- ナノ -

■ ◆ファントムペイン

 多くの人にとって希望は願望であり、絶望は本望なのかもしれない。

 こうなってほしいと夢を見るのは簡単だ。願望や欲望なんてものは、生きているだけでだが、一度見た夢を、願望を追い続けるのは大変だ。願望が大きければ大きいほど実現するのに必要な労力は途方もないし、希望が煌びやかであればあるほど、現実との乖離に苛まれる。

 そして更にタチの悪いことに、願望というのは抱くのは簡単でも、諦めるのには苦痛を伴うのだ。叶わなかったという苦みは喉の奥にべったりと張り付いて取れやしないし、時には前に進めないほど重たい足枷になってしまう。
 それらが苦くて重いだけならまだいい。完全に邪魔なものとして扱えるなら、いつかは断ち切ることもできるだろう。問題は諦めたつもりでも、実際にはそうなかなか“諦めきる”ことができないということだ。意図しなくても湧き出る願望のせいで、苦みを甘みだと錯覚し、未練がましいはずの重さに安堵してしまう。
そうなってしまうと、いつまでたっても終われなかった。“諦めきる”ことができないのは、痛みはあるのに死ねない身体のように苦しかった。このままずっと叶わぬ願望に喘ぐくらいなら、早く引導を渡してほしい。もう二度と希望なんて抱けないほど、絶望のどん底に突き落としてほしい。
 だからナマエは希望なんてただの願望であり、絶望こそが本望なのだと思う。



「……ナマエはまだ引きずっているのか?」

 マフィアと言っても、所詮成り上がり。収入源だったネオンの占いの力が失われた今、没落したノストラードファミリーの屋敷が陰惨とした雰囲気に包まれているのは当然と言えば当然だった。しかしクラピカが若頭に就任して以降、ノストラードが本業のマフィアとして力をつけてきているのも事実で、鬱々とした空気は組の状況によるものではなく、いつもやかましいほど元気なナマエの姿がここ最近ずっと失われているからであった。

「ええ、そうみたいね。そっとしておいてあげましょう。彼女、相当本気だったもの」
「あれほどやめておけと忠告したのに、聞かなかったのはナマエだ」
「本人も薄々わかっていたと思うわ。でも、頭ではわかってもやっぱりショックなものはショックなのよ」

 困ったようなセンリツの微笑みを見て、クラピカは苦々しい気持ちになるしかなかった。失恋ぐらいで、馬鹿馬鹿しい。普段ならそう吐き捨てるところだが、今回ばかりはクラピカにも責任の一端がある。
何しろ、ナマエとその男を引き合わせたのは他ならぬクラピカであり、ナマエの恋愛を利用してノストラードに有利な情報を得ようとした。問題は相手の男も同じような魂胆でナマエに近づいていて、ナマエだけが本気になってしまったということだ。

――計画は中止だ。もうあの男に会うな
――……仲良くしろって言ったり、会うなって言ったり、随分勝手だね
――事情が変わったんだ
――私は、私は初めから組の為にあの人に近づいたんじゃない! 私はあの人が敵対する組の人間だってことも知らなかった!

 ナマエは確かにノストラードファミリーの一員だったが、諜報を専門にしているわけでもなく、ましてや色仕掛けのような駆け引きもしたことがなかった。だからある意味都合が良くて、何も知らないナマエは疑われることも疑うこともなく、男に近づくことができた。

――敵を欺くならまず味方から、というだろう。確かに君には申し訳ないことをしたとは思うが、深入りはするなと忠告したはずだ。君もこんな仕事ならわかっていたはずだろう
――……そんな、そんな簡単なものじゃない。やめろって言われてはいそうですかって、そんな、
――とにかくあの男のことは忘れるんだ。いいな? それが君の為でもある

 偽善者。
 吐き捨てるようにそう呟いたナマエは、ぐっと唇を噛みしめると荒々しく部屋を出て行った。なにが私の為よ。なにが味方よ。あんたなんか、本当はノストラードなんてどうでもいいと思ってるくせに!
 実際、彼女の言葉は何一つ間違ってはいなかった。それでもクラピカは緋の目のために、どんなに弱小であってもノストラードという足がかりが必要だった。

