- ナノ -

■ ツァイガルニクに捧ぐ

 ここに数匹ずつネズミの入った、AとBのケージがある。
 Aのケージには特に何もしない。餌も水も十分にあり、自由に運動することも眠ることも可能だ。一方、Bのケージは生活における待遇では差がないものの、一定の時間ごとに弱い電流が流れるようになっている。即死したり、耐え難い苦痛を感じるほどではないが、BのネズミはAに比べて負荷を受けている状態だ。 
 さて、こういった実験系を組んだ場合、最終的にどちらのケージのネズミが長生きしただろうか。
 
 
「ねぇ、パリストンさんが来てるってほんと!?」
 
 ハンター協会本部の置かれる、スワルダニシティ。そこから車で一時間半ほどの郊外に、ナマエの暮らす児童養護施設は存在した。施設には二歳から、上は十八歳までの合計四十七名の子供が入所しており、その六割近くが近親者からの虐待を受けて避難してきた者たちだ。
 
 実際、ナマエももれなくそのうちの一人であったが、弾んだ声と共に勢いよく家長室のドアを開けた彼女の表情は、過去の翳りなど一切感じさせない。それもそのはず、ナマエが親元を離れて入所したのはもう八年も前の話で、緩やかながらも時の流れは確実に彼女に癒しを与えているのだろう。
 
「もう、ナマエったら! ノックくらいしなさい!」
「エリス先生ごめんなさい。で、パリストンさんは?」
 
 ナマエの乱れた髪や上気した頬から、学校が終わるなり一目散にここまで駆けて来たのだということがよくわかる。もはや彼女の母親代わりと言っても過言でない施設長のエリスは、叱るのをやめてついつい苦笑を漏らした。
 
「まったく、あなたって子は……遊戯室におられるわよ」
「ありがとう!」
 
 ナマエはにっこり笑うと、それ以上の時間は惜しいとばかりにくるりと向きを変える。パリストン=ヒルという男は、彼女にとってそれほど特別な存在なのだ。エリスがナマエにとっての母親代わりだとしたら、パリストンは父親代わりというべきだろうか。いや、それにしては憧れが強すぎる。第一、パリストンが十七のナマエの父親代わりをするには、流石に若すぎるというものだろう。
 
 エリスは開けっ放しのまま放って置かれたドアを見て、本当にあの子は……と肩を竦めた。
 それから、この児童養護施設の出資団体である、ハンター協会から来たパリストンという男について思いを巡らせる。彼はまだ若いのにとても優秀らしく、協会内でもそれなりの地位にいるらしい。しかし忙しい中でも福祉活動の一環として、今日のように各地の児童養護施設へ自ら足を運んでいる。愛想もよく、清潔感もあって、訪問時には子供の喜びそうな玩具やお菓子を持ってやってくるため、ナマエのように懐いている子供も少なくない。
 ただ、エリスはなんとなく思うのだ。別に具体的な理由があるわけでもない。むしろ彼と彼の協会には非常に良くしてもらっていて、感謝してもしきれないことは理解している。それでも――
 
「私、なぜかあの人苦手なのよね……」
 
 ぽつり、と思わず漏れた感想に、慌てて口を手で押さえる。普段、人のことを悪く言ってはいけないと子供達に教えているのに、これでは偉そうに説教できたものではない。
 
 エリスは自分を戒めるように軽く頭を振ると、今度はナマエに思いを馳せた。
 この施設は十八で出なければならないと決まっている。今まで彼女に進路を聞いてもはぐらかされてばかりだったが、もう気づけばあと半年だ。なんだかんだしっかりしている子だからそこまで心配はしていないものの、一体どうするつもりなのだろう。 
 別にナマエだけに限った話ではないが、エリスは子供達に幸せになってほしいと思っている。子供のうちに辛い経験をしてきた分、大人になってからは穏やかで、ささやかながらも満ち足りた人生を送ってほしいと思っている。
 
 どうかナマエが、もう、怖い思いや痛い思いをすることがありませんように。
 誰かを愛して、誰かに愛されて、孤独を感じることがありませんように。
 
 言葉に出さない祈りにも似た思考は、その時ちょうど遊戯室のほうから聞こえてきた子供の歓声にかき消される。
 きっと何か、面白いことでもあったのだろう。 
 柔らかい微笑みを浮かべたエリスは何の疑いもなく、いっそ愚かなほど純粋に、この長閑さが続くと信じきっていたのだった。
 
