- ナノ -

■ マカダミア・ホームシック

「だめだ、お腹が空いて死にそう」

 夜更けもとうに過ぎて、もう明け方になろうかという頃。バルコニーの柵を玄関よろしく跨いだ彼女は、イルミの顔を見るなり開口一番そう言った。それから、自分の身を抱き抱えるように両腕をさすり、寒い寒いとこぼしながらさっさと先に室内へと入る。

「暖炉の火って、見てるとなんか落ち着くよね」

 イルミが窓を閉めて振り返った頃には、ナマエは細雪のせいで湿った上着を脱ぎ、赤々と燃える暖炉の炎に両手を翳していたところだった。薄暗い部屋の中で、橙色に照らされた彼女の横顔だけが浮かんで見える。
 くしゅん、とひとつ大きなくしゃみの音がして、イルミはようやく彼女が仕事ではなく、ジャポンにある、豪雪地帯の都市に帰省していたことを思い出した。

「てっきり、向こうで年を越すのかと思ってた」
「私もそのつもりだったよ。なんてったって、あの家の娘としての帰省は最後だったからね」
「じゃあどうして帰ってきたのさ」
「ひどい雪で、寒かったんだよ――」

ナマエはもうひとつくしゃみをすると、肩を竦める。

「――まさか、こっちまで雪が降ってるとは思わなかったけど」

 窓の外に視線をやった彼女につられるようにして、イルミもそちらに顔を向ける。数時間ほど前からちらちらと舞い始めた雪は、まだまだ本調子ではないといったところだ。この程度では、積もるほどでもないだろう。
 毎年のことながら、ククルーマウンテンの冬は寒い。生まれた時からここで暮らしているイルミにとっては、ごくごく当たり前のことだった。

「山の上だからね。毎年降るよ」
「山の上で暮らすのって不便じゃない?」
「そうでもないよ。すぐに慣れる」
「そうかなあ。全部の食事に毒が入ってるのも、私的にはマイナスなんだけど」
「それもすぐに慣れる」
「じゃあ、ゾルディックのファミリーネームを名乗るのも?」

ナマエの問いに、イルミはゆっくりと頷いた。暖炉の明かりを受けて、彼女の左手の指輪がきらりと光る。

「それは今すぐにでも慣れてもらわないと。ナマエはオレの妻になるんだから」
「そうなんだよねぇ。まさか、イルミと結婚することになるとはねぇ」
「プロポーズ受けたのはナマエだろ」
「そうだよ。だって、嬉しかった」
「……」

 はっきりと言い切られて、イルミはなんと言葉を返せばいいのかわからなかった。ナマエを結婚相手に選んだのは、別に打算だけの話ではない。条件だけでいうならば、他にもっといい相手はたくさんいただろう。もともと結婚に夢を見ていた訳でもないし、家の役にさえ立てば、相手についても特にこだわりはなかった。それなのに、親にあてがわれた婚約者ではなく、一体どうしてナマエだったのか。こうして正式に結婚することが決まったあとでも、イルミは明確な答えを用意出来ないでいる。

「あっ、そうだ。お土産買ってきたんだった」

 イルミが黙りこんでいると、不意にナマエがぽん、と手を打って暖炉の前から立ち上がった。それからどこにどう隠していたのか、まあまあな大きさの箱を取り出す。

「お店で試食したんだけど、すっごく美味しくてさ。あ、お義母さんたちには他にもお土産あるからまとめて郵送しちゃったんだけど、とりあえずこれ、イルミに食べさせたくって」
「なに?地元のお菓子か何か?」

 やたらと派手な包み紙だ。手渡されたそれをひっくり返してみても、ジャポンで使われているという"漢字"はどこにも書かれていない。
ナマエは早く開けてほしいと言わんばかりに、イルミの方へと近づいた。

「いや、全然関係ないチョコ。経由便だったからさ、途中の空港のお土産コーナーで買ったの」
「なんでまた……」
「だって、本当に美味しいんだよ?食べてみて」

 彼女の言う通り、中身は艶々と光沢のあるチョコレートだった。促されるままにイルミは一粒つまんで、口の中に入れる。
 甘い。中心にローストされたナッツが入っていて、噛むとシャクシャク小気味よい音が鳴った。

「ね?美味しいでしょ?」
「別に、普通」
「えー」
「だって、ほら」

 不満げに唇を尖らせるナマエの顔の前に、イルミはチョコを摘んで差し出す。意図を察した彼女が、ぱっと顔を輝かせて口を開いた。

「やっぱり、美味しいよ」

 シャクシャク、とまた小気味よい音がする。イルミは黙って、もうひとつ差し出した。美味しそうにチョコを頬張るナマエは、不思議と見ていて飽きない。調子に乗ってもうひとつ、もうひとつ、と運ぶうちに、とうとうストップ、と制止がかかった。

「だめだめ、これ以上は。イルミに食べさせたくて持って帰って来たんだから」
「でも、帰ってくるなりお腹空いたって言ったのはナマエだろ」
「それはそう」
「チョコ持ってるなら、食べれば良かったのに」

 イルミからすれば、特別美味しいチョコレートというわけではない。そもそも、空港のお土産コーナーにあるレベルの品で、希少価値が高いわけでもなんでもない。しかも、お土産はこれだけじゃなくて、あと数日もすれば郵送した物が山のように届くのだ。自分の欲望に正直なところのあるナマエが、空腹を我慢する理由なんてどこにもないだろう。

「食べたら意味ないじゃん。イルミに食べさせたくて買ってきたのに」
「なんでそうまでしてオレに食べさせたいのさ」
「それは――」

 イルミがそう言うと、彼女は何かを言い返そうとして、それから小さく首を傾げた。

「……確かに。なんでだろう?」
「……」
「実家に帰ってね、すごく懐かしかったんだ。家族に会うのも久々だったし。でも、お腹いっぱいになった時とか、面白いテレビを見て笑った時に、ふと、イルミいないんだなあって思ったの」
「ナマエの実家にオレがいたら怖いだろ」
「まあ、そうなんだけど。そうなんだけどさ、」

 イルミは黙ってまた、ナマエの前にチョコを差し出した。すると彼女は口を開ける。流れるようにチョコがナマエの口内に消えていくのを見て、イルミは妙に可笑しい気持ちになった。

「結局、ナマエが食べてる」
「ごめん。でもイルミが顔の前に持ってくるから……つい」
「いいよ。オレもナマエに食べさせたいと思ったし」
「私のこと、ミケと同じ扱いしてるでしょ」
「そうかもね」

 イルミは最後のチョコを摘むと、それもナマエの口の中にしっかり収めた。そして空になった箱を見て"しまった"という顔をする彼女の唇に、自分のものをそっと重ねる。

「でも、ミケにこんなことはしないかな」
「……っ、だったら許す」

 暖炉から離れても赤い顔をしている彼女を見下ろして、イルミはきっと他の女にもしなかっただろうな、と思った。それがなぜなのかは今でもわからない。わからないが、ナマエがこれからゾルディックを名乗るのは、とても嬉しいことだと思ったのだった。


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