- ナノ -

■ ◆Oh my sister

 大人になってもコーヒーは苦くて飲めない。紅茶はコーヒーより苦味はマシだけれど、口に含んだときに広がる独特の香りが苦手だ。ココアは美味しいけれど甘すぎてケーキのお供には合わないし、オレンジジュースは逆に酸っぱい。

「今日のおやつはブラウニーだよ」

 わたしがリビングのほうに向かって声を張り上げると、ばたばたと元気な足音がかけてくるのが聞こえた。その勢いに微笑ましさを感じつつ冷蔵庫を開ければ、一晩寝かしたチョコレートケーキは狙い通りにしっとりしている。仕上げだ。温めたキャラメルソースを細く斜めにかけていき、その上にピスタチオダイスをさっと散らして、密着させるように少しだけスプーンの背中で押してやる。
 最後にケーキをカットする大きさに合わせて、ナッツとアーモンドを乗せれば完成。キャラメリゼしたおかげで一粒一粒がつやつやと光沢を放って、まるで極上の宝石みたいだ。

「わあ、ナマエさんすごい!美味しそう!」
「えへへ、でしょー。アルカちゃんはジュースの用意をお願い」

 ケーキのお供はリンゴジュースにするって決めている。頷いたアルカちゃんは、すっかり迷うことなくグラスを三つ取り出すと、よく冷やした琥珀色の液体を並々と注いだ。

「いっぺんに持っていくのは無理だからね、お兄ちゃんに手伝ってもらって」
「うん! お兄ちゃーん!」

 こちらはその間にケーキをカットして、お皿の上に盛り付けていく。温めたナイフで慎重に、慎重に。ここでボロボロになったり、倒してしまったりしては元も子もない。「……うん、ばっちり!」わたしが満足して顔を上げれば、いつの間にかすぐ隣にキルアが立っていた。
 足音も無く、笑顔も無く。黙ってアルカちゃんが運びきれなかったグラスと、ケーキの皿をダイニングへと運んでいく。
 わたしは引き出しからフォークを三つ取り出して、二人の後を追いかけた。


「おいしい! ナマエさん、これすっごくおいしいよ。ほっぺたが落ちちゃいそう!」

 満面の笑みを浮かべながら頬に手をあてる彼女を見ていると、こちらまで笑顔が止まらない。
 三人がけ、という妙な円形のダイニングテーブルセットは、わたしがわたしたちのために創り出したものだった。グラスも、お皿も、フォークも、全部三人分。リビングにあるソファーも三人がけだし、寝室のベッドもちゃんと三つある。この家の全てが、三人で暮らしやすいように居心地よく創られていた。

「ありがとう。そんなに喜んで貰えると作った甲斐があるよ」

 よかった、わたし、お菓子作りが得意で。流石にお菓子の家は作れなかったから、外観のそれは念能力で作ったけれど、明日は二人に何を作ろうか。昨日はベイクドチーズケーキだったし、一昨日はマドレーヌを焼いた。その前は確か、フルーツタルトだったっけ。
 ちらり、とキルアを見れば、彼の皿も綺麗に空になっていた。男の子だし、なかなか素直に美味しいとは言ってくれないけれど、こう見えて彼もなかなかの甘党だ。特にチョコレート系のお菓子には目がない。

「キルアも、お代わりまだあるからね」
「あぁ」

 声をかけると、ハッとしたように頷いた彼の表情は暗かった。「……もしかして甘すぎた? 口に合わない?」キルアは首を振る。それなら、ナッツが苦手だったのだろうか。いや、前にフロランタンを作ったときは、喜んで食べてくれていた。

「じゃあ、どうしたの? 体調でも悪い?」

 それは大変だ。疲れている時には甘いものが効くけれど、病気の時にはむしろ気分が悪くなる。キルアは優しいから、無理してブラウニーを食べてくれたのかもしれない。「ごめんね、気づかなくて! ゼリーとかにすればよかったね」今からでも作り直そうか。リンゴジュースはまだ残っている。前にムースを作った残りの粉ゼラチンもあるし、ゼリーくらいならアルカちゃんもまだ食べられるだろう。
 わたしが慌てて立ち上がろうとすると、斜め向かいに座っていたキルアがわたしの手首を掴んで止めた。