 
 
 目新しい玩具に飛びついた年下の子供たちは、どうやらお礼もそこそこに“ネバーランド”へと入ったようだった。ぬいぐるみや人形を片手に物語を紡ぐ者、グッズを使って流行りのヒーローに変身する者。もう少し歳の大きな子供達はゲームに夢中なようだが、やはり彼らの世界のどこを見回しても、ナマエの居場所はもうここにない。
 
 遊戯室に入ったナマエはざっと室内を一瞥すると、にこにこと笑顔を浮かべて子供たちが遊ぶ様を眺めていたパリストンの隣に立った。会いたかったとも、来るなら連絡くらいしてよとも言わない。そういう我儘を言うのは酷く子供じみた行いで、ナマエは自分ではもう子供ではないつもりだからだ。
 代わりに、弾んだ息を誤魔化すようにすました顔をして、隣の彼にだけ聞こえるような声で囁く。
 
「……あと半年って、やっぱり長くないかな」
 
 パリストンは変わらず横顔のまま、ゆっくりと口を開いた。
 
「おやおや、ボクはいつでも歓迎しますよ。あなたが先生を心配させたくないから、十八まで出ないと言い張ったんじゃないですか」
「それはそうだけど……」
 
 ナマエがこんなに一生懸命走って帰ってきたというのに、こちらをちらりとも見ないなんてあんまりな仕打ちだ。途端に、未だ肩にかかったままだったスクールバッグがずっしりと重みを増し、思わずどさりとその場に下ろす。
 ちょっとやそっとの背伸びでは、馬鹿馬鹿しいだけだった。スーツを着ているせいか、彼自身の落ち着いた雰囲気のせいか、ナマエにはパリストンが酷く大人びた遠い存在のように思える。
 エリス先生とはまた違う、大人。彼が持ってきた玩具のように何もかも新しくて、ナマエの知らない面白いことを知っている大人。
 パリストンとはそういう男だった。自分自身すらも知らなかった才能に気づいてくれたこの男の前では、ナマエは所詮まだまだ子供なのだ。
 
「だって、ハンターになるなんて言ったら絶対反対されるもん。先生はさ、あたしに普通の生活送ってほしいんだよ。普通に就職して、普通の人に出会って結婚して、子ども産んでーって」
 
 これ以上取り繕う気にもなれず、ため息とともに漏れた言葉はどこか愚痴めいていた。確かに、先生の気持ちはわからなくもないのだ。ナマエは本当に彼女に感謝しているし、彼女がナマエのことを心から案じてくれているのも知っている。それでもナマエには、先生の言うような"幸せ"が自分に訪れるなんて、どうにも信じられなかった。具体的なビジョンが浮かばないというのだろうか。
 そもそも念を使えるようになってしまっている時点で、初めから"普通"のスタートラインに立てていない気がしてならなかった。
 
「普通、というのが一番難しいですからねえ」 
「そうなの。でも、十八になれば施設からは完全に独り立ちすることになるし、この国の法律的にも成人だし、自由にしていいと思うんだよね」
「ではやっぱり、あと少しの我慢が必要ですね」
「あと少しって半年もあるんだよ。長いって。あーあ、"誰か"があたしを攫ってくれたりしないかなあ」
 
 意味ありげに目配せをしてみたが、別に本気で"彼に"攫って欲しいわけではなかった。ただここから早く出て大人になりたい気持ちと、先生を裏切りたくない気持ちが両方あって、攫われるという受け身なら両方満たすことができるのではないか、なんていう身勝手な願望だ。
 あとは単純に、ナマエなど眼中にないと言わんばかりのパリストンの態度にむかついて、少しからかってやろうとしただけだった。
 
「では、ボクと駆け落ちでもしてみます?」 
 
 鳶色の瞳がゆっくりと動き、まなじりの端でナマエを捉える。
 その瞬間、息の仕方も思い出せなくなった。
 いつもの爽やかさとは程遠い色めいた表情に、ナマエは小さく喘鳴するしかなかった。これはもう、背伸びをしてどうこうなる範疇を超えている。まるで魔法を解くかのようにパリストンが笑いだすまで、ナマエは言葉を発することができなかった。

