- ナノ -

■ 恋はしていない

 今日の夕食は、あなたの好きなハンバーグ・ステーキよ。それから前に言っていた婚約者のことだけれど、イルミくんに決まったわ。

「へぇ……」

 仕事を終えて帰宅するなり、世間話の延長のような軽やかさで発表があった。隣の家の犬が子供を産んだのよ。駅前に新しいレストランが出来たんだって。そんな程度の、毒にも薬にもならない無色透明な会話の流れで、母はわたしの将来をごくあっさりと告げた。

「ご飯、部屋で食べるから」

 そっちに用意して、とかろうじて家政婦さんに伝え、言い訳のように話がしたいから、と続ける。イルミの家のように沢山の執事はいないけれど、この家政婦さんは幼い時から面倒を見てもらっていた家族同然の存在だった。今回の知らせも、当の本人にであるわたしよりも先に知っていたらしく、母と二人で顔を見合わせ、からかうように優しく微笑む。

「それではお部屋にご準備させていただきますね」
「そうね、恋人達の逢瀬を邪魔しちゃ悪いわ。たくさん話があるでしょうしね」

 恋人たち。恋をする人たち。互いに、恋をする間柄の人たち。
 わたしの脳内はほんの数秒前までデミグラスソースの茶色一色だったのに、唐突に広げられた青写真はあまりにも鮮烈な色彩を放っていた。
 いったいいつからわたしとイルミがそんな間柄になったのか、誰かに教えてほしいくらいだった。今の今までわたしと彼は同業の幼馴染みで、ついさっき一足飛びに婚約者になったばかりだ。点と点を無理矢理繋いで線にしてみたって、恋が生まれるわけでもない。

 自室に戻ったわたしは、結局食事の支度が整うまでずっと、そわそわとする羽目になった。携帯を手に取ってはすぐベッドの上に置いて、とりあえず部屋着に着替えてみたものの、意識はずっと携帯電話の、そのまた向こうの幼馴染みに向いている。
 いや、もうただの幼馴染みではないのか。そう考えると、一刻も早く電話をかけて彼の考えを聞きたい気持ちと、改まってどんな風に会話をすればいいのかわからない気まずさで、とにかくじっとはしていられない。そんな気分だった。

「では、お食事が済みましたらお声がけくださいませ」

 湯気がたつほど熱々のハンバーグ・ステーキは、ひどく食欲をそそる香りがした。つやつやと照ったデミグラスソースの深い色が、否応なしに唾液を誘う。
 それでも、食卓についたわたしが一番最初に手に取ったのは、ナイフでもフォークでもなく携帯電話だった。
 仕事中だったら、たぶん繋がらない。コール音に耳を済ませながら、わたしは自然と息を殺していた。「もしもし、」ああ、繋がってしまった。スピーカーモードに切り替えて、そっとテーブルの上に置く。

「イルミ、今大丈夫?」
「うん、移動中だけど、飛行船の中だから。なに?」
「聞いた?」
「何を?」
「その……婚約の話」

 今やわたしの手は食事どころか、膝の上で固く握りしめられている。イルミがなんと答えるのか、両方の耳で聞き逃すまい、という姿勢だった。一人がけのテーブルなのに、食卓の向かいにイルミの顔がはっきりと思い浮かんだ。

「ああ、一昨日聞いたよ」
「どう思った?」
「ふーん、ナマエになったんだなって」
「……そのまんまじゃん」

 ぷつり、と緊張の糸が切れるようだった。イルミの声は、いつもの調子と変わりない。わたしと婚約者として話す気恥しさや気まずさなど、欠片ほどにも感じていないようだった。
「まあ、イルミらしいよね」
 少しほっとして、少しむっとする。思い出したように、胃が空腹を訴え始めた。

「だって、そんな驚くことでもないだろ。長い付き合いだし」
「付き合いは長いけど、だからっていきなりだよ? わたしたち、恋人として付き合ってたわけじゃない」
「でも、オレはナマエの好物がデミグラスソースのたっぷりかかったハンバーグ・ステーキだって知ってる」

 ちょうど口に運んだばかりのそれを、危うく吹き出すところだった。「そのくせ、なぜかシチューはホワイトソースじゃなきゃ嫌だって言うことも」シチューとハンバーグ・ステーキは別物なのだから当たり前だ。それくらいで人を我儘みたいに言わないで欲しい。もぐもぐと不服な気持ちごと飲み込んで、だからなんなの、と言った。

「そんなの、わたしの家族ならみんな知ってることだよ」
「うん。だから、そういうこと」

 イルミの声は不思議なくらい穏やかだった。いつもよく聞く呆れの中に、くすぐったいような甘さをはらんでいた。わたしはこの幼馴染みが、これほど何かを慈しむような声を出せるなんて知らなかった。

「わたしは……イルミの好きなもの知らない」

 無意識のうちにグラスに口をつけ、唇を濡らす。

「言ってないからね」

 どことなく愉快そうに返されて、わたしはますます付き合いの長さというものを疑うしかなかった。

「何?」
「デミグラスソースのたっぷりかかった、ハンバーグ・ステーキ」
「え?イルミもそうだったの?」
「それが出ると、ナマエが嬉しそうな顔するから」

 なにそれ。
 たった四文字の言葉が、形にならない。自分でもなにかよくわからない感情が胸いっぱいに込み上げてきて、わたしはぎゅっと唇を引き結んだ。そうしないと、口角がふにゃりと緩んでしまう。恋とはまた少し違う力で、どうしようもなく笑顔にさせられてしまう。

「わたしも、イルミが嬉しそうな顔するの見たいんだけど」

 そう言ったわたしの声は、イルミと同じくらい穏やかだった。関係性が変わることへの戸惑いや気まずさなど、もうどこにもなかった。

「今までだってしてたよ。ナマエの前で」
「わかりにくいんだよ」
「次会ったときは、わかるよ。だってオレ、一昨日嬉しいことがあったばかりだから」
「わたしはついさっき、嬉しいことがあった」
「どうせ、晩御飯がハンバーグ・ステーキだったとかでしょ」

 ぴたりと言い当てられたそれは、出来たてに比べると少しぬるくなっていた。

「うん、当たり」

 火傷するほど熱々ではない。でも、冷たいわけでもない。
 わたしはちょっとだけ躊躇ったあと、

「今度は一緒に食べよう。そしたらもっと嬉しいから」

 幼馴染みのためではない言葉を紡いだ。

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