- ナノ -

■ あたらしい日々のような終わり

 眠れない日が続いていた。ここ最近ずっと、そうだ。
 前のわたしが一体どうやって眠っていたのか思い出せない。力を抜く。瞼を閉じる。ゆっくりと息を吸って、吐く。身体の方はそれでいい。そうでなくても身体はずっしりと重く、蓄積された疲労を余すことなく訴えていた。
 前のわたしは眠る前はどんなことを考えていたんだっけ。その日一日の振り返り? それともくだらない妄想だったっけ? けれども、眠りたいのなら何も考えないほうがいい気がする。唯一の問題は、それが口で言うほど簡単ではないということだ。

 わたしはとうとう堪えきれずに寝返りをうった。なるべくそっと、音をたてないように気を使って。つるりとしたシーツの感触がむき出しの肌をなぞる。髪と枕が擦れるかさりという音が、やけに大きく響いた気がした。

「眠れないの?」

 かけられた声に、思わず息を詰めた。が、すぐに何をやっているんだろうと思って脱力する。起こしてしまったものは仕方がない。
 うん、と控えめに、向き直った方向に返事をした。

「ごめん、起こすつもりはなかったんだけど……」

 わたしは夜、電気を消して真っ暗にしないと眠れない人間だった。セックスをするにしたって、明るいのは苦手だ。だから、今この部屋は真っ暗で、わたしから彼の姿は見えない。すぐそばにいるはずなのに気配もしなかった。彼の腕が伸びてきて、直接わたしの頬に触れるまでは。

「別に気にしなくていいよ。殺気とかじゃない限り、普段はスルーしてるし」

 形を手探りで確かめるように、彼の指がわたしの輪郭をなぞる。そんなことをしなくても夜目の効く彼には見えているはずだ。されるがままに大人しくしていると、熱い指が耳の中に侵入してくる。ぴくり、とわたしが肩をはねさせたのをみて、彼は小さく笑ったようだった。塞がれた耳からはごうごう、と海鳴りのような音がした。

「聞こえる?」
「……イルミの、血の流れる音?」
「いや、筋肉の音らしいよ。腕の」

 ふうん、とわたしは納得したような、していないような相槌を打った。彼の振る舞いが唐突だったせいもある。その間もずっと、イルミの指はごうごうと音を立てていた。わたしにはやっぱり、これが水の流れる音に聞こえる。もしくは、潜った水の中で聞く音だ、とも感じた。もちろん、記憶になんてないけれど、羊水の中で聞く音はこんな感じなのかもしれない。そこまで考えてやっと、彼は自分を安心させようとしているのだとわかった。わかって、その不器用さにちょっと可笑しさがこみあげた。
 まるで、動物や子供を手懐けようとしているみたい。

「あのね、イルミ、」
「今更、やめにしたいって言っても無駄だよ」

 わたしを遮った彼の口調は穏やかだった。が、その声色はそうでもなかった。どこか、有無を言わせない響きを持っている。血も涙もない(とされている)暗殺者相手に言うのもなんだが、わたしが続ける言葉の先を恐れているような雰囲気すらあった。

「違う、そうじゃないよ。ちょっと、思ってたけど」
「知ってる。全部、顔と態度に出てたよ。ナマエはわかりやすすぎる」
「……そんなに不安そうだった、わたし?」
「何が不安なのかはちっともわからないけどね。ナマエのそれは、よくあることらしいよ」

――マリッジブルーって、いって。

 イルミの淡々とした口ぶりで言われると、尚更なんてことのないようなものに聞こえた。けれども、わたしはかえってムッとした。不安にラベルをつけたって、それがなくなるわけじゃない。むしろ、月並みな言葉で表現されたことで軽んじられた気もした。だって、わたしの結婚は、みんなよりもはるかに普通じゃないもの。人より不安になっても、当たり前じゃないか。第一、結婚はまだわたしたち二人の間で約束しただけで、彼の両親はまだわたしのことをよく知らないのだ。もちろん、イルミのことは愛しているし、愛しているからこそプロポーズを受けたが、ここから先は好きだけでなんとかなる話ではないような気もする。後になってじわじわと、そう考えるようになってしまった。

「イルミは不安じゃないの?」
「無いね」
「反対されるかもしれない」
「それも無いと思うよ」
「そんなの、わからないじゃない」
「わからないからって、会う前から不安がったって仕方ないだろ。だいたい、反対するなら“連れてきなさい”なんて言われないよ」
「それで能天気に訪ねていったら、うちの嫁には相応しくないって一蹴されるの」
「変なドラマの見すぎ。ナマエが思ってるより、うちはずっと“普通”だよ」

 嘘だ。それだけは、絶対に嘘だ。
 口にはしなかったが、わたしのだんまりで、言いたいことは伝わったらしい。イルミの手がなだめるように頭を撫でた。どうどう、という掛け声が聞こえてきそうな雰囲気だった。

「じゃあ、こうしよう。もしも反対されたら強行しよう」
「……」
「先に籍をいれてしまうとか、子供をつくるとか。そうすればナマエも逃げられないし」
「え」

 急に不穏な言葉が聞こえてきて、わたしはぽかん、と口を開けた。暗闇のせいでわたしからイルミの表情は見えなかったけれど、彼にはこの驚愕の表情が見えていたことだろう。慌てて身を起こそうとすると、やんわりと、それでいて強い力で阻止される。持ち上げかかった頭は再び枕に沈んだ。どうどう、どうどう。

「さっきは不安なんてないって言ったけどさ、一応オレも危惧はしてたよ。最近、ナマエが考え込んでるの多かったしね」

 そういいながらも、聞こえてきたイルミの声は機嫌がよさそうだった。それなりに長い付き合いだからわかる。よっぽど、先ほどの思い付きを気に入ったみたいだ。結局、不安が解消されたのはあっち。けれども、わたしもそのまま腕の中に抱き込まれて観念する。

「土壇場になってやめたいとか、そういうの無理だから」

 そこまで言うなら、任せようか。少なくとも、彼にぴったり寄り添っているのは心地が良い。そうやって身を任せていると、あれほどご無沙汰だった眠気もこみあげてきた。力を抜く。瞼を閉じる。ゆっくりと息を吸って、吐く。「え、寝るの?」彼にしては珍しい、虚を突かれたような声したが聞き流した。それでも眠りに落ちる前に考えていたのは、やっぱりイルミのことだった。
 たぶん、これが前のわたしの眠り方だった。

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