- ナノ -

■ ペルソナ・ノン・グラータ

 ぴたりとやんだ会話。逸らされる視線。
 ここまで露骨だと、逆に笑えてくるものだ。
 こちらが姿を見せた瞬間、口を噤んで廊下の端に寄った同僚たちに、ナマエは努めてにこやかに笑いかける。

「お疲れさま」
「……お、お疲れさま」

 別に、ナマエは一家の血縁でも、彼らの上司でもなんでもない。彼らの多くと同じように、物心ついたときからこの養成所で暮らして、生き延びて、執事になった。それなのに、真面目に仕事をしているだけで恐れられるなんてあんまりだろう。
 けれども、ナマエのほうでも理由に心当たりがないわけではなかった。むしろ最近の執事邸は、ナマエの存在に関わらず全体的にぴりぴりとしている。死人が出たのだ。それも多くの。

 ナマエは笑顔を浮かべたまま、同僚たちの前を足早に通り過ぎる。あからさまにほっとした空気が流れるのを背中に感じたが、そんなことはもうどうでもよかった。向かう先は本邸だ。イルミ様がもうすぐお帰りになるらしい。
 

「お帰りなさいませ、イルミ様」

 この家のご長男であるイルミ様には、まだ直属の執事はいない。だから、誰が出迎えるかなど決まっているわけではなかったが、だいたい顔ぶれはいつも同じだ。
 有象無象の執事たちのなかで、イルミ様の覚えがめでたい一握り。彼はもともと必要以外に執事と関わるタイプの主人ではないが、だからこそ本当に必要な人材だけを手元に置く。
 他の人間が抱いているのが忠義なのか野心なのかは知らなかったが、この面子こそ、真にナマエの同僚であり、ライバルだと思っていた。

「報告」

 イルミ様は自室へと向かう足を止めず、短く言葉を発する。執事たちも揃ってあとに続いたが、誰一人として足音ひとつ立てなかった。

「はい。カスガの件で、外部で死亡した者は32名でした。主に、彼女が育った孤児院の仲間と養父母です」
「邸内での死亡者を合わせると、合計67名でした」
「こちらがそのリストになります」

 執事の一人からファイルを受け取ったイルミ様は、ぱらぱらと紙をめくって流し読みする。そのうちに彼の部屋に辿り着いたため、ナマエたちは全員、次の命令を待った。

「わかった。いいよ、戻って」
「はい」
「ナマエだけ、少し残って」
「はい」

 ナマエは神妙そうな声で返事をした。本当は内心どきどきとしていた。イルミ様が残れと言ったということは、きっとリストにあの名前があったのだ。
 他の執事たちが去ったあと、イルミ様はようやく自室の扉を開いた。

「入って」
 
 選りすぐりのナマエは、他の執事たちよりもこの部屋に入る機会は多いほうだ。それでもいつも緊張してしまう。二人きりとなればなおさらだ。普段は彼に声をかけられるまで自らから発言しないよう注意していたのに、つい気がはやって質問をしてしまう。

「検証は、成功でしたでしょうか」

 言ってからしまった、と思ったが、イルミ様は特に気分を害したようではなかった。人形のようにきれいに整った顔には、ひとかけらの表情も浮かんでいない。彼はリストをもう一度めくり、とある名前を指さして見せた。「こいつだろ。カスガの恋人だっていう男」思わず彼に見とれてしまっていた決まり悪さから、ナマエは声を固くした。

「そうです」
「お前の報告では、2人は電脳ネットで出会った。以前からやりとりはしていたようだけど、実際に会って恋人になったのは先々週」
「ええ」
「死んだね。お前の仮説通り」

 おめでとう、と棒読みで言われて、流石にナマエも皮肉なのか本心なのかはわからなかった。カスガに恋人ができたことを密告したのは他でもないナマエだ。別に、ままごとのような恋愛を指して、ルール違反は死ねばいいと思うほどまでに厳格ではなかったが、単にイルミ様がルールの確認を行おうとしているのを聞いて、ちょうどいいと思っただけだ。

「お前の話では、最初に死んだミツバとハサムもこっそり付き合っていたんだって?」
「はい。ですから、カスガの場合も愛する人が死ぬと思ったのです。まさか、養成所のクラスメイトや外の人たちまで大勢死ぬとは思いませんでしたが……」

 アルカ様の能力は、ほとんど神がかり的な力だ。だからきっとその代償も、とてつもなく残酷なものだろうと思った。自分自身の命を差し出して、それでも足りないときに奪われるのは、きっと最愛の人の命だろう。最初に仮説を進言したときはイルミ様も怪訝な顔をしていたが、どうやらナマエの予想は半分当たっていたらしかった。

