っていた。
それが私の初めて見た彼の笑顔だった。




「オレはナマエが嫌いでこんなことをしたんじゃないんだよ」

「……」

「好きだよナマエ」

私の涙を指の背で拭った彼は、いつものように真っ直ぐ私を見つめてそう言う。
わかってる。この人には悪気なんてないんだ。純白と言う言葉があるのなら、この人には純黒が相応しい。
美しい髪や瞳と同じように、この人は綺麗すぎるまでの黒なのだ。

「あいつのことなんか忘れなよ。
もう誰も迎えに来やしないんだから」

誰が悪いのかなんてもうわからなかった。イルミは彼を殺したけれど、私はイルミを裏切ろうとした。けれどもただ一つはっきり言えるのは、愛であれ好意であれ今後イルミ以外に気持ちが傾くことは許されないのだ。


これは、揺れてはいけない天秤の話。


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