 クラピカにとって希望と絶望は常に隣り合わせ。自分の願望の為に誰かを踏みにじらなくてはならない時があることを知っていた。しかし知っているからといって、何も感じずにいられるわけではない。
 希望を諦めきるのが難しいのと同じように、心もそう簡単には“捨てきる”ことができないのだから。


▼△


 コンコン、と控えめに鳴らされたノックの音が、泣きすぎてズキズキと痛む頭に響く。初めて失恋した子供でもあるまいし我ながら情けないと思えども、胸にぽっかりと穴が開いたみたいに気力が沸かない。

「……」
「ナマエ、私だ」

 返事をせずにベッドにもぐりこんでいれば、予想通りの人物の声が扉の向こうからかけられた。一応形ばかり体調不良だと連絡を入れているものの、何日も仕事を休んでいることは本来ならば許されない。それでもクラピカの声に刺々しさや責めるような響きが感じられなかったのは、やはり彼にも思うところがあるからだろう。
 数日を経てナマエも一応、自分以外のことに目を向けられるくらいの冷静さは取り戻していた。理不尽に対する、燃え滾るような怒りは既に鎮火して、代わりにくたびれた悲しみだけが思考に霞をかけている。

「入って」

 久しぶりに意思を持って発した声は、自分でも驚くほど掠れていた。咳ばらいをしてもう一度、入室の許可を出す。
 扉がゆっくりと開けられたのは、それから数秒経ってのことだった。

「……体調はどうだ?」

 そう言って所在なさげに壁際に立ったクラピカの顔色の方が、やつれて病人然として見えた。もはや見慣れた目元のクマから察するに、ろくに寝ていないのだろう。
 今のノストラードはほとんど彼一人の力で成り立っていると言っても過言ではなく、たとえ彼の尽力の理由が純粋に組の為でなくても誰にも文句を言う権利はないと思われた。それくらい、クラピカが己を滅するように働き続けていたことを知っていたのに、ナマエは随分と酷いことを言ってしまった。

「仮病だって、わかってるでしょ」
 
 ナマエは半身を起こすと、腫れた瞼を隠すように手櫛で前髪を整える。いっそ激しく叱責されたほうが気まずくなくていいのに、クラピカはいつもの説教臭さもどこへやら、何もない床の一点を見つめ続けていた。まるでクラピカの方こそ、ナマエからの叱責を待っているかのようだった。

「では、質問を変えよう。気分はどうだ?」
「お陰様でよーく寝たからすっきり最高! って、言うと思う?」
「……」
「ごめん。意地悪したいわけじゃない。でも流石にその質問は下手くそだよ」

 こちらが無理をして苦笑して見せても、クラピカの表情は相変わらず固いままだ。これでは一体どちらが失恋したのかわからない。ナマエは茶化して誤魔化すのは無理だと諦めて、小さく息を吸い込んだ。

「あのね、クラピカの言う通りだよ。私が馬鹿だった」

 結局、あの男はナマエを利用するつもりで近づいてきたのだ。むしろクラピカが事実を明るみにしてくれたおかげで、傷は浅く済んだと言えるだろう。ナマエがクラピカに投げた言葉は所詮タチの悪い八つ当たりに過ぎなかった。

「そりゃ、最初はクラピカを恨んだし、今でも利用されたことは腹が立つけどさ……よく考えたら私って、ジュリエットでもなんでもなかったなぁって。上手くいかなかったのは身分とかしがらみのせいじゃない。恋人との仲を引き裂かれた悲劇のヒロインじゃなくて、ようやく現実に帰ってきただけだった」
「だが実際、私が君を“餌”にしたのは事実だ。君があの男と恋仲になれば都合がいいと思っていたし、本当に気持ちが通じ合っていても必要があれば躊躇いなく仲を裂いただろう」
「躊躇いなく?」

