■ ◆あなたのための干渉
どこもかしこも、塗りつぶしたように真っ白。朝だというのに一片の切れ間もない曇り空がやや鈍色なくらいで、少し吹雪けば、視界はほとんど奪われてしまうだろう。
くしゅん、と大きなくしゃみをひとつしたアルカを気遣って、キルアは妹の顔を覗き込んだ。一応、これでもかというほど着込ませたつもりではあるが、ずっと閉じ込められてきた彼女には少々厳しい環境かもしれない。標高の高いククルーマウンテンには年のほとんど冠雪がみられたが、能力が明るみになってからのアルカは自分の家の敷地ですら満足に外に出たことがないのだ。暖かい部屋に温かい食事、ぬいぐるみやおもちゃを与えられていたとしても、キルアには牢だとしか思えない。しかしながらキルアがそんなひどい場所から妹を救い出せたのは、ほんの数か月前のことであった。
「大丈夫か? 寒いなら、無理せず宿に戻るのもアリだぞ」
やっと手に入れた自由とはいえ、あまりに人が多い所にアルカを連れていくのは不安だった。だからまずは世界の色んな景色を見せてやれたらいいと思っているが、優先すべきはもちろんアルカの意思だ。
「ううん、大丈夫。それよりあたし、お兄ちゃんと一緒に雪だるま作ってみたいな」
寒さで鼻の頭を赤くしながら言われたおねだりは、とても可愛いらしいものだった。断ったってなにも酷いことは起こらないけれど、そもそもキルアが妹の願いを無下にするわけがない。
「もちろん。いっそのこと、デッケーの作ろうぜ!」
キルアにとってアルカとの旅は、アルカのためでもあったし、失われた兄妹の時間を取り戻す目的もあったし、さらにはキルア自身の贖罪の意味もあった。イルミの針のせいとはいえ、キルアがアルカのことを忘れていたことには変わりないのだ。もっと早くに針に気づいていれば、と思った回数は数知れない。そして、自分に針が仕込まれていた事実を踏まえて、キルアにはもう一つ気になっていることがあった。
「……なぁ、アルカ。お前はナマエ姉のこと、どう思う?」
脈絡がないのは自分でもわかっている。だが、一面の雪景色は二人きりの世界を思わせて、なんとなく本音で話せるような気がした。
キルアが問いかけると、まだまだ小さな雪玉を転がしていたアルカは手を止める。この妹が家族の誰のことも悪く言わないのを知っていて、キルアはそれでも尋ねたかった。
「ナマエお姉ちゃん? 好きだよ。もう、随分会ってないけど」
「今回の件にも、関わってこなかったよな。何考えてんだろ……」
後半はほとんど独り言に近い。普通に姉弟として過ごしたキルアですら、彼女の事はよくわからないのだ。順番で言えばナマエはイルミの一つ上にあたり、仕事だけはしているものの、暗殺者の心構えだとか家の事だとかにはまるで関心が無いように見える。他の家族のようにキルアを後継者として
特別扱いしない点には気安さも感じるが、それだけだ。積極的にキルアに味方してくれるわけでもないし、掴みどころがないという他ない。
「そういえば、お姉ちゃんはナニカにお願いしたことがあるはずだよ」
「え?」
「ナニカがお姉ちゃんはスキって」
アルカとナニカ、二人の意識がどれくらい共有されていて、中でどのようなやり取りがあるのかまではキルアにはわからない。ただ、アルカはナニカを認識しているし、キルアがナニカを消そうとしたときには“蹲って泣いている”など状態を伝えていた。
