- ナノ -

■ 周回遅れの恋心

 初恋が甘酸っぱい思い出だなんて、嘘だ。

 何かしらの恋愛小説を読む度に、ナマエはいつもそんな感想を抱いていた。少なくとも、自分にとっては苦い苦い思い出でしかない。
 そしてその感想は、わざわざ小説を読まなくてもやっぱり同じだった。久しぶりに訪れた幼なじみの家は記憶にあるまま何一つ変わっていなかったが、だからこそナマエに随分と決まりの悪い思いをさせたものである。

 来た人間をふるいにかける重厚な門も、遭難してしまいそうなほど広い庭も、機械のように統率のとれた執事たちも、まるで時が止まっているかのように変わりがない。嫌でも思い出すここで過ごした日々が、先程からナマエをじわじわと切なさで締め上げていた。

 けれども実際には時が止まるなんて魔法みたいなことがあるはずがなく、時計を見ればもう日付が変わっている。当初、ナマエは母親に頼まれた用件だけ済ましてさっさと帰るつもりだったのだが、なんだかんだと引き止められているうちに結局こんな時間になってしまったのだ。

 別に、小さい頃から修業の関係でよく出入りしていたし、ゾルディック家とは気兼ねするような関係ではない。
 それでもこの5年間、各地を暗殺の依頼で飛び回り、ゾルディック家どころか実家にすら寄り付かなかったのは、ひとえに”彼”に会いたくなかったからだった。

 それなのに――

「あ、ナマエ、帰って来てたんだ」

 用意された客室に向かって廊下を歩いていると、ちょうど向こうからやってきたイルミと出くわす。
 久しぶり、と口では言いながら大して懐かしがる様子のない彼に、ナマエの表情は自然と強張った。全然変わってない。いや、実際あの頃より髪は随分と伸びているし、男には勿体ないくらいの色気まで備わったように思う。だが、やはり目の前の男はイルミだった。ナマエがずっとずっと好きで、でも諦めた人。
 騒ぎ出した心臓がときめきによるものなのか、過去の失態を思い出したせいなのか、ナマエにはよくわからなかった。

「……久しぶり。イルミは今帰ってきたところ?」
「うん、今日は仕事が早く終わってね。ナマエも仕事がひと段落でもしたの?」
「それもあるけど、そろそろ落ち着けって母さんがうるさいから帰ってきたの」

 一体、どこを見て話せばいいのだろう。目を合わせるのが怖く、かといってずっと俯いてばかりいるのも不自然な気がする。向こうはそもそもナマエのことなどどうとも思っていないのだから、普通に振る舞えばいいと頭ではわかっているのに。

「ナマエも近場の仕事を受ければいいんだよ」
「まぁ、旅行気分で楽しんでるからね」
「……で、こんな時間ってことは今日は泊まってくの?」
「うん」

 ナマエは頷いて、その場を足早に立ち去ろうとした。確かにイルミとは久しぶりの再会だが、思い出話に花を咲かせるような雰囲気ではない。第一、ナマエは過去に触れられたくなかった。そこには苦い思い出しかなかったし、それを笑い話にできるほどまだ自分の中で整理できていなかったからだ。
 だが、

「こっちにいつまでいるつもり?」

 それで終わると思った会話は意外にもイルミによって引き伸ばされ、ナマエは歩きかけた足を止める羽目になった。

「え……?泊まるのは今日だけだと思うけど」
「そうじゃなくて、パドキアに」
「……どうだろう、しばらくはいるかな。仕事は全部済ませてきたから」
「そう」

 イルミはそれきり黙ったので、今度こそ会話は終わりになった。わざわざ引き止めてまでしたわりには、心底どうでもいい内容だ。ナマエがどのくらいパドキアに滞在しようがイルミには関係ないだろう。

 昔から彼の頭の中にあるのは家と弟たちのことばかりで、ナマエが入り込む余地なんてこれっぽっちもなかった。だから今回、ナマエが実家に戻ってきた本当の理由もあえて言わなかった。もし言って、さっきみたいに「そう」と素っ気なく返されるのが怖い。