「ははは、冗談ですよ。ボクを犯罪者にするつもりですか?」 
「っ! わかってる! こっちこそ冗談だよ!」
「第一、あなたの目的は、ボクとここから出ることではなくハンターになることでしょう」
 
 厳密に言えばそれも違っていた。ナマエはハンターになりたいのではなく、この男に近づきたかったのだ。安穏とした普通の人生を送るよりも、人生には“刺激”があったほうがいい。ハンターになれば平和な人生は送れないかもしれないけれど、もしかすると寿命を縮めることになるかもしれないけれど、特別でなければ普通のナマエなんて、きっとすぐに忘れられてしまう。エリス先生だって良くはしてくれるけれど、所詮ナマエはたくさんいる不幸な子供たちのうちの一人でしかないのだ。

「あたし……試験ちゃんと受かるかな」

 死んでも死なない死に人形デッド・デッド・リビングデッド・ドール――それが彼の見つけ出してくれたナマエの能力で、自分ではほとんど不死に近い能力だと思っている。腕がもげても、下肢が吹き飛んでも、苛烈なまでの“生への執着”がナマエをこの世に繋ぎ留めるのだ。表面上は癒えたようにみえても、“死にたくない”と喘ぎ続けた幼少の経験は今のナマエを確かに形作っている。

「危険は多いですが、あなたの能力なら大丈夫でしょう」
「だよね」
「それに、危ないと感じたら棄権をしてもいいんですよ。別に試験は一度きりではないんですから」
「うん……」

 それを言うなら、本当はハンターなど目指さなくてもいいのだ。“死にたくない”なら先生の言うように、ごく普通の人生を送ればいい。何も自分から危険な道へ進む理由はない。
 だが、ナマエには“死ぬことよりももっと恐ろしい”ことがあった。その恐怖から逃れるためには、ハンターという“特別”な存在になるのが最も近道で、それはなるべく早い方がいい。

「半年後、あなたが試験を受けに来るのを楽しみにしていますよ」

 パリストンはそう言うと、いつものようにナマエを置いて帰っていった。試験は何度でもあると言ったが、彼はきっと再来年にはナマエに言葉をかけてくれないだろう。

 試験に落ちるような平凡な人間では、きっと彼の記憶から忘れ去られてしまうから。


 △▼
 
 ストレスは無いほうがいい。傷つけられることに怯えなくていい生活は幸せだ。
 ナマエは日常的に暴力に晒されることの恐ろしさを、その経験から実によく知っている。ナマエの両親は幼いナマエを脈絡なく、理不尽に、感情のまま痛めつけることがあった。そこには“躾”の建前すら存在せず、ナマエは両親がどうして怒っているのか、何がいけないのかすらわからなかった。

 いや、本当は何がいけないのかは気づいていた。
“薬”だ。ナマエの両親の精神が安定せず、意味もなく攻撃的だったのは、彼らが非合法な薬物を摂取していたからだと思う。当時、幼いナマエにはそれが何であるか、もっと言うと悪いことなのかすら判断できなかったが、ナマエにとって両親の手元に薬の包みが無いことは最悪の事態だったのだ。

「なんで皆、暗黒大陸なんか行こうとするのかなぁ。全っ然わかんないなぁ」

 施設を十八で卒業して、三年。ナマエはちゃんとハンターになっていたし、パリストンもいつの間にか、協会の副会長という地位まで登りつめていた。しかし正直なところ、あの頃から何が変わったのか自分でもはっきりとわからない。成人を迎えても、ハンターという資格を手にしても、相変わらずパリストンはナマエにとって遠い“大人”のままだった。少なくともナマエの頭では、彼の“右腕”や“相談相手”になることはできず、言われた仕事を深く考えずにこなしていくだけだ。彼のあまりのよろしくない噂も当然耳にはしていたけれど、それでもナマエにとってのパリストンはまだ、施設に訪ねてきてくれていた頃の“お兄さん”のままだった。