「ナマエ、」

 少年だと思っていたのに、とても強い力だ。浮かした腰が思わず、すとんと椅子に着地する。キルアは相変わらず暗い表情をしていたけれど、わたしはそこでようやく、それが"悲しみ"を表すものなのだと気がついた。

「……オレたち、そろそろここを出ていこうと思うんだ」
「どうして?」

 そんな悲しい顔をするくらいなら、出ていくなんて言わなきゃいいじゃないか。
 わたしはアルカちゃんの顔を見る。彼女はちょっと困ったような表情でこちらを見つめ返しただけで、キルアの言葉を訂正したりはしなかった。

「……ナマエが良い奴だってのは知ってるよ。アルカのことを本当の妹みたいに扱ってくれて、すっげー感謝してる。ここにいれば絶対安全だし、アルカの能力でナマエが傷つく可能性もない。居心地だっていいし、ナマエの作るお菓子もホント美味いよ」
「だったら……」
「でも、ずっと家の中って意味じゃ前と――閉じ込められてるのと、変わらないと思うんだ」
「お兄ちゃん!」

 かちゃん、とフォークが皿に当たって、不協和音を奏でた。
 そっか。そうだよね。
 キルアはアルカちゃんに外の世界を沢山見せてあげたいんだもんね。
 それに、アルカちゃんはキルアの妹で、"わたしのいもうと"じゃないもんね。
 困ったような表情をしていたアルカちゃんは、今はもう、キルアと同じ悲しい顔をしていた。




 わたしが旅の途中だった二人と知り合ったのは、もうひと月も前の話になる。当然、知り合った頃は、彼らの出自やアルカちゃんの能力なんて知らなくて、お互いごく普通のスイーツ好きとして、街一番のケーキ屋さんで知り合った。
 そこで人気のケーキは、一日限定二個のプレミアム苺ショートケーキ。途中で代がわりして息子さんが作るようになったけれど、わたしがまだ子供だった頃から大人気で、お誕生日にはホールケーキではなく、わざわざプレミアム苺ショートケーキをねだる子もいたくらいだ。
 そんな、幼くして量より質派だったのが、何を隠そうわたしのいもうと。わたしがキルア達に会ったのも、いもうとの誕生日のためにプレミアム苺ショートケーキを買いに行ったときのことだ。
 正直、わたしも自分で手作りするくらい甘いお菓子には目がないし、地元という地の利があるけれど、プレミアム苺ショートケーキはいもうとの誕生日にしか買わない。一年に一回だけ、予約はできないからとびきり早起きをして、いもうとの為に買いに行く。不思議と今まで買えなかったことはなかった。不思議も何も、この街でわたしがこの日にケーキを買うということを、知らない人がいなかったからかもしれない。

「お願いします、そのケーキ、譲ってください!」

 けれども、その日は違っていて、わたしはみっともなく子供二人に向かって頭を下げていた。
 そりゃそうだ。街の外からだって、お客さんはやって来る。ケーキ屋のお兄さんはものすごく申し訳なさそうにして、今回は特別に作ってあげるよと言ってくれたけれど、それではだめだとわたしが断った。以前にナマエちゃんだけ予約をOKにしようか、とも言われたことがあるが、そんな努力もなしに手に入れたケーキではいもうとに申し訳がたたない。

 突然、大人に恥ずかしげもなく頭を下げられた子供たちは――髪の色は違うが、瞳がとても似ているので兄妹なんだろう――戸惑い、兄の方なんて明らかに不審がる目付きでこちらを見た。

「……そこまでするほど、このケーキって美味しいわけ?」
「ええ、いもうとが大好きなんです。それで、今日はいもうとの誕生日で……もちろん代金はお支払いしますから!」
「お兄ちゃん、私あげてもいいよ」
「アルカがいいなら、オレは別にいいけど……」
「本当ですか! ありがとう!」

 優しい子たちでよかった。これで今年もいもうとにケーキをお供えできる。しかしいざ小さな箱を手渡されると、わたしはちょっと思案した。

「あの、譲っていただくのは一つで十分なので……」
「って言っても、分ける箱がねーしな」
「だ、だったら、うちでお茶していきませんか? それで、一つ貰ってしまった分、わたしの作ったケーキでよければですが……」

