- ナノ -

■ 半径1m程度の幸福

――両腕を横に広げた長さと身長は、ほぼ同じになる。

 わざと立てた物音を聞きつけて、玄関まで出迎えてきてくれたナマエ。ごく自然に両腕を広げた彼女に抱擁を返しながら、イルミはふとそんな話を思いだしていた。
 実際に測って確かめてみたことはなかったが、戦闘の中で自分のリーチは感覚として知っている。手を伸ばして届く距離なんて、せいぜい1メートル以下だ。自分より背の低い彼女ならば、その距離はもっと短いだろう。

「おかえりなさい。……どうしたの?」

 イルミが抱きとめたまま離さないでいると、ナマエは不思議そうにこちらを見上げてくる。それに対してなんでもないよ、と囁いて、思い出したようにただいまと言った。ここはパドキアにあるイルミの生家ではなかったが、イルミ以外にただいまを言える人間もいないだろう。基本的にナマエ一人での外出は認めていないし、急遽用意したこの隠れ家を、彼女が帰るべき場所と認識しているかどうかも怪しい。

「それより、オレの留守中なにか変わったことはなかった?」

 リビングに入ると、部屋の中はまだまだ閑散としていた。ナマエは着の身着のままここへ来たようなものだし、大型の家具や家電は明後日に届くことになっている。いつもなら執事にでも用意させるのだが、今回ばかりはそんなわけにもいかない。
 ままごとでもするみたいに小さなカーペットの上へ腰を下ろした彼女は、ローテーブルの上にグラスを2つ用意する。中に注ぐのは、ペットボトルのミネラルウォーターだ。イルミが買って、部屋に置いておいた。食事も、冷蔵庫や調理器具が届けば彼女が作ると言ってくれたが、しばらくはあるものを食べるしかない。

「チャイムが2回鳴ったよ、どっちも出なかったけど」
「そう、ならいいんだ。……これ、食べられる?」
「お菓子?」
「そう。珍しく父さんがお土産買ってきたんだ。どうせ、母さんの機嫌でも損ねたんだろうけど」
「ふふ、イルミのお父さん、可愛いね」

 ろくな食事を与えられていないのに、ナマエは文句ひとつ言わなかった。別に意地悪でそうしているわけではないイルミからすれば、なんともありがたい話だ。勢いだけでこの生活を始めてしまったものの、いざとなるとどうやって食事を用意すればいいのかわからない。外食で済ませるにもナマエをあまり外へ出したくないし、宅配だってイルミが家にいなければだめだ。
 いっそ、ホテル暮らしにすればルームサービスでなんとかなったかもしれないが、イルミはホテルで「ただいま」を言うつもりはなかった。せっかく手に入れたナマエとの生活は、やはりちゃんとした家で行うべきだと思ったのだ。実際、イルミにできる”ちゃんと”というのは、それこそままごとレベルでしかなかったのだが。

「ねぇ、イルミの家族の話、もっと聞かせて」
「……別に、取り立てて話すようなことないよ」
「大家族なのに? いいなぁ、うらやましい。私には家族なんていないからさ」
「いないんじゃなくて、忘れてるだけだろ」

 ナマエの言葉に、嫌でもぴくりと反応してしまう。しかし彼女はイルミの表情の変化には気が付かなかったようで、小さく笑った。昔の彼女だったなら、他の誰が気づかないようなことでも察しただろうに。

「でも、知らないことはいないことと変わりないよ。私にはできる思い出話もないんだし」
「……昔の記憶がないって、不安じゃないの? 思い出したいって思わないわけ?」

 正直なことを言えば、イルミはナマエの記憶が戻るのを望んではいない。もしも本気でそうしたいなら、彼女の頭から針を抜けばいいだけだ。
 けれども、彼女が昔の彼女でない振る舞いを見せるとき、イルミはひどくもどかしい気持ちになることがあった。新鮮で嬉しいことも多いが、同時に切なくなることも多い。
 ナマエはイルミの問いにうーんと唸ると、それから首をこてんと傾げた。

「イルミのことは覚えてるよ。私の幼馴染みで恋人。家が暗殺稼業ってことは、幼馴染みの私もそうだったのかな……でも、別にそこはあんまり思い出したくないな」
「記憶をなくすくらいの、酷いことがあったかもしれないから?」
「おまけにイルミが過保護になるくらいの、ね」
「そう……」

 酷いことがあったのは、ナマエにではない。むしろ、記憶をなくす前の彼女は幸せの絶頂にいただろう。昔から好きだった幼馴染みとの結婚を控えていたナマエは、家族がちょっとうんざりするくらい浮かれていた。母さんのはしゃぎっぷりも大概だったが、イルミを含めた弟たちはみな、惚気を聞かされる被害者だった。

「そんな顔しないでよ、イルミ」

 何度も言われたことのある台詞に、思わずハッとした。どんなに表情を取り繕っても、やっぱり姉さんだけは気づいてしまうらしい。

「イルミの悲しい顔は好きじゃないの。それも、私が記憶を戻さなくてもいいやって思ってる理由」
「……」
「真実よりも、私は自分の手の届く範囲が幸せならそれでいいんだよ」

 そう言って、ナマエはイルミを抱きしめる。慰めるように背中を撫でる手つきはとても慣れていた。まるで昔からイルミをそうやって扱っていたみたいに、優しくて心のこもった手つきだった。
 抱きしめられながら、イルミは口の形だけで姉さん、と呟く。どうして自分はこの幸せで満足できなかったのだろう。どうしても姉を奪われたくなかったとしか、言いようがない。家族としての愛情だけでは満たされなかった。

「オレも手の届く範囲だけでいい。だからずっと離れないで」

 イルミの幸福の範囲は、ナマエよりもほんの少し広い。2人が片手を繋ぐだけなら幸せはもっと広がっただろうが、イルミは両手とも自分と絡めてくれなければ嫌なのだ。だから包み込んで閉じ込めるしかない。

「好きなんだ」

 たとえそれが、半径1メートルにも満たない狭い世界だとしても。

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