「多くの国は資源、でしょうね。あるいは、ボクたちのように“刺激”を求めて、とか」
「“刺激”ねぇ……」

 その意見はわからなくもない。ナマエだって平凡な生活が嫌で逃げ出してきたクチだ。
 だが、もしもナマエの両親に“どうして薬なんかに手を出したのか”と尋ねてみたら、一体どんな答えが返ってくるのだろう。自分でも“刺激”を求める一方で、ナマエはそんな人間を見下さずにはいられない。資源や刺激リターンよりも遥かに大きな危険リスクしかないのに、暗黒大陸へ行こうとするなんて信じられなかった。

「まあ、いいや。どうせ難しいことは、あたしが考えてもわからないもん。いつもみたいにやることだけ教えてくれればいい」
「さすがナマエさん、話が早くて助かります」

 話が早いもなにも、この男がナマエを呼び出すときは必ず何か仕事があるときだ。内容は“公的”なものも“私的”なものも入り混じっているが、とにかくナマエはパリストンが望むことをやればいい。そうやって彼の役に立つうちは、彼はナマエのことを“忘れない”。
 副会長室に通してもらって、革張りのソファーに腰かけて、彼と同じ苦いコーヒーを飲むことは、それだけで価値のあることだった。中身なんて全く理解できなくても、彼の計画に耳を傾けているとそれだけで“大人”に近づけた気がした。

「あなたには、とある生命体の研究を手伝ってもらいたいんです」
「は? 研究……?」

 てっきり肉体労働がくるとばかり思っていたナマエは、予想もしなかった単語に思い切り首を傾げた。強化系の自己治癒力を極限まで高めたこの能力。今までだってほとんど“鉄砲玉”のような危険な仕事ばかりだった。普通の人間だったら一体何度死んだかなんて、数えるのも恐ろしいくらいナマエは“身体”を使うのが仕事だ。研究なんていう専門外のことは、できることなら遠慮したい。
 しかしパリストンはナマエが無理だと突っぱねるより早く、まぁ最後まで聞いてくださいと小さく首を振った。

「かつて、ハンター協会とミンポ共和国で協力して、暗黒大陸の調査に向かったことがあるんです。目的はあらゆる液体の元となりえる、三原水の入手。今では特別渡航課トッコー預かりの極秘情報になっていますが、協会も関わった以上、資料が残っていましてね」

 その話は、前にもパリストンから聞いたことがある。記憶は曖昧だが、V5はかつて独自に暗黒大陸に挑戦し、みな手酷い失敗をしたのだ。だからこそ、今現在は“条約”なんてものを結んで、誰かが抜け駆けすることを禁止している。近代五大陸という括りは平和のためでなく、所詮は互いを牽制するための仕組みなのだ。

「残念ながら成果は気の狂った帰還者がたった三名だったんですが、その際の渡航者の手記に“霧状の生命体と接触した”というものがあるんです。“それ”はあらゆる望みを叶えてくれる。ただし、相応の対価を求められる……と」
「それだけ聞くと、災厄って感じはあんまりしないけど……だってタダでお願いを叶えてくれるって思う方が悪いでしょ」
「そうですね。何かを望むなら、代わりに何かを差し出す。これ自体は理にかなっています。ただ、厄介なことにこの対価は、願いを叶えた者が支払うのではないんです」

 パリストンはそう言うと、ローテーブルの脇に置かれていた軍儀用の駒をいくつか並べてみせた。暇を持て余した会長とたまに勝負してるんです、と彼が話していたのは覚えているが、そのルールをナマエは知らない。どうやら今回、彼はわかりやすいように、駒を登場人物に見立てて説明してくれるようだった。

「たとえば、過去の実験例にこんなものがあります。被験者Aは生命体に“新しい家が欲しい”と願いました。それは瞬時に叶えられましたが、生命体はAには何も要求しません。次にやってきた被験者Bに『右手の小指』、『左手の中指』、『左手の親指』を要求しました」

 黒い駒が生命体、白い駒が人間ということなのだろう。願い事を叶えたAの駒はさっさと盤外へと離脱し、盤面に残るは黒白の駒が一つずつだ。

「家って……夢が無いというか、随分現実的な願い事だね」
「まぁ、被験者Aには詳しいことは伝えていませんから。戯れの質問だと思ったのでしょう。とにかく被験者Bは突然、自分が何の願いも叶えていないにも関わらず、そのような理不尽な要求をされるんです」
「そんなの、嫌だって断るに決まってる」
「ええ。生命体がどの指を欲しがっても、被験者Bは断りました。その結果、」

