- ナノ -

■ 魔物は笑う


 そのとき、雨は電車に揺られていた。
 持ち主の意識が携帯の画面に向いているのをいいことに、どこにでもあるような透明のビニール傘が自由気ままに雫を振り落としている。ぽたり、ぽたりと、床に水溜まりを成す量からして、地上ではかなりの雨が降っているのだろう。快晴のときでもどこか仄暗い地下鉄は、肌に張り付くような湿度のせいでさらにどんよりとしていた。

 仕事帰りの私は、ちょうど斜向かいの席からその迷惑な乗客の後ろ姿を眺めていた。特に深い意味は無く、いつもなら自分も周りと同じように電子機器の虜だったろう。ただ、特に疲れ切った日なんかは、そうやって携帯を取り出すのすら億劫な時がある。おそらく昨日、録り溜めたドラマを一気見して、夜更かししてしまったせいもあるかもしれない。
 がたん、ごとん、と揺れる座席は心地よく、微睡むにはちょうどよかった。車内を見回せば自分の他にも目を閉じている人がちらほらおり、これもまた見慣れた日常のひとつだ。アナウンスによると私の降りる駅はまだずっと先だったので、このまま一眠りしてしまっても大丈夫だろう。

 しかし寝顔を見られないように俯く体勢をとった私は、そこでふと、妙なことに気がついてしまう。
 いつの間に矛先を変えたのか、迷惑な乗客の落とす雫が、正面の席に座る男の靴下をびちゃびちゃに濡らしているのだ。男の方は今まさに私がとろうとしていたような俯き加減の姿勢で、雫がぽたぽた落ちてきても、ぴくりとも動かない。革靴にかかるくらいならば気づかないのはわかるが、あれだけ靴下を濡らされて普通気づかないものなのだろうか。
 眠気で霞んだ思考のくせに、私は不思議に思って男をじっくり観察した。年の頃は、三十代後半。コンビニのビニール傘と同じくらい、どこにでもいそうなスーツ姿の男だ。表情を伺うことはできなかったけれど、爆睡しているわりには寝息のひとつも聞こえない。

 ――あの調子じゃ、きっと乗り過ごしてしまうだろうな。

 私はすぐに興味を失うと、ほんの少し眠るだけだと言い聞かせて目を閉じようとした。そのときだった。

 がたん、と一際大きく電車が揺れ、それと同時に男の首がぐらりと曲がる。眠っている人間が、隣にもたれ掛かるのとは明らかに様子が違って見えた。
 男の隣に座っていた学生が迷惑そうに携帯から顔を上げる。男を押し退けようとして、目撃し、唇をわななかせた。

「え、え、あ……」

 男の首は、生まれたての赤ん坊のようにぐらついていた。学生が飛び上がるようにして座席を立つと、そのまま男は空いたスペースに倒れ込み、ありえない方向に首を曲げる。瞬間、悲鳴を上げたのは傘の持ち主の女性だった。彼女は自分がつい先程まで男の靴下を濡らしていたことなどつゆ知らず、目の前にもたらされた非現実にいち早く反応した。

 女性の言葉にならない声に、視線が集まる。画面から顔を上げ、眠りから覚醒し、みな理解できない光景に思考を停止する。
 そんな中でも、車内にはまだ何人か眠ったままの人間がいた。ひょっとすると彼らもまた、男と同じように死んでいるのかもしれない。
 さて、そんなふうに考えてしまった私は、一足先に狂っていたのだろうか。それとも、これは夢なのだと、強烈な正常性バイアスが機能していたのだろうか。
 だって、ほら。よく考えれば、何もおかしいことなんてない。
 死んだように眠る人間がいるなら、眠るように死んでいる人間がいてもおかしくないじゃないか。

▼△


 そのとき、殺人鬼は電車に揺られていた。
 いくら“鬼”なんて表現をされようが、獣のようには速く走れないし、鳥のように空を飛べる訳でもない。となれば車を買う金がない以上、公共交通機関を利用するのは当たり前のことで、ナマエはごく普通の人間のような顔をして、大人しく電車に揺られていた。

 しかし、今現在ナマエが乗っている電車は、ナマエの目的地とは真反対の方向に向かって走っていた。乗り換えたのも、つい五分ほど前の話だ。計画的なものではない。必要に迫られて、とにかく反対側のホームにやってきた電車に飛び乗った。その心中は"またやってしまった"というありふれた後悔に溢れている。

