- ナノ -

■ 気づけば闇の中だった

※微グロ含みます



生臭い匂いと壁にぬるりとした感触。
けれども部屋の中が真っ暗なせいもあって、その時ナマエの頭の中にはそれが血かもしれないなんて考えは全く浮かんでいなかった。

「ねぇ、お父さん」何、これ?

また私がいない間に変な実験でもしたのかな。
ナマエの両親は科学者で、ほとんど毎日研究漬けの日々だった。そのせいで小さいころからあんまり構ってもらえなくて寂しい思いもしたけれど、今のナマエにはイルミという恋人がいる。
貿易関係の仕事をしているらしく、彼にもまたなかなか会えなかったりしたが、それでもささやかながら幸せな生活を送っていた。そう、これまでは。

「ねぇってば」反応が返ってこないことを疑問に思いつつも、何のためらいもなく部屋の電気をつける。
その瞬間、部屋に浮かび上がった光景に思考がフリーズした。

くらくらするような赤と、足元に横たわる両親の姿。
声にならない悲鳴をあげ、部屋の中に立っていた人物の名前を呼ぼうとした瞬間、衝撃とともに私の意識は闇に堕ちた。




目が覚めた、と認識する前に、思わず呻いたほどの激痛。

自分の身に何が起きたのかわからずパニックになる。頭が割れるように痛くて、目が燃えてるみたい熱い。
思わず手で顔を覆えば、包帯のざらりとした感触だけが伝わってきた。

「…ナマエ、気がついた?」

不意に左から声をかけられ、私はびくりと肩を跳ねさせる。人がいたのか、気配が全くしなかった。

でもそう言えば私を支えている体の下のこれはベッドのようだし、この原因不明の痛みから考えてここは病院なのかもしれない。
ゆっくりと声のした方向を向いたが、目元の包帯のせいで何も見えなかった。

「大丈夫?」
「えっと、あの………」

私に何が起こったんだろう。そして私の名前を呼ぶこの人は誰?
記憶がひどく曖昧だった。頭でも強く打ったのか?
でもまずこの包帯の下がどうなっているか想像すると、それだけでぞくりと嫌なものが背筋を走った。

「ここはオレの部屋だよ。大丈夫。何もしないから安心して」
「オレ…?」

抑揚のない声。若干高めではあるものの、おそらく男性だろう。
彼がベッドに腰掛けたのか、その分だけじわりと世界が傾いた。

「もしかして…覚えてないの?」

私の反応を見てか、彼は恐る恐ると言った感じで訪ねる。でもこんなところで嘘をついても仕方が無いから、私はこくりと頷いた。

「……ごめんなさい、私…あなたが誰かもわからない」
「…っ…そう」相変わらず声からは何も読み取れなかったが、少しだけ返事に間があった。落胆させてしまったのかもしれない。

「オレはイルミ」
「はい……」

こんな怪我をして病院じゃないということも不思議だが、とにかく事情を知っていそうな人がいてほっとする。一時的な記憶喪失だろうか。とにかく自分のことはわかるのがせめてもの救いだろう。

ひやり、と頬に冷たいものが手に当たったかと思えば、それは彼の手のひらだった。

「何があったのか、たぶん思い出さない方が幸せだと思う」
「……」
「って言っても、知りたい?」 私は小さく頷いた。
いくらそう言われようとも、自分の身に起こったことくらいは知りたい。どんなに辛いことだってずっと避けては通れないに違いなかった。

「じゃあベタだけどさ…いい話と悪い話どっちから聞きたい?」
「…え?」
「悪い話からしようか。ねぇ、」

イルミは自分で聞いたくせに、初めから決めていたようだった。
何も見えないけれど、今おそらく向かい合っている状態なのだろう。
私は自然と息を殺していた。

「ナマエの目はもう見えない」
「……」
「角膜がひどく損傷していて、もう二度と視力は回復しないんだ」

ゆっくりと噛んで言い含めるように彼は言った。そのお陰か単に現実味がないだけか、不思議とすう、と脳に染み込んでくる。
見えない、もう。私の世界はこれから真っ暗な闇の中。
ずきりずきりとした痛みだけが、かろうじて私の存在を主張していた。