「ま、2人の命じゃ、億万長者の願いには釣り合わなかったってとこだろうね」

 確かに、今回の規模ならば、ナマエも一緒にねじ切られていてもおかしくなかった。ナマエ自身、養成所の惨状を耳にしたときは、肝が冷えたものだ。自分も死んでいたかもしれないという怖さと、自分の報告のせいで大変なことになったという衝撃。
 どのみちいつかは大規模な検証が行われただろうことを思えば、尾を引くような罪悪感を覚えることはなかったものの、それでも最初は動揺した。こんなにも無関係に、多くの人間が死ぬとは思ってもみなかったのだ。

「リストを見る限り、死んだのは全部カスガに近しい人間だ」
「順番はあれど、全員、大事な人たちだったんでしょうね」

 それなら、ナマエが死ななかったのも理解できる気がした。あの執事邸で、ナマエは同僚たちに好かれていない。それは彼女が過去、カスガの件のような密告を何度も行っているからだ。基本的に悪いのはルールを破るほうだけれど、人の心理はそう割り切って考えてはくれない。執事としては優秀でも、人としてどうかと思う。周囲からのナマエの評価は、そんなところだろう。
 だが、ナマエがひとり納得しかけたのに反して、それはどうかな、とイルミ様は言った。

「養成所の資料では、カスガは最愛の人として実母の名前を挙げている。でも、このリストのどこにも母親の名前はない」
「彼女がその質問に答えたのは随分と昔のはずです。残念ながら、人の心は変わりますから」
「うん、そこは同意するよ。だけど、曲がりなりにも実母だ。急にクラスメイトよりも興味がなくなるなんてありえる?」
「それは……無いと思います、けど」

 だったら、『失敗した本人』と『その最愛の人』とあとは知り合いでランダムということなのだろうか。ナマエはまた、別の意味で肝が冷える思いがした。下手をすれば、今回の検証でイルミ様やご家族に被害が出ていたかもしれないのだ。能力の主がアルカ様とはいえ、まだ年端のいかない子供。きちんと力を制御できているのかどうかもわからない。

「次に検証なさる際は、完全に外部の人間がよさそうですね」
「そうだね、これ以上のリスクは冒せない。それに、もう少しこの死亡者たちとカスガの関連を調べて、法則を割り出す必要がある」
「私にやらせてください」

 決して、簡単な仕事ではないだろう。仮説を立てたからには、検証しなくてはならない。その際、きっとまた多くの人が死ぬ。
 けれども、ナマエは初めから、万人に好かれようなどとは思っていなかった。たったひとりの役に立てれば、同僚を売っても、誰を犠牲にしても構わない。初めは仇を討ってくれた恩人として、感謝や敬愛に近い感情で尽くすつもりでいたが、今はそれ以上に強い感情を抱いている。

「ふうん、いいよ。お前に任せる」
「ありがとうございます」

 イルミ様にそう言ってもらえたことが嬉しくて、緩みそうになる唇を引き結ぶ。同僚を死なせて、それでもまだ自分の幸せばかり考えているなんて、疎まれたって仕方がない人間だろう。世間一般の基準で言えば、カスガよりもナマエのほうが、よっぽど罪深い恋をしているに違いない。

 イルミ様からリストを受け取って、ナマエは退室のために頭を下げる。「そうそう、ひとつ聞きたいことがあるんだけどさ」慌てて顔を上げれば、思いのほかイルミ様が近くにいて、ナマエの心臓はどきりと跳ねた。

「お前が養成所に入るときに書いた最愛のひと、あれって本当?」
「え……」

 一瞬、言われた意味が理解できなかったが、言葉をかみ砕いたとたん、ナマエはかっと身体が熱くなるのを感じた。資料の一つとして残されているのは知っていたが、まさか、この期に及んで本人に知られるとは思ってもみなかったのだ。

「はい……」

 どんなときでも返事は素早く明瞭に返さなくてはいけないのに、かろうじて出せたのは今にも消え入りそうな声。恥ずかしさよりも、気持ち悪がられやしないだろうかという恐れがのどに詰まって、ナマエは息をするのもやっとだった。

「ふうん。それって、今も変わってないの?」

 今度はこくり、と頷く。こちらをのぞき込むように身をかがめたイルミ様の顔が近くて、ナマエはどこに視線をやればよいかわからなかった。「……そう」イルミ様が言葉を発するまで、時間が止まっていたようにも感じられた。ややあって姿勢を戻した彼は、いつも通りの淡々とした口調で言う。

「じゃあアルカには絶対近寄らないでね」

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