 ――ああ、消えてしまいたい。

 この時期の電車というのはどこも湿気で蒸し暑く、それが余計にナマエの気持ちを暗くした。
 仕事もない。住む家もない。もっと言うと実は、戸籍もない。わざわざ消えてしまいたいと思わなくても、ナマエは“この世に存在しないはず”の人間だった。確かにゴミの山で暮らしていた生活に比べれば、今の方がマシなのかもしれない。が、あそこにはナマエと同じような人間がたくさんいた。あそこでなら、ナマエはゴミではなく"人間"だった。

 今頃、あの男の死体は発見されているだろうか。それとも終点まで見つからないだろうか。
ナマエは手の震えを誤魔化すように、ぎゅっと両手を組んだ。この土地に来てから、あの男で三人目だ。そろそろ場所を移動した方がいいかもしれない。その思考に、いよいよ殺人が板についてきたな、と我ながら笑うしかなかった。実際に浮かんだ表情は、醜い泣き笑いでしかなかったけれども。

 ナマエは別に、好きで人を殺しているわけではなかった。いや、正確には人殺しを楽しんでいるわけではないと言ったほうがいいだろう。ただ時折、自分でも制御出来ない、どうしようもない衝動が身のうちに湧き上がるのだ。
 魔が差した、という言葉があるが、ナマエは常に魔に魅入られている気分だった。つらいことがあった時、消えてしまいたいと思った時、その魔物はナマエを支配する。特に、安穏と眠っている人間を見ると、その平和さと呑気さに我慢ならなくなるのだ。

 初めて自分でやってみるまで、人間の首の骨がこうも簡単に折れるなんて思いもしなかった。顎と頭を持ち、力を込めてぐっと捻るだけ。もたれかかってきた人間を押し返す振りをすれば、意外にこの密室での犯行は誰にも気づかれなかった。後は熟睡して見えるように気をつけて座らせておけば、運がいい時は終点で車掌が起こすまでバレない。

 電車は公共の場だが、その公共性は既に失われていた。誰もが相互に無関心で、その無関心に苦しめられていたナマエからすると、この堂々とした犯行が露見しないのは皮肉でしかなかった。もちろん、自分の罪がバレるのは恐ろしい。だからこそこうして毎回、怯え、後悔し、逃げている。
 だが、一体いつまでこんなことを繰り返せばいいのだろう。人を殺める“鬼”のくせに、ナマエは“人間”になりたかった。外にさえ出られれば幸せになれると思って流星街を後にしたのに、結局ナマエは自分の存在があのゴミの山となんら変わらないものであるという現実を突きつけられただけだった。“ゴミ”か“鬼”か、どちらの方がマシかなんて、そんな酷い二択があるだろうか。

 ――どうして、私だけこんな……。

 再び、身の内で魔物がざわついた気がした。いつの間にか手の震えは止まり、苦悩はかき消える。明らかに凶暴な感情であるはずなのに、この瞬間だけは不思議といつも安らいだ気持ちになれた。魔物に身をゆだねれば、何もかも怖くない。
 ナマエはふらりと席を立つと、列車を移動し始めた。今、乗っていたのは一両目。電車の末尾の方へ向かって、二両目、三両目へとどんどん進んでいく。ここまでの乗客の中に“眠っていて、なおかつ隣が空席の者”はいなかった。

 雨の日は電車を利用する人間も多い。酷く混雑しているわけではないが、条件を満たすのは難しそうである。
 だが、とうとう四両目の扉をくぐったとき、魔物は実に愉快そうに舌なめずりをした。そのまま素知らぬ顔で獲物の真横に腰を下ろし、鞄の中を探るふりをしながら、横目でその男の様子を観察する。
 年の頃は二十代だろうか。いや、童顔なだけで案外三十を超しているのかもしれない。目を閉じている金髪のその男は、殺してしまうのが惜しいほどきれいな顔立ちをしていた。格好はスーツだが、派手な柄物。髪の色や顔立ちと合わせて考えると、ホストかもしれない。そう思って改めて見れば、男のスーツは確かに上等なものだった。きっといろんな女を騙して、貢がせているのだろう。ちやほやされて、愛されて、何の不安もなく、こんなところで眠りこけることができる。

 ナマエは男のことなど何も知らなかったし、男自身に恨みもなかった。けれどもその時、目の前の男に対して激しい憎しみを抱いたことは嘘ではなかった。周囲の目がこちらに向いていないことを確認し、そっと男の方へ手を伸ばす。
 押しのける素振りのために、あえて先に男の肩を引いた。ずっしりともたれかかる重み。それを戻すよう男の胸元と頭に手をかけ、そのまま顎を掴む。