 クラピカは静かに頷いた。「嘘ばっかり」そしてナマエの呟きが聞こえなかったみたいに、長い睫毛を瞬かせた。

「もうひとつ、君に謝らなければならないことがある」
「なぁに? もしかして休んでた分がっつり減給されるの?」
 
 いい加減ちょっとくらい笑ってくれればいいのに。気が利かない男だと思う。それとも笑って誤魔化すのが癖になっているナマエのほうが良くないのだろうか。
 クラピカの声はどこまでも静かで落ち着いていたが、何かを堪えるような響きが確かにあった。

「あの男は近いうちに始末する」
「っ」

 息が止まる、というのを、身をもって体験したのはこれが初めてだった。もういいのと先ほど自分で口にしたばかりなのに、仕事柄十分予想されたことだろうに、口の中がカラカラに乾いていく。
 まだお前は希望を捨てきれてはいなかったのだと突き付けられた気がした。

「……それ、なんで私に謝るの?」
「君はまだ、あの男のことを好きだろう」
「……」
「私のことを恨んでくれて構わない」

 クラピカはそう言うと、今度こそ叱責を待つように視線を落とした。前のようにナマエが取り乱して激昂するのを、ただじっと待っている。

「……あれもこれも全部クラピカのせいにして、前に進めって?」
「そうだ」
「やっぱ、クラピカって偽善者だよね」
「……」
「性格的にさ、人のせいにするより自分のせいにしたほうが楽なんでしょ。私もそうだからわかるよ」

 ナマエはベッドサイドのテーブルに手を伸ばし、そこに置かれた金属の塊が手になじむのを確かめた。お互い損な性格をしているなぁ、なんて考えつつ、完全にベッドから抜け出す。
 ぶるりと身体が震えたのは、シーツの外の空気が思いのほか冷たかったせいだと思った。そう、思いたかった。

「多くの人にとって希望は願望であり、絶望は本望である」
「……は?」
「名言ってやつだよ、博識なクラピカでも知らないことってあるんだね」

 本来なら念能力を使ったほうが、証拠が残らなくて便利だ。けれどもマフィアの殺しは暗殺とはまた違う。誰が、何のために、どんな風に殺したか……それを知らしめることも重要なのだ。
 呆然とこちらを見ていたクラピカは、今になってようやくナマエの手に握られているものが拳銃なのだと気付いたようだった。

「ナマエ、」
「着替えるからさ、出てってくれる?」
「待て、私はお前に片付けろと言う意味でこのことを伝えたわけではない!」
「わかってる。私が自分でやりたいと思ったの。クラピカと一緒で自分を責めるほうが性に合ってるから、自分で自分を絶望させてやりたいの」

 そうじゃないと前に進めないから。

 傍から見れば、きっと愚かな女の復讐に見えるだろう。けれどもナマエは自分を騙した男を恨んで殺すわけではないし、もしも組が男を生かしておく方針だったなら、わざわざ手にかけようと思いもしなかった。
 ただ終幕を引かなければならないのなら、人に委ねず自分で背負いたいと思っただけなのだ。
 
「教えてくれてありがとう」

 きっと後から男の死を知っていたら、ナマエはもっと傷ついただろう。それこそクラピカを恨んで、ずっと立ち止まったままでいたかもしれない。
 嫌味やあてつけのつもりは一切なく、ナマエは心の底から礼を言ったのだが果たしてクラピカには伝わっただろうか。

「……健闘を祈る」


▼△

 ふわりと空気が動く気配がして、執務机に向かっていたクラピカは顔を上げた。それから扉を背に立っていたナマエに向かって、ご苦労だった、と一言。

「うん」

 腕組みをしていた彼女は、小さく頷いた。首尾を報告するわけでもなくただ頷いただけだったが、ナマエが“仕事”をきっちり果たしたのだろうということはその表情を見ればすぐにわかった。

「クラピカはどうしてマフィアなんかやってるの?」
「質問が唐突だな」
「だって、どう考えたって向いてないしさ」
「君だけには言われたくない」

 広げていた資料を整えて、疲れた目を労わるように目頭を押さえる。働きすぎだというのは自分でもわかっていた。だが、何もしていないと焦燥がこみ上げるのも事実で、最近は楽しむことや休むことが罪であるような気すらしていた。同胞のことを想う度、緋の目の為に手を汚す度、自分はもっと不幸にならなければいけないような気分になるのだ。
 だから彼女に“恨んでくれて構わない”と言ったのも、そのほうが楽だったから。許されるよりも憎まれているほうが自分に相応しい。そう思っていたのに、どうやらナマエはちっとも恨んでくれそうになかった。