「たぶん、能力のこと、お兄ちゃんより先に知ってたんじゃないかな」
突然もたらされた驚きの情報に、キルアはどう反応していいのかわからなかった。確かに、念も知らない幼いキルアよりも、姉のほうがナニカの力についての理解は早かっただろう。それでも執事が気づくまでは家族の誰にも言わず、利用しようともしなかった。
自分以外にもそういう家族がいたかもしれないことに、キルアはほんの少し嬉しくなってしまった。
「……なぁ、ナニカに聞いてみてくれないか? ナマエ姉に会いたいかって」
「いいよ」
言って、アルカは目を閉じる。これまではナニカのせいで、アルカが不自由な目にあっていると考えていたが、アルカもナニカも両方とも大事なキルアの家族なのだ。だから、そのナニカが“スキ”だと言うのなら、ナニカが望むのなら、キルアは願いを叶えてやりたい。
ややあって、目を開けたアルカはにっこりと笑った。その表情を見て、キルアはいつの間にか疎遠になってしまった姉の連絡先が、変わっていなければいいなと思った。
「なんか、背伸びたね」
「久しぶりに会って、まず言うことがそれなのかよ」
久しぶりだからこそ、弟の成長が目についたのか。いや、それにしたってもっと他に言うべきことがあるだろう。宿の暖炉に手をかざしながら、ナマエはごく普通の世間話しかしなかった。キルアとアルカに対して家に戻れと言うわけでもなければ、出られたんだね、よかったねと寄り添ってくれることもない。もっと着込んでくればよかった、とぼやきながら、暖炉にかじりついているばかりである。
キルアは相変わらずなナマエの様子に脱力しつつも、同時にとても安心していた。変わっていなかった連絡先に一報を入れると、偶然近くの国で仕事を終えたばかりだった姉はわざわざこちらに寄ってくれたのだ。
「アルカはともかく、うちでの訓練を思えばこれくらいの寒さどうってことないだろ」
「昔の事なんて覚えてないよ、とにかく今寒いもんは寒いの」
「ナマエお姉ちゃん、あたしのことも覚えてない?」
アルカが尋ねると、ナマエはまじまじと彼女の顔を見つめた。それがあまりにも長いものだから、キルアは一瞬、姉も
自分と同じなのではないかと思ったくらいだった。
「もちろん覚えてるよ、アルカと、それからナニカ。七年? 八年? それくらいぶりだよね?」
「……覚えていて、放置してたのかよ」
どうやらイルミの針で記憶を消されていたというわけではないらしい。アルカを長年救えなかった罪は自分にもあるが、知ったうえでそのままにしている姉のほうがよほど悪いのではないだろうか。キルアが遠慮なく非難の目を向けると、ナマエは小さく肩を竦めた。
「あの家でのアルカの扱いは、そこまでひどくなかったと思うよ」
「それ、本気で言ってんのかよ」
「少なくともあの部屋にいたから、アルカは地獄のような訓練も殺しの仕事もさせられてない。違う?」
「……」
確かに、“ゾルディック家の当たり前”から逃れられているのは良いことだろう。山のようなぬいぐるみからも、両親たちに愛情がないわけではないと伺える。だが、ああやって閉じ込められているのはアルカにとって間違いなく不幸だろう。おまけに、いざとなれば
家族ではないとして、切り捨てられようともしていたのに。
「今回、アルカは殺されるかもしれなかったんだぞ」
喧嘩をするつもりで姉を呼んだわけではない。それでもキルアは突っかからずにはいられなかった。
「え?