 ナマエはようやく客室へとたどり着くと、中に入るなりベッドに倒れ込んだ。枕に顔を埋めてみてもやっぱりまだ心臓はどきどきとうるさくて、その事実にどうしようもなく悲しくなる。
 イルミのことは、諦めたはずだったのに。

 けれども本当に諦めたのなら、この5年間彼を避ける必要はなかった。今だってはっきり、お見合いをするために帰ってきたのだと言ってしまえばよかった。
 ナマエもイルミ同様暗殺一家に生まれて、結婚の自由など初めから期待していない。だからお見合いと言っても顔を合わせればほぼ決定で、ナマエは近いうちにどこかの同業者に嫁ぐことになるのだろう。

 その時こそ、ナマエの初恋が完全に終わる時だ。5年前、強引に彼の唇を掠めて逃げて、その後一切そのことに触れられなかったのとはわけが違う。他人の手によってナマエの初恋は完全に終わらせられるのだ。

 そう思うと、最後に顔を見られただけでもよかったのかもしれない。
 ナマエはぎゅっと枕を抱きしめ、胸の奥に燻る苦みを味わっていた。


 ▽▼


「ナマエ、これから予定ある?」

 翌朝、というには時刻はもう既に昼に差し掛かろうとしていたが、昼夜が入れ替わった生活はナマエにとってさほど珍しくない。しかし、イルミがわざわざナマエの部屋を訪ねてきたことについてはありえないくらいに珍しく、驚かざるを得なかった。

「ない、けど……なに?仕事?」

 話しかけられただけで、心臓が飛び跳ねる。気まずさと嬉しさが綯い交ぜになって、ナマエの胸をざわつかせる。
 それでも青い期待をするのはあまりにも愚かしいので、ナマエは一番ありえそうな予想のもとに返事をした。ゾルディック家は皮肉なほどに忙しいので、もしかしするとナマエの手でも借りたい状況なのかもしれない。

 けれともイルミはゆっくりと瞬きをすると、昔と全く変わらない癖でこてん、と首をかしげた。

「なんでそこで仕事の話が出てくるの?」
「イルミが私に用事って、そういうことかなって」
「流石に帰ってきたばかりのナマエを仕事に駆り出さなきゃいけないほどは困ってないよ」
「じゃあ何の用?キルアの訓練手伝って、とか?」

 仕事でないなら、次にありえそうなのはこれくらいだ。5年の間に詰んだ実戦経験をキルアのために役立ててくれとか、そういうことだろう。
 しかしナマエの発言にイルミは今度は首を傾げるのをやめ、珍しいほどに眉を寄せる。普段無表情な彼が、ここまでわかりやすく感情表現するのは意外だった。

「はぁ……だからなんでそこでキルが出てくるかな」
「違うの?」
「久しぶりだから、ちょっと散歩でもどうかと思っただけだよ」
「散歩!?」
「そんな驚くこと?」

 イルミはどうやら不服そうだが、驚くことに決まっている。その証拠にナマエは自分でも引くくらい大声をあげてしまった。イルミと散歩という単語の似つかわしくなさもそうだが、何より自分が誘われたということが信じられない。

「どうしてまた急に」
「嫌なの?」
「そういうわけじゃないけど……」
「じゃあ決まりね」

 有無を言わさず話を切り上げたイルミは、まだ戸惑うナマエの手を逃がさないとばかりに掴む。そうやって触れた彼の手の温度に頭の中が真っ白になって、ナマエはろくな抵抗もできずについて行くしかなかった。

「この5年、何か変わったことはあった?」
「え、いや……特に」
「そう、それはよかった」

 ほとんど上の空で返事をかえしたが、変わっていなくてよかったとはどういうことなのだろう。なんの成長もしていないということではないか。
 しかしイルミは特に気にした様子もなく、ずんずんと歩いていく。

 そうして連れてこられた場所はゾルディック家の庭で、よく訓練の休憩に利用していた小川だった。

「ここ……」
「懐かしいでしょ?」
「う、うん」

 敷地内に川、というと妙な感じだが、そもそもゾルディック家はなんでもかんでも規格外である。庭というより山と言ったほうが正しいのだし、子供のころは大して疑問も抱かずによく川遊びに興じたものだ。