「でも、いい話もあるんだよ。
これからナマエはここで暮らす。なんでも欲しいものはあげるし、目が見えなくても不自由な思いはさせない。大事にするよ、だからね、だから、」「どうして…?」

どうしてこの人はそんなに親切にしてくれるんだろう?この人は私の何?ここで暮らせといきなり言われても困るんだけれど。
家族のことだってあるし……「…あ」瞬間、部屋の光景がフラッシュバックする。
白い壁に飛び散った赤。生臭い匂いと横たわる両親。「い……いやぁ!!」

「落ち着いてナマエ」「お、お父さんが、お母さんが倒れてて…それで、そんな…だって酷い、なんでどうして」

一気に情報が頭の中に流れ込んできて、とっくに心はキャパオーバーだ。呼吸が出来ない。この感情をどこにも吐き出せないように、呼吸の仕方を忘れてしまった。

「ナマエ、ごめん」「っひ、はぁっ、はっ…」

ぎゅ、と強く抱きしめられ、身動きが取れなくなる。抱きしめられて、彼からふわりと香った鉄の匂いにハッとした。
私はこの匂いを知っている。「嫌ぁっ!いや、イルミ!あなた、でも……どうして、」そうだ。あの時あの部屋に立っていたのは。私の両親を殺したのは。

イルミだ。全部思い出した。

「ナマエごめん、オレ…」「放して!人殺し!」
「そう、オレは人殺しなんだ。ナマエをたくさん騙した、ナマエの両親を殺したのもオレ。仕事だった」

暴れる私とは対照的に、ぽつりぽつりと彼は静かに語る。私は混乱して涙を流した。だって全部思い出したということは、同時にイルミへの気持ちも思い出したということだから。

好きだったのに、どうして。
言葉にならない問いかけは嗚咽となって口から洩れた。

「まさかオレにナマエの家族の依頼が来るとは思わなかったよ。それでもオレはナマエにさえバレなきゃいいと思った。それどころか家族を失ったナマエはますますオレだけを頼りにするだろうとさえ思った」

もはや泣くことしか出来ない私に、イルミの抱擁が強くなる。大好きな彼の香りと、大嫌いな血の匂い。いつもはこんな匂いしなかったのに。それも騙してたのね。

「だけどナマエに見られたのは誤算だった。動揺したオレは、そんなことしたって何の意味もないのに咄嗟に君の目を潰した。無かった事にしてしまいたかったんだ。こんなオレのことを知って欲しくなかった……でも、そのせいで…」

こつんと額が合わせられた。そして目に巻かれた包帯に、ぽたりとぽたりと雫が落ちる。でもこれは私の涙じゃない。「はっきり言うよ。ナマエの両親を殺したこと、可哀想だとは思うけど悪いとは思ってない。オレが後悔してるのは、ナマエの目を意味もなく奪ったことだけ…初めて自分のやったことを後悔した…」イルミの泣き顔なんて想像できなかったし、もう二度と見ることは叶わないのだけれど、確かに彼は泣いていた。

「オレのこと嫌いになってもいいよ。
でもこれだけは信じて。ナマエのこと本気で好きだったんだ」
「……っ」


その後、私達は抱き合ったまま泣きじゃくった。騙されていたこと、両親を殺されたこと……許せるわけがなかったけれど、とにかく今は悲しかった。憎いはずのイルミも、そんなイルミを愛している自分も憐れで。

「っうっ、イルミ……っ」

よく知った体温に、涙も染みて溶け込んでいく。血の匂いももう分からなくなってしまったように、やがてこの絶望にまみれた現実にも適応していくのだろうと悟った。

「嫌いに、なりたいよ…」

きっと目が潰れてしまうずっと前から、私は知らない間に深い闇の中にいたんだ。
イルミに出会って、彼を愛してしまったその日から。


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