- ナノ -

■ ここは呼吸のしやすいところ

 無理やり付き合わされた何十回目の見合い。
 相手が声の出せない女だと知ったとき、まっさきにうるさくなくていいな、と思った。そんな短絡的な発想をしてしまったのは、つい数分前、母親の将来を案じるキンキン声を聞いたばかりで耳も頭も痛くなっていたからかもしれない。どうだった?と聞かれて、いつもだったらすげなく断るところを、悪くなかった、と答えた。決して”良い”とは言っていないのに、イルミの初めての反応を見て、キキョウは今度は喜びの悲鳴を上げることとなった。それ以来、面倒な見合いの話はなくなり、今まで顔ぶれを変えてやってきていた女たちがたった一人になる。


「あら、ナマエさんはもうお帰りになったの?」

 珍しく仕事のない、穏やかなある日のことだった。久しぶりに家族で夕食をとるためにダイニングルームの席についたイルミは、自分に投げかけられた質問の意味を理解するのにしばしの時間を要した。

「……あ、そうか。来てたんだ」

 そういえば、今日はナマエの来る日だった。というか、たぶん、さっきまで一緒にいた。なんなら今日仕事がオフなのは、ナマエが来る日だからと母親が気を利かせた結果だった気もする。

「呼んでくるよ」――部屋にいると思うから。

 言って立ち上がれば、「まじかよ、信じらんねぇ……」とミルキの呆れたような声が聞こえてくる。そう言いたくなる気持ちもわからないでもないが、裏を返せばこちらが存在を忘れるくらい彼女は静かで、イルミはまさしくその点を気に入っている。たまに呼吸すらしていないのではないかと疑いたくなるほど、一緒にいて気配のひとつもしない。それはナマエが暗殺者としても、非常に優秀であることを示していた。

「ごめんごめん、忘れてたよ」

 イルミが自室の扉を開けば、彼女はやはり静かにソファに座っていた。どうやら本を読んでいたらしい。イルミが声をかけると顔を上げ、何事か、と問うように首を傾げる。「夕食。食べて帰るでしょ?」ナマエは頷き、本を閉じた。栞も、スピンも挟まれずに閉じられたそれを、彼女は本当に読んでいたのだろうか。ふと、気まぐれを起こして、イルミは尋ねてみる。

「その本、面白いの?」

 まさかイルミがそんな質問をするとは思わなかったのか、ナマエは瞳を瞬かせた。そういえば、彼女が正式に婚約者としてこの家に訪ねてくるようになってから数か月は立つが、今まで雑談らしい雑談をしたことがない。
 彼女はややあって、首を横に振った。ちょっぴり困ったような彼女の表情を見るのは初めてのことだった。

「面白くないのに、読んでるの? どうして?」

 はいかいいえで答えられない質問には、ナマエは念で文字を紡ぐ。それのおかげで彼女が話せなくても、特に困ることはなかった。

『弟が書いた小説なの』
「へぇ、小説家だったんだ。ていうか、弟いたんだ」
『趣味で書いてるだけ。私の家も暗殺稼業だから』

 彼女の弟も、本業は暗殺者ということだ。実家は弟が継ぐということなのだろう。「まぁ、身内にも面白くないって言われるんじゃ、趣味にとどめておいて正解だね」ナマエはまた困ったような顔をした。静謐が服を着て歩いているような彼女がそんな表情をするのが珍しくて、イルミはなぜだか少し可笑しさを覚えた。

『アイデアは悪くないの』
「じゃあ致命的に文才がないんだ」
『そこまでじゃない。ちょっと、展開が急すぎるだけ』
「ふうん」

 面白くない、と先に言ったのはナマエのほうなのに。
 ムキになって庇うところを見ると、どこの兄弟も大して変わらないものだな、なんてことを思ってしまう。親近感、とでもいうのだろうか。
 再び、何か文字を紡ぎかけた彼女の手をイルミは掴み、そしてそのまま当たり前のように握った。「はいはい、わかったよ」手を引いて、部屋から連れ出す。イルミはここへ彼女を呼びに来たのだ。

「みんなが待ってるから」

 そう言うと、ナマエもようやくイルミの用件を思い出したようだった。弟の事で頭がいっぱいになっていたと自分でも思ったのか、照れくさそうに伏せられた睫毛が白い頬に影をつくる。握った手は温かかった。言葉などなくても、よく見れば彼女は雄弁だった。


▲▽


『どうして私を選んだの?』

 その質問は、するならするで、もっと早くにするべきだったのではないだろうか。くしゃくしゃになったシーツの上で乱れた息を整えようとしている彼女の姿は、もはや手遅れ以外の何物でもない。文字を紡ぐため、わずかに上げられた右腕がどうにも気だるげで、それがまた欲を起こさせる。イルミは黙って、彼女を閉じ込めるように覆いかぶさった。首筋に顔をうずめれば、自分とは違う甘い香りがふわりと漂う。
 途端、ねぇ、とでも言うように背中を軽く叩かれた。絡まった視線は、質問の答えを促している。
 あのまま、婚約者から正式に家族になったナマエ。イルミは正直に答えるべきか迷ったが、すぐにまぁいいか、と判断した。もう彼女は自分のものだ。

「うるさくなくていいと思ったんだ」

 その気になればもう少し言葉を選ぶこともできただろうが、イルミはあえてそうしなかった。ナマエとの関わりを通して、発話以外のコミュニケーションでも十分に伝えられることを知ったからだ。体重をかけすぎないようにそっとナマエの胸に頭をもたせ掛ければ、穏やかな心音が心地よく響く。頭上で彼女が苦笑する気配がして、さらりと頬を撫でられた。

「ナマエこそ、どうして了承したの?」

 最初はきれいに存在を忘れるくらいだったのだ。見合い相手としても、婚約者としても、決してよい扱いではなかっただろう。イルミは彼女の指先が何と答えるのか目で追った。ナマエがこの場でくだらない嘘を使ったりしないだろうということを、不思議なほどに確信していた。

『面倒でなくていいと思ったの』

 ナマエの答えは似たり寄ったりなものだった。会った瞬間から何も期待されていないのはわかったけれど、それがすごく楽だったのだと。 
 これまで、ナマエが何を期待されて生きてきたのかをイルミは知らない。ただなんとなく、彼女がそう思ってしまった気持ちはわかるような気がした。イルミもナマエと一緒にいるとき、すごくほっとするからだ。それはただ単に彼女が喧しくないという意味ではないことくらい、イルミは自分でとうに理解していた。

 体温と、心音と、呼吸の音だけが、暗い夜の中で唯一感じられるものだった。もうナマエのことをきれいさっぱり忘れて、ダイニングルームに向かうことはないだろう。それどころか、ナマエのいない生活なんて想像できない気がする。

『呼吸のしやすいところ、って素敵な表現だと思わない?』

 彼女はゆっくりと首だけを動かして、サイドテーブルに置かれた一冊の本を見やった。

「そうだね。でも、ナマエの弟の書く本はいつも展開が急だ」
『現実だって、段階を踏んではくれないもの』
「……詩人にでも転向したら?」

 ふと、イルミがそう提案すると、ナマエは可笑しそうに笑った。相変わらず声は聞こえないけれど、心がにじんだような優しい微笑みだった。家族を想ってそんな表情ができる彼女となら、やっぱりうまくやっていけるだろうとイルミは思った。


『うん、今度そう言ってみるね』


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