 しかし純粋に懐かしさに浸れるほど、ナマエにとってこの場所は過去のものではなかった。忘れらない初恋の苦い思い出が、今でもまだナマエの奥底に沈んでいる。なんの躊躇いもなく川のほとりに腰を下ろしたイルミを見て、ナマエは今すぐ逃げ出したい気持ちになった。

「ナマエはここ、好きだったよね」

 確かにイルミの言う通り、ナマエはこの場所が好きだった。標高の高いククルーマウンテンは真夏でも涼しく、冷たい水に足をつける瞬間がすごく好きだった。並んで石の上に腰かけて、朝霧の中で眺めるイルミの横顔も、夕闇の中で聞こえる静かなイルミの声も、全部全部大好きだった。

 大好きだったから好きだと伝えて、大人ぶって口づけた。
 意識してほしかった。年上で落ち着いているイルミに対して、ナマエにできた精いっぱいのアピールはそんな子供じみた背伸びだけだったのだ。

「どうしたの?ナマエも座りなよ」
「……」

 しかしナマエのそんな決死の行動も、イルミに何の影響も及ぼすことはなかった。あの時彼は一瞬驚いた顔になっただけで、恥ずかしさに耐えきれず逃げ出したナマエを追ってくることもなければ、その後顔を合わせても一切話題に出すことがなかった。嫌がられたり、はっきりと断られたほうがいくらかマシだったかもしれない。
 まるで何事もなかったかのように振舞うイルミを見て、ナマエは自分の存在がいかに取るに足らないものであるか思い知らされた。

 だからそれ以来ナマエの足はゾルディック家から遠のくようになったし、本格的に仕事を受けるようになれば遠方の依頼ばかり引き受けるようにした。傍にいても彼の視界に映らないのなら、いっそ傍にいないほうがいいと思ったのだ。
 そして実ることのない彼への想いを、どこか遠くできれいさっぱり忘れてしまいたかった。

「……イルミは、いや、イルミも変わってないね」

 ナマエはぽつりとそう呟くと、踵を返してあの時みたいに逃げ出した。彼はもう、ここであったことなんて忘れてしまったのだろう。だからあんな平気な顔して、ナマエに隣に座るように言えるのだ。
 あれから本当に何も変わっていない。イルミの中でのナマエの存在も、ナマエの中でのイルミの存在も、ずっとあの日のまま変わっていない。あれほど避けて忘れようとしていたくせに、また性懲りもなく傷ついているのが良い証拠だ。

 逃げ出したナマエは当てもなく、ひたすらに森の中を駆け抜けた。彼はきっとまたナマエの突然の行動に驚いたことだろう。
 でも、それだけだ。やっぱりこんなとこ来なければ良かった。昔は出なかった涙が、今更になって溢れてくる。

 結局、足が止まったのはそれからしばらく経ってから。視界がぼやけて、何も見えなくなったからだった。

「なんで逃げるの」

 しかし止まった瞬間後ろから声をかけられ、ナマエは思わず飛び上がる。振り返ればそこにいるはずのないイルミが木にもたれかかるようにして立っていて、一瞬で感傷的な気持ちが吹き飛んだ。「どうして……」追いかけてきた割には彼の息は少しも乱れておらず、ナマエは幻でも見ているのかと真っ先に自分を疑った。

「質問してるのはこっち。ナマエ、オレのこと避けてるでしょ?
 もちろん帰ってきてからの話だけじゃないよ。この5年間、あの日からずっと」

 イルミはゆっくりと身を起こすと、そのまま流れるような動作でこちらに近づいてくる。まさか彼の口から”あの日”の話題が出るとは思わなくて、ナマエは完全に動揺していた。言い訳をしようにも、逃げようにも、頭が回らず身体も動かない。
 すぐ目の前まで迫ったイルミは、腕を組んでナマエを見下ろした。