「あなたにとって何人目ですか、ボクは」
「……っ!」

 突然、何の前触れもなく目の前の男の瞼がもちあがり、ナマエは硬直した。全身からぶわりと嫌な汗が吹き出し、小さな心臓はばくばくと死に物狂いで拍動し始める。「す、すみません。倒れてこられたので」熱いものにでも触れたかのように手を離したナマエは、自分の言い訳が意味のないものであることを感覚的に理解していた。男にはナマエが何をしようとしていたのか、全て見透かしていると言わんばかりの落ち着きがあった。

「倒れた? 嫌だなァ、あなたが引っ張ったんじゃないですか」

 男は世間話をするような気軽さで笑ったが、ナマエはそれを聞いた瞬間、立ち上がって逃げようとした。が、

「まぁまぁ、そんな急がなくても。せっかくですから少しお話ししましょう。“殺人鬼さん”」

 男の手が素早くナマエの腕を掴み、それだけでなぜか立ち上がることができない。そう強い力でもなく、いくらでも振り払えるはずなのに、もはやナマエの膝はがたがたと笑うしかなった。助けを求めて周囲に視線を走らせても、誰も男がナマエを掴んでいることに気づかない。それもそうだ。この無関心さが、今までナマエという魔物をのさばらせていたのだから。

「……警察?」
「いいえ。でも、あなたを捕まえる権限はありますね」
「初めから、私が犯人だとわかって……? それで囮を?」

 それでは、周囲の人間が無関心なのは、これが予定調和だからかもしれない。ナマエは警察以外に“悪人を捕まえる職業”を知らなかったが、この場にいるのはそうした覆面刑事のような者ばかりという可能性がある。
 終わった、と思った。ナマエのゴミのような人生はここで終わり。同時に、やっと終われた、やっと見つけてもらえた、とも思った。
 改めて隣の男を見れば、なるほど救いの天使に見えなくもない。昔がらくたの中で拾った本には、天使は金の髪を持つとも書いてあった。魔物のナマエに天使が優しくしてくれるとは思わないものの、これで終わらせてくれるならそれでもいい。

「そうですね。あなたの噂を聞いて……正確には、不可解な死体が各地の駅で見つかっていると情報を得ましてね。死体の位置を辿れば、おおよその行動範囲がわかります。殺された者は性別も年齢もばらばらで特に共通点は見当たりませんでしたが、全員、首の骨を綺麗に折られていた。いくら狭い電車の中とは言え、首を折るほど他人に接近し、なおかつ悲鳴ひとつあげさせないためには“被害者自身、無防備だった”という条件が必要なのではないかと思いましてね」

 種明かしでもするように滔々と話しだした男は、ナマエの行いに対して憤りを示すわけでも、説教臭く説き伏せるわけでもなかった。まるで、物語に出てくる非道な探偵そのものだ。被害者の死や加害者の動機には興味がなく、ただ自分が“真実にたどり着いた”と言うことが自慢でならないだけの矮小な人間だと感じた。「……お見事です」それでもナマエにとっては、久々にまともに会話をした相手であった。店先で盗みを働きながら、のんびりと世間話に興じるわけにもいかなかったので。

「もう……誰も捕まえに来ないんじゃないかと思ってました。私って、一応それなりには有名だったんですか?」
「そうですね。地方紙の小さな小さなスペースをもらえるくらいには。電車の中での変死体というのはなかなかセンセーショナルですし、混乱を避けるために我々が情報規制しなければ、全国紙に載ることができたかもしれません」
「そう……ですか。ちなみに動機とか、聞いたりしないんですか?」

 ナマエがそう言うと、男は少しだけ意外そうな顔をした。「言えるほど、はっきりしているんですか?」その質問に答えられないでいると、またもや真実を知り尽くした探偵は得意げにあざ笑う。

「あなたのそれはごくありふれた、それこそ置き忘れられたビニール傘くらいよくある、“社会への不満”ってやつですよね」
「ありふれてなんか……!」
「あなたの境遇は知ってますよ、ナマエさん。でも、流星街は推定人口八百万人。わかっているだけでもその数字です。決して少ないわけじゃない」
「そりゃあ、私より不幸せな人間は、きっと探せば腐るほどいると思います。でも、だから私はマシなんだとは到底思えません。逆に私より幸せな人だってもっともっといるのに……!」
「例えば、あなたが殺した人たちみたいな?」