「ようやく、私の前で泣いたな」
「ほんっと、クラピカってデリカシーないよね」

 あはは、と笑った彼女の頬は、乾くことを知らないようだった。後から後から伝う涙が、きらりと窓からの光を受けて輝く。ナマエはそれを手の甲で乱暴に拭うと、気持ちを切り替えるかのように自分の頬をぺちりと叩いた。

「偽善者って言ってごめんね」
「いや……構わない。君の言う通りだと自分でも思う」

 絶望するのは立ち止まり、逃げることだと思ってがむしゃらに生きてきたが、本当の意味で逃げていたのは自分のほうだったのかもしれない。
 少なくとも謝られるようなことではないと視線を落としかけたクラピカだったが、ナマエはそれを遮るように名を呼んだ。

「ねぇ、クラピカ。幻肢痛って知ってる?」
「え?あぁ、知ってはいるが……」

 彼女の脈絡のなさはそう珍しいことでもないものの、クラピカは思わず訝しそうに首を捻る。幻肢痛と言えば怪我や事故等で失った、あるはずのない腕や足がいつまで経っても痛むという心身症のことだが、どうして突然そんなことを言い出したのだろう。

「クラピカってさ、わざと何も感じないようにしてるとこあるでしょ」
「……」
「仕事だからって割り切って、心なんてなるべく捨てなくちゃと思ってるでしょう」

 彼女に指摘されたことは図星だった。が、その考えが間違っているとは思わない。誇りは失いたくなかったけれども、心を捨ててしまいたいと思うことは正直何度もあった。

「君はそう思わないのか? 捨てたいと思ったことがないのか?」
「あるよ! 今だってそう。絶望が本望だって言ったのも、結局は同じような気持ちだし。苦しいのが続くくらいならいっそ終わったほうがマシだって、心なんかないほうがいいって思ってた」
「だったら、」
「でもね、クラピカ見てて思ったんだ。きっと無くなった手足がうずくみたいに、心も捨てたって痛む。だったら無理に捨てなくていいんじゃないかなって。痛いときは泣けばいいし、疲れたら休めばいいんだよなって」

 そう言うとこちらに歩いてきたナマエは、勝手に机の上を片付け始めた。資料はまとめて、PCは閉じて、クラピカが驚いている間にきれいさっぱり仕事の物は脇に退けられる。
 代わりに片付いた机の上には、どこに隠し持っていたのか、お菓子や缶ジュースが山積みされていた。

「……これは?」
「ほんとはヤケ酒したかったんだけど、クラピカに断られると思ったから」
「傷心の君に付き合えと?」
「そう」

 嘘ばっかり。
 今度はクラピカが心の中で呟く番だった。彼女が持ってきた代物は、どうみても差し入れに他ならない。休むことに罪悪感を覚えているのを見透かされて少しばつが悪かったが、不思議なことにそれだけだった。”許された”ことに対する焦燥や罪の意識はどこにもなく、むしろ柔らかい気持ちで満たされている。
 ため息とともに手を伸ばしたチョコレートは、久しぶりに”美味しい”と思えた味だった。



「ところで、あの名言は誰の言葉だったんだ?」
「名言?」
「希望が願望で、絶望が本望だというあれだ」

 博識なのに知らないんだね、と言われたからではないが、ふと気になって尋ねてみる。決して前向きではないけれど、人間臭くて少し自分に思考が似ている言葉を残した偉人がいることに興味がわいたのだ。
 ナマエはあぁ、と頷くと、缶ジュースのプルタブを引っ張ってぷしゅりと小気味よい音を響かせた。

「それね、私」
「っ、じゃあ知るわけないだろう!」

 思わず脱力したのと同時に、口角も緩んだらしい。行儀悪く人を指さしたナマエが、してやったりと言わんばかりの顔をしていた。

「ようやく笑ったね、クラピカ」

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