- ナノ -

■ ◆子どもの帰るところ

 ツェズゲラたちが三週間の時間を稼ぐ間、ゲンスルーを倒せる条件を整える。
 そんな取引を交わしてから、既に一週間。今日も相変わらずゴンは岩場で一人逆立ちをし、放出系修行である浮き手の練習をしている。真面目な――いや、こうと決めたら一直線のゴンは、きっと体力が続く限りあれをやり続けるのだろう。少し手持ち無沙汰になったキルアが岩に腰を下ろして修行の様子を眺めていると、同じようにゴンの姿を眺めていたビスケが口を開いた。彼女のほうは眺めていると言っても、見定めるような鋭い目つきだったけれど。

「どう、手のほうは?」

 そしてその見定めるような視線は、そのままキルアの両手へと向けられる。

「ミリ単位で動かしてもイテー。全然修行の目途立たないね」

 包帯でぐるぐる巻きの両手はレイザーとの戦いでの結果であり、キルアにとってはある種勲章のようなものでもあった。キルアじゃなきゃダメなんだ、と言ってもらえたことを思うと、今でも胸の奥がくすぐったい気持ちになる。

「その割に嬉しそうなのはどうしてかしらね。ま、アンタはしばらくは治療に専念なさいな」
「あぁ」

 キルアは珍しく素直に頷いて見せたものの、腹の中では違うことを考えている。だって、期限は刻々と迫るのだ。ゴンの修行が無事にこの短期間で形になるかわからないし、なったとしても実戦で必殺の武器になる保証はない。しかも相手は三人組。いくらキルアの手が使えない状況とはいえ、全てをゴン任せにはしていられないし、もちろんするつもりもなかった。

「ビスケ、オレちょっと抜けるから。ゴンのこと、よろしく」

 よっと、足の反動だけで立ち上がり、キルアは言った。嘘を言ってもどうせバレるから言わないけれど、わざわざ本当のことを言う必要もない。
 上瞼を平らにしたビスケは、じとりと呆れたような視線を向けてきた。

「……アンタねぇ、今さっき治療に専念するって言ったばかりじゃないの」
「だからって、ゴンの修行ボーッと見てたってしょうがねーだろ」

 駄目なのは手だけで、足は普通に動く。そして手を動かすと痛いのは本当だが、痛みを我慢することにも慣れていた。

「まったく、あんまり遠くに行くんじゃないわよ」

 キルアが言い出したら聞かないのをわかってか、ビスケはため息をついただけでそれ以上引き留めることはしなかった。ウイングさんは絶対安静と言ったら絶対安静だったが、ビスケはわりとこういうところは融通が利く。場数を踏んでいる分、無茶することに慣れているのかもしれない。

「じゃ、そーゆーことで。ま、そんな遅くはなんないよ」




 物事は常に悪い状況を想定して考えたほうが良い。つまり、この場合ゴンの修行が空振りに終わる。そして三人はバラバラになって、連携の取れない状況で各自戦うしかなくなる、というようなケースだ。
 一人、足を伸ばしてアントキバ方面の森にやってきたキルアは、周辺の気配を探って誰もいないことを確認する。ちょうど月例大会は終わったばかりで、この時期であれば他のプレイヤーに出くわす可能性も低かった。少なくとも、キルアの身体能力をもってしても脅威になるような、強力な呪文スペルカードを持った敵に出くわす心配はない。

 キルアは痛みをこらえながらポケットにそろりと手を突っ込むと、掌で救い上げるようにして丸い金属の塊――ヨーヨーを取り出した。これはニ回目のハンター試験を受けるために外へ出た際、ついでにミルキに作らせた代物だ。特注の合金でできていて一つ五十キロ近くもあるから、ズボンに細工してサスペンダーで内側から吊っていなければ、隠し持っているのがバレバレになってしまう。幸いにも、この隠し玉はまだビスケにもゴンにも見つかっていなかった。一番近くにいる彼らが気づかないのであれば、初見の敵に警戒されることもないだろう。
 まさかこれを依頼したときは手が使えなくなるなんて思っていなかったけれど、それでもキルアはこの武器をモノにしなければならない。遠心力を利用して、二の腕でぐるぐると糸を巻き取る。肩を大きく動かすことで狙った位置に投擲するのは、なかなかコントロールが難しい。