 プレミアム苺ショートケーキにだけは勝てないが、他のものならお店に負けないくらいの自信作だ。
 二人はどうする?と顔を見合わせ、何やら視線で相談している。確かに、よく考えたらわたしは怪しい女かもしれない。このご時世、子供二人で知らない人の家に行くなんて危険だ。

「もしご両親と一緒にこの街に来たのなら、呼んでもらっても大丈夫ですよ。ケーキはたくさんありますから」
「いや、オレたち、他に家族なんていないから」
「そう……それは……えっと、ごめんなさい」
「別に謝ることじゃないって。それよりオネーサンが作ったのって何のケーキ? チョコレートケーキならオレ、行ってやってもいいけど」

 どうやら、わたしは不審者と見なされなかったらしい。「ザッハトルテ、ぴかぴかのチョコレートケーキです」笑いながら答えると、よかったね、お兄ちゃん、と少女も笑った。

「まっ、しょうがねーな。チョコだったら行くって言っちゃったし、あんた、念能力者なの隠す気ないくらいダダ漏れのド素人だし」
「え?」

 何を言ってるのかよく分からないけど、少年、実はわたしもケーキの中では、チョコレートケーキが一番好きなんだ。





「お兄ちゃん、そんな言い方……ナマエさんは別に悪気があって、」
「わかってるよ。だけどナマエだって限界だろうし、このままにしておくわけにいかないだろ……。ナマエはアルカの能力を知っても利用しようとはしなかったし、オレだってこのままここで三人で暮らすのも悪くないなってちょっと思ったこともあるんだ。だけど、」

 アルカちゃんの能力。それはわたしが二人を家にお招きしたときに知ってしまった。自分の念能力で創った家じゃない、街にある、わたしとわたしの家族が昔住んでた家。
 お互い簡単に自己紹介をして、ケーキを振舞って、わたしのいもうとが既に他界していることを伝えて、それ以上はお互い踏み込むつもりはなかった。けれどもアルカちゃんの能力は、本人ですらも制御できないものらしい。

「ナマエ、だっこしてー」

 それは本当に他愛のない、可愛いおねだりだった。唐突だし、なんの脈絡もなかったけれど、別にこれと言って断る理由もない。それよりわたしは、キルアの表情が引き攣ったことのほうが気にかかった。「いいよ」椅子から立ち上がって、アルカちゃんを抱き上げる。子供をだっこするのは随分と久しぶりだ。四歳だったいもうとの重さしか知らないから、見かけによらず結構ずっしりくるなと失礼なことを考える。

「ナマエ、いい子いい子してー」

 他に家族はいないと言っていたし、大人と喋って急に寂しくなってしまったのだろうか。わたしはそのままアルカちゃんの頭を撫でる。髪の毛がサラサラでとても羨ましい。
 相変わらず、キルアは固い表情のままこちらを凝視していた。

「ナマエ、高い高いしてー」
「うーん、それは、」
「いいからやれ! ナマエ!」

 四、五歳くらいの子供ならともかく、アルカちゃんくらいの子を腕だけで支えて持ち上げるのはなかなか厳しい。だが、わたしがごめんね、と断ろうとした瞬間、それまで黙っていたキルアがびっくりするような大声を出した。それはとても切羽詰まった響きを孕んでいて、口調通りの命令というよりも懇願に近いように感じた。

「う、うん……」

 気合を入れて、高い高いー、と口に出して持ち上げる。しかし、景色が大きく変わって楽しめるほど高くはあげられなかったようで、アルカちゃんの表情が不意に変わった。

「……え?」

 その表情は、何とも形容しがたかった。怒りでもない。喜びでもない。あえて言うなら"無"で、瞳や口があるはずの場所には文字通り虚空が広がっていた。

「こ、これはどういうこと……?」

 どうしたらいいの?とキルアを仰ぐが、青ざめた彼は何も答えない。何かを堪えるように、祈るように黙っているだけだ。そこでわたしはふと、ここに来るまでにキルアが言っていた"念能力"という単語を思い出す。あのときはぴんと来なかったけれど、わたしには誰にも言ってない秘密の力がある。他の人もわたしのように何か使えるとしたら。
 アルカちゃんも、もしかしてそうなのではないだろうか。この異変は彼女の能力に関係することじゃないんだろうか。
 わたしは意を決すると、"アルカちゃんだったもの"に向かって訊ねた。