家族内指令って家族殺しはタブーじゃなかった? なんか難しそうだから首つっこまなかったけど、どうせいつものようにイルミの脅しでしょ」
「……あれは本気だったぜ。だけど、ナマエ姉はアルカのことを家族だとは思ってるんだな」
キルアがそう言うと変な確認だと言わんばかりに、ナマエは首を傾げた。やっぱり掴みどころのない姉だけれど、それが聞けただけで十分である。
家族扱いされたアルカが、隣で照れくさそうにしているのが伝わってきた。
「それにしても、キルアがアルカを連れて逃げたって聞いたときはびっくりしちゃった。ずっとアルカのことを忘れてたのは、キルアのほうじゃない」
「忘れさせられてたんだ、イルミの針で」
「え、そうだったの!?」
忌々しい思いで、キルアは自分の額に触れる。ここに小さな針が埋め込まれていたのだ。事情を話すとナマエはとても納得した様子だった。それから、ようやく暖炉から離れて、ぽんと手を打つ。
「じゃあ、もしかして私も操られてるのかな?」
「は?」
「今のキルアと変わらないくらいの昔なんだけどさ、私も入れられた覚えがあるんだよね。なんかお前のためって言ってたから、そのままにしてるんだけど」
「はぁ!? 馬鹿なのか!?」
一回り以上年の離れた姉に言うべきことではないが、それでもつい口から出てしまう。針を仕込まれたことを自覚したうえで放置しているなんて、一体どういう神経をしているのか。いや、操られているからこそ、疑問に思わずそのままになっているのか。
「お姉ちゃん、大丈夫なの?」
アルカの心配ももっともだ。自分の額を撫でていたナマエは、取った方がいいのかな、なんて呑気に構えているけれど。
「当たり前だろ!」
「そう? じゃあ取ってみるね」
アルカは見ないほうがいいよ、とだけ言うと、姉の指先が鋭く変形する。痛そうに顔をしかめながらも、しっかりと場所はわかっているらしく、ナマエの指は迷いなく額を突き刺していた。流れた血が目に入りそうになるのを、もう片方の手で拭う。
「あった、あった」
そう言ってナマエが取り出したのは、キルアに仕込まれていたのと同じ、ごくごく小さな針だった。手のひらの上にのせてまじまじと針を観察する姉を、キルアは固唾をのんで見守る。
「それで……どう、なんだよ」
「うーん、わかんない」
「わかんないってなぁ!」
「そう言われても、キルアのこともアルカとナニカのことも家族だと思ってるし、かといって父さんやイルミに反抗したいって気持ちも特に湧いてこないし、仕事もめんどくさいだけで嫌っていうほどじゃない。抜いても抜かなくても一緒だよ」
「……」
姉の言う通り、彼女の態度に変わった点はない。だが、事実、針は入っていたのだ。何の意味もないなんてことがあるはずがない。
「すぐに気づくようなことじゃないのかも……」
「アルカの言う通りだ、絶対抜いてよかったぞそれ」
「あはは、イルミってすごい信用されてないんだね」
キルアにとっては当たり前すぎることを言われて、なんと言えばいいのかわからなかった。あの兄を信用しろと言う方がどうかしている。ただ、やはりナマエはあくまで中立なのだということはわかった。アルカを家族だと言ったように、イルミのことも家族として信用しているのだろう。
「一応言うけど、俺たちの居場所は言うなよ」
「いいよ。だけど二人が見つかってないってことは、探されてないか、あえて泳がされてるってことじゃない?」
「まぁ、だろうな」
世界中のどこにいたって、ゾルディックはターゲットを見つけ出し暗殺する。その情報網を持ってすれば、子供ふたりを見つけ出すことくらいわけないだろう。今のところ追っ手も監視の目もないことを確かめているので、ある意味今の状況は作られた自由だとも言える。ただ、そんな仮初の自由でも、キルアはアルカに色んなものを見せてやりたかった。
「私はね、何事もやりたい人がやればいいと思ってる。その方がうまくいくと思ってるんだ。たとえ向いていても嫌々やるキルアより、仕事に生きてるイルミがうちを継ぐ方が結果的にいいんじゃないかって」
額の穴が開きっぱなしになっているのは滑稽だが、姉から出たのは至極まともな意見だ。キルアはちょっとだけ不貞腐れた気持ちになる。
「……そう思うなら説得はしてくれないのか?」
「イルミに口では勝てないよ」
「それでも姉貴かよ」
「今キルアが抜けた穴は私が埋めてる。それでチャラにしてよ」