「痛ッて」
「クソッ! 外した」
「今のスピードじゃ、巻き戻りが遅い」
「投げたあとも糸の加減で軌道を修正して……」

 ゴンを真面目だの何だのと思ったところで、結局キルアだって修行となれば没頭するタチだ。それに昔みたいに嫌々やる修行ではなく、今のキルアは自分で望んで強くなりたいと思っている。ゴンに置いていかれないように、いざというときゴンの力になれるように、キルアは強くなる必要があるのだ。
 何十回、何百回と投擲を繰り返し、キルアは少しずつコツを掴んでいく。おかげでここらの森は少し荒れたが、上達するにつれ狙いはどんどんと精確になってきた。

「よし、これでどうだ!」

 大きく振りかぶって投げたヨーヨーが、森の木々の間を縫うような軌跡を描く。狙いはバッチリ。あとは正面奥の木の枝に引っかけて、目印として置いた石にぶつけることができれば成功だ。ぎゅるぎゅると糸の巻き付いた枝は、がさがさと大きく揺れて葉を落とす。負荷をかけるには少し細すぎたか。キルアが内省していると、とうとうボキッと乾いた音がして枝が折れる。と、それだけでなく、一緒にぼとりと何か黒っぽい影が地面に落ちた。

ったぁ! ひどーい、キルア!」
「なっ!?」

 まるで虫のように地面にひっくり返って落ちたのは、なぜここにいるのかが全く理解できない女。キルアは衝撃のあまり口をあんぐり開け、ようやく言葉を発することができたのは、彼女が立ち上がってこちらの目の前に来てからだった。

「……あ、姉貴!? な、なんでここに!?」

 一番上の、順番で言えばあのイルミよりも上の姉になる。だが彼女は一族きっての自由人で、家にいるのを見かける方が少ない。一応、暗殺の仕事はやっているらしいが、パドキアとは別に居を構えているし、キルアもここ数年はほとんど会うことがなかった。その姉となぜか今、グリードアイランドという特殊な環境で再会している。キルアが困惑するのも当たり前だった。

「なんでって、そりゃ追ってきたからに決まってるじゃない」
「追ってって……だからなんで」
「あー心配しなくていいよ、別にイルミの差し金とかそういうんじゃないから」

 一番の疑惑を即座に否定され、キルアは緊張の糸を緩める。しかし、監視されていたことには変わりない。未だ疑いの目を向けるキルアに向かって、姉は小さく肩を竦めて見せた。

「この前、久々に実家に帰ったの。そしたらキルアが出てったって。それはまあいいんだけど、ミルキにだけコソコソ連絡とって、他の皆には一言も挨拶無しだって。酷くない?」
「つーか、その前の出てったとこはいいのかよ……」
「それは私も人のことは言えないし。でも、たまには帰ってきなよ。ミルキに頼んだ武器も郵送で受け取ったんでしょ? そういうの寂しいじゃん、家族なのにさあ」

 聞こえだけは真っ当なことを言われ、キルアは返答に窮してしまう。ただ、とりあえずキルアが旅に出たこと自体は反対していないらしい。

「だから会いに来ちゃった。ミルキを吐かせて、キルアがゲームの中にいるって聞いたから」
「簡単に言うなよな、オレたちがどんだけ苦労して参加権を得たと思ってるんだよ」
「そりゃ正攻法じゃね。富豪に雇われて入ったあんたも、金で競り落とそうとしたミルキもいい子ちゃんなんだから。そーゆー青臭いの、大人はやんないのよ」

 実際のところ、ゴンがいなければキルアだってそういう力任せなことをしたかもしれない。少なくとも姉がそういう考え方なのは、何も彼女の性格のせいだけではないだろう。ゴンに出会えて光の道を知った後でも、それでもよく見知った闇の生き方はあまりにも居心地が良かった。無理に束縛されたり、強制されたりするのでなければ、キルアも久しぶりに姉に会えて嬉しい。もちろん、そんなことは面と向かっては気恥ずかしくて言えないのだけれど。

「はいはい、じゃあもうこうやって会ったんだし十分だろ。心配しなくてもオレは元気にやってるって」
「えー冷たい。久しぶりに会ったんだし、近くの町に行ってお茶でもしながらゆっくり話そうよ」
「ヤだよ」
「ひーどい」

 そう言うと、姉は両手を目の下にあてて泣き真似をする。キルアが断ったのは単に恥ずかしいからというだけではなく、そう悠長に過ごしている余裕がないからなのだが、それでもなんとなくばつの悪い思いがした。