 ばらばらっ、と大きな音を立てて、複数の駒がパリストンの手から無造作に落とされた。突然の行動にナマエは首を竦め、興味深く彼の表情をうかがう。パリストンは文字通り“駒”を見るような目で、無残に飛び散ったそれらを見つめていた。

「彼と彼の家族三名、同僚八名は死亡しました。当時、それぞれ別の場所にいたにも関わらず、縄状にねじり殺されて同時刻に亡くなったんです」
「……」
「対価の支払いを拒めば、命で贖うことになる。ただし、断った本人だけではないというのが肝です。実験から本人と関わりの深い人間、というのは推測できるのですが、その効果範囲も生命体が要求する対価のレベルも現状はっきりと定義できておらず、まだまだ実用段階ではありません」
「実用段階……? それじゃあその生命体は今も“こっち”にいるの?」

 パリストンは答えない。鳶色の瞳で、こちらを静かに見返すだけだ。ナマエはハッとして気まずげに視線をそらした。

「ごめんなさい、質問を変える。あたしは被験者Bの役をやればいいということ?」

 おそらく、願いの対価レベルを調べる研究、ということなのだろう。普通の人間なら指や手を寄こせと言われても断るが、ナマエならある程度再生することができる。実験の度に被験者Bが死ぬのも、周囲に被害が出るのも困るから、ナマエはまさしく適任というわけだ。ここまで説明されてようやく腑に落ちたが、それでも一つだけ、どうしても引っかかることがある。

「だけど……知ってるよね。あたしの再生は完璧じゃない。頭部が切断された場合や、心臓や肺、生命維持に直接関わるような臓器が欠損した場合は再生できないよ?」

 死んでも死なない死に人形デッド・デッド・リビングデッド・ドールの能力は極めて不死に近いが死なないわけではない。怪我をすれば痛みだってあるし、再生にもそれ相応の時間がかかる。心臓や脳が破壊されれば即死するし、激痛によるショック死や再生中の失血死もある。
 その生命体がどれほどの物を望むかは知らないが、ナマエだって十分に死ぬ可能性があるのだ。

「ええ、もちろん知ってます」
「っ、それじゃ、」
「そうそう、先日、ナマエさんのご両親にお会いしましたよ」

 呼吸の仕方を忘れるのは、随分久しぶりだった。
 どうして急にその話を? なぜ今更ナマエすらも会っていない両親に?
 疑問は尽きることなく浮かんだが、そのどれもが言葉として形を成さない。動揺するナマエをよそに、パリストンはなんてことない世間話をするように話を続けた。

「薬もやめて、すっかり更生されているようでしたね。ボクは存じ上げなかったんですが、十歳になる娘さんもいらっしゃって、名前はなんだったかな……そう、確か“ナマエちゃん”と」
「……」
「姉妹揃って同じ名前・・・・なんて変わってるなぁって思ったんですけど、どうも彼らにとっては一人娘らしくて、」
「やめて!!」

 改めて説明されなくても、その話はナマエこそが一番よく知っている。孤児院に引き取られた後も、卒業した後も、一度も会いにこそ行かなかったが、彼らの消息を追わなかったわけではない。
 薬のせいでナマエを虐待した両親は、更生施設から出るとナマエのことをすっかり忘れていた・・・・・。それが薬のせいなのか、わが子を虐待したことを認めたくない防衛反応なのかは知らない。とにかく彼らは綺麗さっぱり、ナマエの存在ごと忘れていたのだ。そして次に生まれた娘に、“初めて子供ができたらつけようと思っていた名前”をつけて可愛がっていた。ナマエは“いなかったこと”にされたのだ。その事実は虐待を受けた肉体的な痛みよりも激しく、ナマエの心を苛んでいた。

 死にたくない。怖い。痛いのはいや。
 でも、忘れられるのはもっといや!
 怪我が見つかったから、あたしはパパとママと離れ離れにされたんだ。
 殴られても、焼かれても、あたしが平気だったら。
 あたしの怪我がなかったら、痛めつけられてもすぐに治れば――。