「……」
そうはっきりと言われてしまうと、キルアは強くは言い返せなかった。聞けば、姉はこのあとも仕事らしい。こちらに寄ったのも、久しぶりに弟妹の顔を見るためだけではなく、この雪国での依頼が入ったからだそうだ。
「最悪、雪の中でターゲットを待たなきゃいけないかもしれないんだ」
「寒がってたくせに、大丈夫なのかよ」
「うん、そういえばなんかもう寒くないな。慣れたのかも」
「間違っても寝るなよ」
「うん。キルアもアルカも元気でね。ナニカに会えなかったのは残念だけど、ナニカにもよろしく」
呑気に見えても、姉も姉なりに苦労しているのだろう。少なくとも時間的な余裕はないようで、ナマエは最後にアルカの頭を撫でると、慌ただしく部屋を出て行った。
「行っちゃった。額の傷、ナニカなら治してあげられたのに……」
△▼
ある日。イルミが仕事を終えて家に帰ると、なぜかナマエが玄関口で待ち構えていた。お互い仕事で忙しい日々だし、姉は遠方の仕事をはしごして家に戻らないことも多いので、まともに顔を会わせるのは久しぶりかもしれない。
ただいま、とイルミが言えば、ナマエもお帰り、と返す。彼女はそのまま、目の前でくるりと一周して、何か気づくことはない? と首を傾げた。
「針取ったでしょ」
「正解! やっぱりわかるんだ」
イルミが仕込んだ針なのだ。術者であるイルミにわからないわけがない。ただし彼女の変化に限っては、他の者だってわかるに違いなかった。
「馬鹿だね。右足、壊死しかかってるよ。あと、左手の小指も折れてる」
「え、ほんとだ。全然気づかなかった」
「前にも説明したんだけど、馬鹿だから忘れたのかな」
一応、年齢的には一つ年上だが、イルミは遠慮なく馬鹿を連呼する。一方の姉もそれで特に気分を害した様子はなく、不思議そうに自分の左手を見つめていた。
「手、貸して」
「はい」
なんの警戒心もなく差し出された左手を、イルミは少々乱暴に掴む。それから折れている小指の隣、薬指に力を入れて、ぼきりと目の前で折った。
「痛い?」
「ううん」
「だろ。姉さんは生まれつき痛みを感じないんだよ。だから痛みを感じるように、針を入れておいたんじゃないか」
「ええ、そうだっけ。でも、なんでわざわざ痛くするのよ」
「痛くないと加減ができずに自滅するし、自分の危機にも気づけないから」
拷問など、あらゆる苦痛に慣れなくてはならないゾルディック家において、彼女の体質は一見有利なようにも見える。だが、実際には痛みに
鈍感でいることと
感じないことはまったく別物なのだ。イルミが念を覚えたとき、同じ説明をして彼女の額に針を入れたのだが、ナマエはそれをすっかり忘れていたらしい。
「もちろん、針のことは父さんも母さんも知ってる。姉さんだって、同意のうえだったじゃないか」
「ごめん、取っちゃった。じゃあ悪いけど、また入れてくれない?」
「……」
あまりに軽い調子で言われたものだから、イルミは思わず閉口した。もちろん、昔も今も姉の為に針を入れることに変わりはないが、あまりに警戒心がなさすぎるというか、あっさりと刺されてくれるのもどうかと思う。信用されているということなのだろうが、どうしてこうも腹が立つのだろうか。
「急に言われても無理。あの針、特別製だから」
「忙しいのに仕事増やしてほんとにごめん……」
「次入れるやつは、とびきり感じやすくしておくね」
「それだけは勘弁してください。この薬指でチャラにしてよ」
言いながら、姉は紫色に腫れあがった指を掲げる。彼女の言う通り、イルミが薬指まで折ったのはあてつけだ。痛みを感じないことをわからせるには、折れた小指を握るだけでも十分だったのだから。
「……考えとく」
「私はいい兄弟を持ったね」
嫌味なのか、本気で言っているのか、イルミにもわからなかった。この姉は昔から掴みどころがないし、何を考えているのかちっとも読めない。ただ、人を陥れたり利用したりするだけの頭もない馬鹿だということはわかるので、彼女もまたイルミが面倒を見るべき姉弟の一人なのだろう。
「そう思ってるのは、姉さんくらいだろうけどね」
イルミがため息をつくと、ナマエは笑った。笑っただけで、そんなことはないよと否定してこないのが、姉らしいと言えば姉らしかった。
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