 ナマエは小さく頷いた。その通りだからだ。結局のところ、動機は嫉妬と羨望。なんてくだらないのだろう。でも、幸せそうな人間を殺すことで、一矢報いてやりたかったのだ。何に対してかは、彼が言ったように社会に対してだろう。ナマエをゴミ扱いして捨てた社会を、どうにかして壊してやりたかった。

「でも、もういいんです。抵抗はしません。私、死刑にでもなるのかしら……あはは、“存在しないはずの人間”は司法では裁かれないんでしたっけ。だったらゴミらしく、燃えるゴミの日にでも出されちゃうんでしょうかね」
「いいんですか、それで」
「良いも悪いも。昔っから、自分で何かを思い通りに選べたことなんてありません」
「そういえば、ボクの目的をまだお話していませんでしたね」

 気が付けば、もうすぐこの電車も終点に着く頃合いだ。途中の駅でぱらぱらと人が降りていき、四両目には今や男とナマエの二人しかいない。

「目的? 私を捕まえることじゃないんですか?」
「いいえ。捕まえる権限があると言っただけで、捕まえに来たと言った覚えはありません」
「は? えっと……じゃあ、何を?」

 男は掴んでいた腕を離したが、ナマエは逃げるべきなのかどうかわからなかった。チャンスであることは間違いないが、ここで逃げれば同時に何か大きな機会を逃すだろう。男は演技がかった仕草で胸に手を当てると、にこやかな笑みを浮かべた。

「実はボク、こう見えて資源の再利用リサイクルに関心がありましてね」
再生リサイクル……?」
「そうです。ボクはあなたみたいに社会に不満があって、行動力のある人を内緒で集めているんですよ。もちろん、誰でもいいというわけではありません。あなたはまだ気づいていませんが、実はあなたは既に他の人とは違う力を持っているんですよ」
「……人と違う力?」

 一瞬、身の内の魔物のことが脳裏をよぎった。が、あれはナマエが勝手に“魔物”として自分から切り離そうとしているだけで、何か恐ろしいものと契約して力を得たとか、そういう経験はない。「目を凝らして、ボクを見て。ボクの周りに何か見えませんか?」促されるまま、男をまじまじと見つめる。するとうっすら男の周りから湯気のようなものが立ち上っているのが見えて、ナマエは思わず瞬きを繰り返した。

「湿度が高いから……ではないんですよね?」
「では、今度は晴れの日にお見せしましょうか? そうすれば信じて頂けます?」
「いいえ、いいえ……信じるとか、信じないという話ではなくて……」

 資源の再生リサイクルという響きは、確かに一度ナマエをゴミとして貶めていた。しかし、自分がこの社会でゴミなのは、もう嫌というほど自覚させられている。だからそのゴミを生まれ変わらせてくれる、必要とされている、と思うと不思議なくらい胸が高鳴った。

「あなたが社会に不満を抱くお気持ちはよくわかります。この世は理不尽なことが多すぎますからね。でもその怒りを手近な人々にぶつけたところで、世界は何も変わらないし、あなたは救われないんですよ」
「……生まれ変われば、私は救われるんですか? ずっと、消えてしまいたいと思っていました……でも、死ぬのは怖くて」
「消えてしまいたいと思うような人生なら、やっぱりボクにくれませんか? 捨てるくらいなら、ボクにください。再利用リサイクルしてみせますよ」

 彼がそう言ったとき、たたらを踏んだように車体が横に大きく揺れた。
 もう終点につくのだろう。ホームに入って減速した電車は、先ほどの揺れが嘘みたいに静かに停車する。滑らかに開いたドアの先は、何の変哲もない地下鉄の駅だった。天国の入り口でも、地獄の入り口でもない。突然現実に引き戻されたナマエは、まだ半分夢のなかにいるような気分で外を眺める。
 隣の男がさっと立ち上がって、こちらに手を差し出した。

「降りないんですか?」
「……降ります。でも、まだあなたのお名前を聞いていません」

 さっき腕を掴まれた時には気が回らなかったが、男の手は温かった。でも、冷たい手の人ほど心優しいというし、一体どう受け止めればいいのだろう。「これはこれは、大変失礼しました」男はナマエが立ち上がると、満足そうに笑った。

「ボクの名前はパリストンです。これからよろしくお願いしますね、ナマエさん」

 その瞬間、強烈な既視感が全身を駆け抜ける。ナマエはこの感覚を知っていた。これまで幾度となく経験してきたからこそよくわかる。

 あぁ、今また、魔物が愉快そうに舌なめずりをした。

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