「ナマエさん。死んでも死なない死に人形デッド・デッド・リビングデッド・ドールは、物理的な傷しか治せません」
「……」
「今回の頼みは、あなたに死んでくれと言っているも同然だ。そして、それが酷い頼みだというのはボクも理解しています」

 沈痛な響きをはらんだ彼の声は、どこか芝居がかっていた。俯いて顔を覆ったナマエは、彼の表情を見る勇気がない。顔を上げればきっと、先ほどのように“駒”を見るような瞳がそこにあるのだろう。

「でも、ボクは信頼しているからこそ、あなたに頼むんです。さっき言ったでしょう? 生命体の要求を拒めば、拒んだ人間の近しい者も死ぬ。昔であればあなたの近しい者はエリス先生だったかもしれませんが、今はボクではありませんか? それとも、ボクの自惚れでしょうか?」
「……そうだよ、あたしが怖気づいて要求を断れば、パリストンだって死ぬんだよ」
「では、ボクと心中でもしてみます?」
「……」

 駆け落ちだの、心中だの、とことん似合わないことばかり言う男だ。ナマエは現実から目を背けるようにきつく目を閉じる。「もしも……もしもあたしが死んだら、覚えていてくれる?」心中してしまったら、パリストンも存在しなくなる。そうすれば今度こそ、本当にナマエを覚えていてくれる人は誰もいなくなってしまう。

「ええ。ツァイガルニク効果というものを知っていますか? なんでも人間は、達成できたことより、達成できなかった事柄のほうを強く記憶に残すらしいんです。ボクはあなたともっと生きたかった。でも、ボクのせいであなたが死んだのなら、きっと一生忘れることができないでしょうね」

 ぼたぼたと盤面に落ちたのは、今度は駒ではなかった。
 顔を覆った指の隙間からあふれる雫が、ナマエの恐怖心を穿っていく。吐き気がした。めまいがした。それでもどこか胸の奥が温かかった。一番は両親に“忘れない”と言われたかったけれど、それが駄目ならこの男でも悪くないなと思ってしまった。

「……実験は、いつから?」
「早くても一年後でしょうか。“あと半年”があれほど長かったんですから、そう急いだ話でもないんです。でもずっとあなたに隠し事をしているのはどうにも心苦しくて」
「いいよ……あたしも時間があったほうが、色々気持ちの整理もつけられるし」
「では、引き受けて頂けると?」

 ナマエはゆっくりと頷いた。きっとバカだって思われただろうな、と考えながら。
 それでも、バカな女として記憶に残るなら、それもそれでアリかもしれない。
 情報追加。死んでも死なない死に人形デッド・デッド・リビングデッド・ドールは馬鹿まで治せない。頭部の再生はやったことが無いから当然と言えば当然か。
 去り際に無理やり飲み干したコーヒーは、苦いというよりしょっぱかった。

「ナマエさん、最後にもうひとつ、面白い話をしてあげましょう」
「……なに?」
「何も不満がなく快適な環境下に置かれたネズミと、死ぬほどではないが常に微弱な電流を流されて生活するネズミ。どっちが長生きすると思います?」
「そんなの……快適なほうじゃないの?」
「いいえ、違います。生き物が生きていくためには、ある程度の刺激ストレスも必要なんですよ」

 それなら、ナマエがエリス先生の描く平穏から進んで身を投げたのも、自然な選択だということなのだろうか。
 今更後悔などしていないが、ナマエにしてみれば遅すぎた話題だ。薬物も、暗黒大陸も、どう考えても微弱な“刺激”ではない。

「ある程度なら、そうなのかも。でも、過度な刺激ストレスは身を滅ぼすね」
「確かに。ボクも気をつけます」

 苦笑したパリストンを見て、なんだもう笑うのか、と白けた思いになった。
 きっと一年後、土壇場でナマエが裏切ったとしても、“近しい者”でない彼は一緒に心中してくれないだろう。
 廊下に出て、副会長室の扉に向かって、「酷いやつ」と呟いてみる。

 どうやらそんな現実を悟ってしまうくらい、ナマエはいつの間にか“大人”になっていたらしかった。

MARKER MAKER様に提出


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