■ ◆DOWN PAYMENT
※夢主はヒソカが好き
「ヒソカさんって、かっこいいよね」
ナマエの口からその言葉が出た瞬間、イルミは黙って席を立った。
つきあいきれない。相談がある、というからてっきり仕事の話かと思っていたのに、くだらない恋愛話に耳を傾けるのはごめんだ。しかも相手がよりによってあの奇術師なので、関わりたくないという気持ちが全身から溢れ出てしまう。
「ちょ、ちょっと待って!」
がたん、と椅子を跳ねさせながら追いすがったナマエは、ぎりぎりのところでイルミの腕を掴んだ。
午後のカフェテラス。それなりに人目もある。彼女はまるでイルミのせいで恥をかいたと言わんばかりにこちらを睨んだ。
「いいから座って。最後まで聞いてよ」
振り解くのは簡単だったが、なんでも暴力で解決しようとするほどイルミも短気ではない。だいたい彼女の場合、はっきりと言葉で諦めさせるほうが後々何度も絡まれずに済むだろう。
イルミはスチール製のアームチェアに深く腰をかけ、淡々と現実を告げることにした。
「時間の無駄。ヒソカは特定の女をつくらないよ」
「私はただかっこいいね、って言っただけじゃん」
「オレに言わないでくれる?」
「……それって、本人に直接言えってこと?」
「どっちでも。オレに言わなければそれでいい」
巻き込まれるのはごめんだ、とかなりストレートに言ったつもりだった。しかし対するナマエは悩ましげに唸ると、直接言えたら苦労はしないんだよ、と唇を尖らせた。
「だって、ろくに面識もないのにいきなりかっこいいですね、なんて言ったら、私ものすごくヤバイ女じゃない?」
「あいつはナルシストだから、たぶん大丈夫だよ」
「それに、そんなふうに声をかけてナンパだって思われるのも心外だし」
「ストーカーと思われないだけマシじゃない?」
「誰がストーカーよ、私は彼の大ファンなの! 私はヒソカさんが200階に上がる前からの追っかけなんだからね!」
イルミはもはやまともな会話を諦めて、目の前に置かれたカップに口をつけた。コクのない、安っぽい珈琲だ。それでも、何もないよりかは多少なりとも気分を紛らわせられる。
明らかにうんざりとしているイルミに構わず、ナマエは胸を張ると、とても誇らしげに聞き飽きた話を始めた。天空闘技場でヒソカのファンはそれなりにいるが、インディーズの頃から応援しているのは自分だけだ、と。ヒソカは一度目の試合で200階へ行くように言われたらしいが、その幻の回の録画ビデオもしっかり所持していると。今ではヒソカ自体が天空闘技場に出ることが少なくなったが、それでも試合が行われると聞けば、暗殺の仕事そっちのけで観戦しに行くのだと。
最後のものに至っては、イルミからすると自慢どころか軽蔑する話なのだが、ナマエはまったく気にしていない。別に期限を超過するわけでもないのだから、仕事よりもプライベート優先でいいではないかという主張だ。暗殺の腕はともかくとして、仕事に対する意識については、イルミとナマエはちっとも意見が合わなかった。
「とにかく、私は昨日今日ファンになったわけじゃないんだから! 顔も好きだけど、顔だけで好きだって言ってるんじゃないの」
「そう。どうでもいいけど、仕事の話じゃないなら帰るよ」
「仕事だって、仕事。相変わらずせっかちだなぁ。いい? 相談って言うのはーー」
ナマエは喋りすぎて喉が乾いたのか、一旦飲み物に口をつける。この寒空の下でフラペチーノという選択はどうかと思ったが、甘さという意味でもあまり喉を潤す役には立たなかっただろう。彼女は甘さを薄めるように唇をひと舐めすると、少し声を落としてこう言った。
「彼をね、殺してほしいの」
△▼
頬を撫でる潮風は、爽やかに吹き抜ける一方で不快なべたつきを確実に残していった。長旅には慣れているし、これも仕事だからと割り切ってはいるが、これから二ヶ月近くも船の上かと思うと流石のイルミも気分が重い。
「兄様……? どうかしましたか?」
久しぶりに会った末弟は少し身長が伸びて、頬からも子供らしい丸みが減ったような気がした。
旅団でのことは詳しく聞いていないが、カルトも様々な経験を積んで成長しているのだろう。家の後継者にはなれない弟だが、イルミの後継にはなれそうだ。そう思うと少し、肩の荷が降りた感じもする。
「ううん、何も。ただ、ちょっと野暮用を思い出しただけ」
言いながら携帯を取り出し、コール音に耳を澄ませる。ナマエと最後に電話をしたのは、比較的最近のことだった。かけてきたのは向こうからで、電話越しでもわかる興奮ぶりだった。
ーーヒソカさんが負けたの、あの、ヒソカさんがよ!?