「ねぇ、聞いてる?」
「……う、ん」
「じゃあ答えてよ。なんでそうやってオレを避けるの?」
「それは……」

 その質問に答えるには、ナマエはまた心を抉り出さなければいけない。まだ癒えていない心の傷を抉って、曝け出して、そうしてまた惨めな思いをしなければならない。
 しかしイルミは沈黙を許さないに違いなかった。この人は沈黙を回答として認めてくれない。答えたくないという答えから、ナマエの感情を推察できるほど器用な人ではない。「……好きだったから」ナマエは乱暴に涙を拭うと、覚悟を決めてそう言った。

「イルミのこと、ずっと好きだったから」

 どうせもう、ナマエはそのうち顔も知らない誰かと結婚するのだ。今更振られたところでどうってことはない。むしろ終止符は5年前にこそ打たれるべきだった。あの時は逃げてしまったけれど、今度こそ引導を渡してもらおう。
 不安そうに震えるむき出しの心を叱咤するように、ナマエは俯いてぎゅっと拳を握った。

「じゃあやっぱり変わってないじゃないか」
「え」
「なんでそんな紛らわしいことするわけ?オレ、嫌われたのかと思ってたんだけど」

 言葉と共に頬に手が伸ばされ、ほとんど強引に上を向かされる。至近距離で目があったイルミは、あーよかった、と間延びした声を出した。

「あれからずっとナマエにキスされた意味を考えてたんだ。好きだって言った割に逃げるから、何かの罰ゲームでやったことなのかと思ったし。そうこうしてるうちに本当に遠くに行っちゃうしでさ」
「ば、罰ゲームって……」
「そう思うくらいにナマエはオレのこと避けてたんだよ。で、ようやく帰ってきたと思ったら、今度はお見合いだって?」

 なぜそのことをイルミが知っているのか、と思ったが、彼の両親とナマエの両親は仲がいい。だからこそ幼少期から親交があって一緒に修行をしたりしていたのだ。情報源は間違いなくそこだろう。
 イルミはどこか咎めるような調子でそう言うと、そのままナマエの頬を軽く摘まんだ。

「責任とってよ」
「へ?」
「オレにキスした責任、とって」
「ふ、ふぁい?」

 頬を伸ばされているせいで上手く話せないが、そうでなくてもナマエの頭は混乱していた。「まさか他の男と結婚するつもりじゃないだろうね?」イルミの言った意味が分からず、ナマエは瞬きを繰り返す。
 それを見たイルミは、呆れたように大きくため息をついた。

「まだわかんないの?だったらナマエも同じように悩めばいいよ」

 その瞬間、さっと視界に影が差して、ナマエの唇に柔らかいものが触れた。いつのまにか摘ままれていた頬は、大きな手のひらで包み込まれている。「好きだよ、昔からナマエのこと好きだった」まるでこれではあの日の再現だ。けれども肝心の役者が、綺麗に丸ごと入れ替わっている。

「うそ……」

 ご丁寧に走り去るところまで再現して見せたイルミは、実はなかなかに性格が悪いのではないか。
 ぽつんと一人取り残されたナマエは、あっという間に消えた彼の背中を茫然と見送ることしかできない。それから不意にしゃがみこむと、今、世界で一番真っ赤になっているであろう自分の顔をしっかりと両手で覆った。

「こんなの、反則……」

 感触を確かめるようにそっと唇に触れて、お互い随分と遠回りをしたものだと考える。「ずるい……」初恋が甘酸っぱいかどうかはわからないが、彼の唇は甘いように感じた。
 一体、このあとどんな顔をして会えばいいのだろう。

 ナマエはそのままの姿勢で、熱が引くのをじっと待っていた。しかし時間が経てば経つほど恥ずかしさがこみ上げてきて、これではいつになったら立ち上がれるかもわからない。

「はぁ、駄目だ……」

 どうせ周回遅れの恋心なのだから、今更急ぐことなんてないのだろう。

 とうとうそんな言い訳をして、開き直ったナマエは服が汚れるのも構わずに本格的に座り込む。
 イルミは悩めと言ったが、実際には悩むことなんてない。それならばともう少しだけ、幸せの余韻に浸ることにしたのだった。

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