「敵に見つかるかもしれないから町にはいけない。それにオレ、修行しなくちゃなんないだって」
「昔はあんなに嫌がってたのに?」
「これは暗殺のための修行じゃない」
「ふーん」

 そうやって首を傾げていると、イルミに雰囲気が似ている。姉弟だから当たり前なのだが、それ以外にも長い黒髪が嫌でも兄を思い起こさせた。

「じゃあいいよ、ここで。お菓子でも食べながら話そうよ」

 けれども姉と兄の性格はあまり似ていなかった。昔から姉は気まぐれで、何かに強く固執することはない。今回もまたあっさり諦めたのか気が変わったのか、ポケットから小瓶を取り出して白い錠剤をぼりぼりと食べる。

「なんだよそれ」
「ラムネ?」

 食べておきながら疑問形の回答をして、姉は小瓶の口を傾ける。

「ほら、手出しなよ」
「無理言うな。見ろって」
「えーじゃあお姉ちゃんが食べさせあげよっか?」
「いらねぇ!」

 キルアが赤くなって口を真一文字に引き結ぶと、彼女はけらけらと笑った。どうやら冗談だったらしい。こちらがムッとすると余計にそれがツボに入ったみたいで、腹を抱えて大笑いする。

「アハハ! キルアったら照れちゃってかーわいっ」
「あのなぁ……」
「だって、だって可愛かったんだもん」

 それにしても笑いすぎだろう。賑やかな笑い声は次第に、ひゅーひゅーという喘鳴に変わる。

「姉貴……?」

 思わず心配になって彼女を仰ぎ見れば、思っていたより近い位置に顔があった。何かがおかしい。いくら姉が腹を抱えているからって、この目線の高さは――。

「お、おい、姉貴!?」

 ゆっくり、それでいて確実に、彼女の身体は小さくなっていた。背が小さくなっただけではない。すっきりとした頬のラインはあどけない丸みを帯び、逆に曲線を描いていた身体はずいぶんとすとんとしたものになった。彼女は驚いた表情で自分の小さな手を握ったり開いたりすると、それからキルアのほうを見てへらりと笑った。

「……なんか、子供になっちゃった」




 指定ポケットカードNo.065、魔女の若返り薬。
 姉がラムネだと言ってぼりぼり食べていたものの正体は、キルアの確認によってすぐに明らかになった。

「バッカ、なんでこんなの食ったんだ!」
「だってまさかホントに効くなんて思わないじゃん!」

 今の彼女はキルアよりちょっと幼いくらいだろうか。一粒飲めば一歳若返るらしいので少なくとも十数粒は食べてしまったのだろう。若返るのは肉体のみで、知識、記憶などはそのまま残るそうだが、年齢以上の量を食べると死んでしまうとも書かれている。キルアはカードの説明を読んで肝の冷える思いがした。

「だからってフツー一気にそんな食わないだろ、それでも暗殺者なのかよ!」
「だって毒なら効かない自信あるし……それが裏目に出ちゃったね」

 時間が経てば戻るものなのだろうか。それならいいが、このゲームの中は結構世の中の常識を覆してくるのだ。そしてキルアがこんなに頭を抱えているというのに、当の本人は物珍し気にしているだけでちっとも不安そうでないのが癪に障る。

「なんでそう他人事なんだよ! あーもう!」
「だってなっちゃったもんは仕方ないし、死んでないからオッケーオッケー」
「それは結果論だろ!」
「世の中結果が全てなんだよ、キルア」

 大人の姉に言われるならまだしも、小さな子供に言われるのでは説得力の欠片もない。キルアは盛大なため息をついて、近くの木の根元に座り込んだ。

「ブック!」

 唱えれば、空間にバインダーが出現する。それを見て、おおーと感心したように声をあげた姉は本当にこの島のことを何も理解していないのだろう。

「それ、私がボコった奴も持ってたよ。薬もそいつが持ってたんだけど、罠だったのかな」
「姉貴が勝手に自滅しただけ。はい、このカードやるから、マジで帰れって。唱えるだけでいい。ゲームから出ればその薬の効果も消えるかもしれない」

 一応、離脱リーブのカードも貴重な物だが、どうせゴンはすべてのカードを集めて正攻法でこの島をクリアするつもりでいる。子供姿の姉にうろちょろされるよりは、さっさと現実世界に返してしまった方が安心だった。

「せっかく来たのにもう帰れって言うの? もうちょっとこの姿で遊びたいんだけど」
「満喫すんな。いいから帰れって。それで身体が戻んなかったら豚くんに相談。いいな?」
「えーキルアの意地悪」