ーー観客を巻き込んだ、ものすごい試合だったの! ひどい爆発で、彼が死んだと思ったときは、私も心臓が握りつぶされた気分だった! ほんとにほんとにすごかったんだよ!
ーーでも聞いて、やっぱりヒソカさんは私のヒソカさんだった! 試合の後ね、私、選手の控え室までこっそり死体を回収しに行ったのよ。だって、彼が死んだのだとしたら、一番のファンである私が死体をもらう権利があると思うのね。でも、控え室には彼の死体はなかった! 蜘蛛のーーそうそう、ヒソカさんを倒したのは蜘蛛の団長だったらしいんだけどね、彼の仲間だっていう女の子が一人拘束されてて、それでヒソカさんが逃げたって言ったんだよ、すごくない!?
ナマエの興奮とは裏腹に、それを聞いたときのイルミはへぇ、という感情しか抱けなかった。
とうとうクロロも根負けして戦うことにしたのか。意外なようにも、そうでもないようにも思う。いずれヒソカとは殺し合うことになるのだろうな、という予感は、イルミ自身も前々から感じていたからだ。
ーーヒソカがとられなくて良かったね
その時のイルミは、それだけ言って通話を切った。彼女の返事は聞かなくてもわかりきっていたからだ。
「もしもし、イルミ?」
プツ、と繋がる音がして、聞こえてきたナマエの声は、前と違って落ち着いたものだった。イルミはきらきらと光を反射する水面を見ながら、前に言ってた依頼の件だけど、と口を開く。
「7/8だけ達成できそうって言ったらどうする?」
ナマエがイルミに仕事を依頼したのは、後にも先にあの一件だけだった。だからこそすぐに思い至ったのか、彼女は依頼をしたときとそっくりに声を落とした。
「……珍しいね、イルミが妥協した案を持ちかけてくるなんて」
「仕方ないだろ。頭は他に欲しがってる奴がいるんだ」
「なにそれ、その人って私よりファンだって言える?」
「たぶん、世界中の誰よりも今、一番ヒソカを殺したがってる。……蜘蛛の団長だよ」
「あぁ……」
なるほどね、と小さくナマエが呟くのが聞こえた。
「彼になら譲ってもいいかな、いい試合を見せてもらったし。それに前にも言ったけど、私別にヒソカさんの顔ファンじゃないから、残りの7/8が手に入るならそれで我慢するよ」
「あーよかった。前にナマエが頭金だって言って勝手にお金を振り込んできたままだったから、どうにも気持ち悪かったんだよ」
何度断っても、何度返金しても振り込んでくるものだから、イルミは半ば面倒になって放置していたのだ。好きなら殺そうとするなと言えば、集めたくなるファン心理がわかっていないと理不尽に詰られ、そんなに好きなら自分で殺れと言っても、直接会うのは恥ずかしいと意味のわからない理由でごねられる。当時のイルミにはそこまでして危険を冒すメリットがなかったので放っておいたのだが、正式に引き受けると言ってなくても、働いて得てない金が口座にあるのは妙に収まりが悪かった。
今回、ヒソカを殺せと依頼してきたのは当の本人であるヒソカだったけれども、その後の死体の扱いについては指定がないので、ナマエに渡してしまっていいだろう。少なくともクロロよりは、大事に扱ってくれるに違いない。
「……でもさ、酷い話だよねぇ」
イルミがそんな益体のないことを考えていると、ナマエがしんみりとした調子で呟いた。「何が?」長年、ヒソカのファンを自負していた彼女のことだ。いよいよヒソカが死んでしまうとなると、それはそれで寂しい気持ちにもなるのかもしれない。自分の手で育て上げた大事なものをーーたとえば弟を壊してしまうとしたら……。
イルミは波の音を聞きながら、彼女の感傷を想像しようとしてみた。が、胸の内には特に何も湧いてこず、潮風のせいか乾きを覚える。
イルミが唇をひと舐めしたのと、電話の向こうでナマエがふてくされたような声を出したのは、ほとんど同時だった。
「何がって、頭金を払ったのに、肝心の頭が手に入らないってことだよ」
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