「ど、どうしたらいいの?どうしたら、元のアルカちゃんに戻るのか教えて。ちゃんと高い高いすればいい?」
「……『お願い』一つ聞いてやるから白くなる。代わりに三つ『おねだり』聞けば黒くなる」
「え、えっと、『お願い』で白? 『おねだり』で黒く……?」

 よく分からないことの連続に、わたしの頭は沸騰しそうになる。しかし、わたしが理解するより先に、アルカちゃんの顔は元の可愛らしい普通の少女に戻った。というか、戻ったことでようやく、わたしは彼女の言ったことの意味がわかった。

「そうか……わたしが三回、アルカちゃんのおねだりを聞いたから」

 だったら一回のお願い事は、アルカちゃんの戻し方を教えて貰ったということでいいのだろう。納得して、わたしが彼女を床に下ろしたその瞬間、鋭いものが喉元に突きつけられる。
 キルアの爪は長く伸び、いつでも私の命を刈り取れる形へと変わっていた。

「……どうして? 助けてくれたんじゃないの?」

 わたしがアルカちゃんの最後のおねだりを断ろうとした時、キルアはとても焦った様子だった。あの鬼気迫った雰囲気からして、きっと彼女のおねだりを断るのはタブーだったのだろう。彼らが"念能力"と呼んでいるものが、とても大きな力であることは知っている。わたしがその力を使えるようになったのは今のアルカちゃんよりもずっとずっと後だったけれど、最初は使いこなせずに人を傷つけてしまったこともあった。きっとまだ、アルカちゃんも上手く使えないことがあるのだろう。
 わたしが緊張のあまり、震える声で問いかけると、キルアは自分のことのように苦しそうな顔をした。「お兄ちゃん、やめて!」アルカちゃんは悪くない。キルアもたぶん、アルカちゃんを守りたいだけで悪くない。

「兄妹なんだから、仲良くしなくちゃだめだよ……じゃないと、わたしみたいにきっと、後悔するよ」
「……」

 からり、と溶けた氷が、リンゴジュースの海でわなないた。
 やがてキルアはだらりと手を下ろし、わたしは思い出したように深く息を吐く。安堵のため息ではない。生き永らえてしまったのだという事実に、ずっしりと重みをのせるだけのため息だ。
 身体に力が入らない。きっと心と一緒に、色んな感覚も麻痺してしまったのだろう。
 そういえばいもうとが死んだ日も、こんな感じだったような気がする。




 わたしといもうとは八つも歳が離れていて、事故があったとき、わたしはちょうど今のアルカちゃんくらいの年齢だった。
 その日は、蝉すらも鳴かないような夏の暑い日で、午後の気温に耐えかねたわたしたちは浴槽で水遊びをしていた。

 両親は仕事でいない。けれど、お姉ちゃんのわたしがいれば大丈夫だ。お父さんもお母さんもそう思っていたし、わたし自身もそう思っていた。
 でも、言い訳をさせてもらうなら、わたしだってまだまだ子供で、いもうとのお守りなんかじゃなくて友達と遊びたい年頃だったのだ。だからいもうとにねだられた水遊びを早々に終了して、まだ遊びたいとごねるいもうとが泣き疲れて眠るのを待って、わたしはこっそりと家を出た。友達と遊ぶ為に。
 もしもいもうとが起きて、わたしがいないことに気づいたとしても、帰りにいもうとの好きなケーキ屋さんの、ケーキは無理でもクッキーを買って帰ればいいだろうと思った。

 家にさえいれば、安全だから――。

 結局、それが単なるわたしの思い込みだったということは、夕方に帰宅してすぐにわかった。空っぽのお昼寝布団。リビングにも子供部屋にもいないいもうと。閉めたはずの浴室のドアが半開きになっていて、中を覗くといもうとが浴槽に浮かんでいた。