 ぷく、と頬を含ませた姿は今の見た目年齢ならば特に問題はない。しかしながらそこで急に何かを思いついたらしく、不機嫌さもどこへやら、彼女はにんまりと笑った。

「じゃあ、これだけ試したら大人しく帰る」
「……なんだよ」

 どうせろくなことを言わないんだろう。嫌な予感がして身構えたキルアだったが、姉の動きはそれよりも早かった。いきなりぎゅっと抱き着かれて、キルアは思わず固まる。だが、本当の意味で固まったのは次の姉の言葉を聞いたときだった。

「お兄ちゃん、だいすき
「……」

 頭の中でがつん、と何かに殴られたような衝撃があった。知っているはずなのに、思い出せない。頭に白い靄がかかったみたいに、上手く考えることができない。
 そっと身を離してこちらの様子を伺う姉は、妹の顔・・・をしていた。

「キルア? おーい、大丈夫?」
「あ、あぁ……」

 目の前で手をひらひらと振られ、キルアはかろうじて頷いた。何が起こったのかわからない。呆然としているキルアを見て、あちゃーと姉は呟いた。

「ごめんね、刺激が強すぎた? でも、ほんとにたまにはうちに帰ってきなよ。あの子も待ってるからさ」

 意味の分からない言葉。だが、キルアが聞き返す間もなく、姉はさっさとカードを手に取る。

「待っ、」
離脱リーブ

 その瞬間、光に包まれた姉の身体が、ひゅんと目の前でかき消えた。


△▼


「お兄ちゃん お帰りなさい」

 その姿を見たときに、ぎょっとしなかった、と言えば嘘になる。だが、イルミはもともと訓練をしなくても感情が顔に出にくいタイプであったため、驚いて声を上げることもなくただ目の前の少女をじっと見つめるだけにとどまった。

「あれー? おかしいな、アルカに似てない? 私」
「……そりゃ、姉弟だからね」

 まず姉が実家に戻ってきていることにも驚いたが、針を使った覚えがないので彼女がどうして急に子供の姿になっているのか皆目見当がつかない。しかもご丁寧にアルカの服まで引っ張り出してきているので、冗談だとしても性質たちが悪かった。

「つまんなーい」

 実はこれでもイルミなりに盛大に困惑していたのだが、どうやら姉はイルミの反応をお気に召さなかったようだ。あからさまに小さな唇を尖らせて、不機嫌を示す。

「昔のイルミはもうちょっっっっとだけ可愛かったのになぁ」
「そんなことより、なんで子供になってるの?」
「変な薬飲んだの。そしたら縮んだ」

 いったいどこから突っ込めばよいのかわからなかったので、イルミは黙った。この姉は昔から突拍子もないことばかりするので扱いに困る。

「戻るの?」

 せめてそれだけは確認しておこうと思い尋ねると、案の定というべきか、知らなーいとお気楽な答えが返ってきた。

「今、とりあえずミルキになんとかならないか調べてもらってるの。最悪、戻らないかもね」
「他人事みたいに言うんだ」
「だって仮に私がこのまんまでも、ちょーっと姉弟の順番が入れ替わるだけでしょ? それって問題?」
「……」

 問題がないと言えばないし、あると言えばある。少なくとも、中身は姉のままで特に幼児退行などはしていないらしい。こうやって口で言い負かされているのが良い証拠だ。
 昔から、イルミは姉に口では勝てた試しがなかった。ああ言えばこう言うの典型的なパターンで、途中からイルミが議論するのを諦めるからというのが主な理由なのだが。

「大丈夫大丈夫、たとえ妹になっても私はどこにも行かないよ」
「真っ先に家を出て行っといて、どの口が言うのさ」
「違う違う、最終的にはここに戻ってくるってこと。何があっても、私たちは家族。それは変わらないでしょ?」
「そう」

 まったく調子のいいことを言う。イルミはひとまず姉について頭を悩ませるのはやめた。ミルキがなんとかするならそれでいいし、できなくても姉の言うように特に大きな問題はない気もしてきた。それよりも彼女には言っておきたいことがある。

「家族って言うなら、たまには帰ってきなよ」

 姉は一瞬きょとんとすると、すぐに笑った。さっきの不機嫌はもうどこかに消え去ったらしい。

「やっぱおんなじこと言うんだね。姉弟だからかな」
 

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