■ ◆染める
「ただいま」
「…おかえり」
今日も仕事を終えて帰ってきたイルミの右手には、赤黒い臓器。
普通、写真や映画の中の作り物でしか見ることのないそれは、お世辞にもハート型をしているようには見えなかった。
「また……持って帰ってきたの?」
「うん」
彼は基本的に針で仕事をこなす。
だから、わざわざ手を汚してまで心臓を抜き取る必要もないし、遠距離からの攻撃だから返り血だって滅多に浴びない。
それなのに、付き合って半年ほどたったあたりから、こうしてターゲットの心臓を抉りとってくるようになった。
「あげる」
「…ありがと」
彼は相変わらずの無表情で、こちらに向かってそれを差し出した。
彼が歩く度に床に血が落ちて鈍い水音がする。
ナマエは嬉しそうにするわけでも、不快そうに眉をひそめるわけでもなく、差し出されたものを黙って受け取った。
ずしり、と意外な質量を持ったそれは、まだ暖かい。
気を抜くと、ぬるぬると手が滑って落としかねなかった。
「オレのこと、好き?」
さて、渡されたこれをどうしたものか。
初めて持って帰ってこられた時は思わず悲鳴をあげたが、こう度々となるともはやこれは『物』でしかない。
イルミは血で濡れた手のまま、ナマエの頬に触れた。
「好き?」
「好きだよ」
イルミの手はそのまま私の頬を撫でる。
顔も首も、腕や足、露出している部分全てに彼は血を塗りたくる。
生臭い血の匂いが鼻腔を刺激し、ナマエはその瞬間わずかに顔をしかめた。
「綺麗だよ」
イルミは満足そうにため息をつくと、うっとりしたようにそう言った。
私の手の中の心臓は、だんだんと冷たくなっていく。
それでも確かに彼が私を愛してくれていることだけはわかったから、ナマエはされるがままになっていた。
「時々ね、不安になるんだ」
「…何が?」
ぽつり、と独り言のように呟いたイルミにナマエは尋ねる。
頬の血はもう乾き始めていて、言葉を発するために口を開くと、頬が引っ張られるような感覚に陥った。
「……ナマエはオレとは違う」
「そう?」
「だって、人を殺せない」
イルミが何を言いたいのかは、本当はわかっていた。
だけど、わざととぼけたふりをする。
知っていて彼の期待を無視するのと、知らずに彼の期待に応えないのとでは意味が違ってくるからだ。
「うん……私は人を殺せない」
いかに暗殺者のイルミを受け入れようとも。
いかに心臓を素手で触ろうとも。
ナマエに人は殺せない。
殺す勇気がない。
イルミはいつもそれを不安だと言った。
「知ってるかい?
求愛するときカラスは、とっておきの餌を雌にプレゼントするんだ」
男にしてはやや高めの声で、イルミは抑揚なく言葉を紡ぐ。
だけど、残念ながらナマエはその話も知っている。
最近彼がやたらと心臓を持ち帰ってくるのはそういう意味であるというのも知っている。
けれどもまた私は「へぇ…」と知らないふりをした。
「ウチは特別だからさ。
慣れてもらわないと困るんだよ」
「そうだね」
「それに、人も殺せなくちゃいけない」
「………」
そう言ってこちらを見下ろしたイルミの瞳は、暗く重く沈んでいた。
だから
「…傍にいてくれるだけでいい、って言ってくれないの?」
馬鹿げた質問をひとつ。
イルミが絶対そんなことを言わないのを知っていて、ナマエは冗談っぽく笑った。
「オレはそれでもいいよ。
だけど、きっとそれじゃナマエはいつか壊れるし、オレも不安なまま」
だからさ─
彼はナマエの手から心臓を取り上げると、目の前で握りつぶして見せた。
血肉が飛び散り、遠慮もなしに部屋を汚す。
イルミの真っ黒な瞳に映る自分は、赤く染められているのだろうと思った。
「人を殺して、ナマエ。
オレと同じ所まで堕ちて」
鼻はすっかり血生臭さには慣れてしまっていた。
だからきっといつか、私は人を殺すことにも慣れてしまうのだろう。
「ナマエばっかりが白いままだと、いつか離れてしまう気がするから」
─汚れてよ、オレの為に
壊れたように私に血を塗りたくるイルミは、酷く儚げで脆く見えた。
だから、ナマエは必死な彼の手をとって動きを止めさせると、にっこりとあやすように微笑みかける。
「私は汚れないよ。
イルミだって汚れてなんかない」
「でも…」
人を殺せる貴方の手は暖かく、人を殺せない私の手は冷たい。
けれど指を絡めれば、その温度もやがて一つに溶け合ってしまえるから。
「染めて」
少しずつでいい。
私はどこへも行かないから。
驚いたように目を見開くイルミを抱き寄せれば、血の匂いに混じってイルミの香りがした。
だからたとえどこまで堕ちることになっても、彼からは離れられないと思う。
「私は人を殺せない」
─今は、まだ。
End
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