 きっと、水遊びの続きをしたかったのだろう。あんなに泣いていたんだもの。友達と遊びになんて行かなければよかった。一緒に遊んであげれば――目を離さなければよかった。
 思わず握りしめたクッキーが粉々になる。もう、こんなものでは罪滅ぼしなんてできない。

 それ以来、"家"というものは、わたしにとって安全な――心休まる場所ではなくなった。いもうとの死の責任をめぐって喧嘩する両親の声は聞きたくなかったし、家具も、玩具も、何もかもいもうとのことを思い出させて辛かった。わたしはいもうとを殺したくせに、誰にも傷つけられない、居心地のいい"家"に逃げ出したかった。
 そうして、できたのが身勝手すぎるわたしの念――私の帰る場所ホーム・スイート・ホーム。実家はまだ、街にある。両親が離婚して売り払ったあと、大人になったわたしが買い取った。わたしは今でも贖罪の為にその家に住んで、いもうとの誕生日にはいもうとの好きなケーキを買う。だけど、どうしても、自分が生きていることに、罪の意識に耐えきれなくなった時は――。




「もうナマエ、限界なんだろ。いい加減、念を解除しろよ……オレ達が出たいってのもあるけどさ、このままじゃホントに死ぬぞ」

 街外れの雑木林の中に佇む、念で出来たおかしの家。そこがわたしの逃げ場であり、懺悔室だ。ここに他人を招いたのは、彼ら兄妹が初めて。
 二人は、特にアルカちゃんは、精一杯わたしの"いもうと"を演じてくれた。優しい彼女はわたしを憐れんでくれたのかもしれない。聞いた部分も、聞いていない部分もあるけれど、二人もまた“家族”というものに対して、特別な感情を持っているのだと言う。

「アルカをホントの家族よりも、よっぽど大事にしてくれてありがとう。オレも……あんたみたいな姉貴だったら、欲しかった」
「っ、そんなこと……」

 涙の膜が邪魔をして、キルアの顔を見ることができない。それを拭おうとした手を、小さくて温かいものがぎゅっと包む。いつの間にか隣に立っていたアルカちゃんが――いもうとが、わたしの手を握ってくれていた。

「ナマエさん、ありがとう。ナマエさんももう、幸せになっていいんだよ。お姉ちゃんがいつまでも悲しい顔をしてることのほうが、私は悲しいよ」

 その瞬間、堰を切ったように色んな感情が溢れ出して、わたしは言葉にならない嗚咽をもらすのみだった。
 ごめんなさい。ありがとう。アルカちゃんは本当のわたしのいもうとではないとわかっているけれど、それでも涙が止まらなかった。ボロボロと零れる涙と一緒に、お菓子の家が崩れていく。あの日握りつぶしたクッキーのように、屋根が、壁が砕けて粉々になっていく。
 でも、もうここはわたしの帰るところではないから、"ただいま"なんて言ったりしない。

「アルカちゃん……ぎゅっとして」
「うん」
「いい子、いい子して」
「うん」
「また、気が向いたときでいい。この街に来ることがあったら、わたしの"実家"に遊びに来て……?」
「うん!」

 私の帰る場所ホーム・スイート・ホームが消えれば、わたしたちはただ雑木林で座り込んでいるだけだ。それでも抱きしめてくれる彼女がいるから、わたしはちっともつらくはない。

「ナマエさん、代わりに私のお願いも聞いて」
「なに?」
「次に会う時は苺のショートケーキが食べたい。お店のじゃなくって、ナマエさんの作ったやつ」
「……うん、いいよ」
「オレはやっぱチョコケーキな」
「うん、うん……! わたしいっぱい、練習するよ!」

 家に帰ったら、たくさんレシピがあるから。次に二人がここへ来るまでに、街のケーキ屋さんに負けないくらい美味しいものを作ろう。そして二人が美味しいと言ってくれたら、今度からいもうとに供えるケーキはわたしが作ろう。

「本当にありがとう、アルカちゃん、キルア」
「こっちこそ、沢山美味いもんありがとな」

 行ってきます!
 元気にそう言った二人を見送って、わたしは行ってらっしゃい!と手を振る。
 もしかすると苺のショートケーキには、ちょっぴりほろ苦いコーヒーが合うのかもしれないな、と思いながら。

MARKER MAKER様に提出



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