■ 59.だから、なんていらない
強引に引き寄せられ、イルミの綺麗な顔がすぐ目の前にまで迫る。今まではヒソカのことや思いだした過去のことで頭がいっぱいだったけれど、そもそもアニスがイルミのことを好きなのはずっと前からなのだ。突然好きな相手にそんなことをされて、文字通りイルミしか見えなくなる。
お互いの気持ちを確認しあったとはいえまだ心の準備ができずに、頭の中が真っ白になった。
─その時、
「ストップ
」
アニスの真後ろ、ベランダの方からここにいるはずのない人物からの制止がかかる。
イルミも驚いたように一瞬目を見開いたが、アニスが振り返るよりも早く、次の瞬間には柔らかいものが唇に触れていた。
「もう充分待ったよ」「あっ
」
一度に色んなことが起こりすぎて何が何やらわからない。
とにかく盛大に窓枠が揺れる音がして、外にいる人物がガラスにぶつかったのだと思う。
その音でようやく我に返ったアニスは、ハッとして振り返った。
「ちょっとイルミ、キミさ」「行方をくらませたヒソカが悪い」
室内に足を踏み入れたヒソカはまず文句を言おうとしたみたいだったが、それを遮るようにしてイルミが言い返す。懐かしすぎるやり取りに、何も変わってはいない兄の姿に、アニスは胸の奥がじわりと熱くなるのを感じた。
「だからっていきなり、確かによろしくとは言ったけど……手を出すのが早すぎるよ
」
「オレとしてはこれでも我慢してる」
イルミは身体を離すと、挑発的に自分の唇をぺろりと舐めた。
それを見て苦い顔になったヒソカはこちらに視線を向ける。そして目が合って少しだけ気まずそうにしたあと、心配するように顔を覗き込んできた。
「アニス?大丈夫かい
?」
「……」
「アニス
?」
聞きなれた声で名前を呼ばれて、既に目のふちに溜まっていた涙が頬を伝った。「お、お兄ちゃん……」言いたいことはたくさんあったけれど上手く言葉にならなくて、子供みたいにわんわん泣きだすことしかできない。また会えて心の底から安堵したくせに、嬉しいくせに、自分を置いていこうとした兄に腹も立てていたのだ。「…バカ!なんで……」泣きじゃくるアニスに、イルミとヒソカは二人して困ったように顔を見合わせた。
「アニス、ごめんよ……泣かないで
」
「だって…また、いなくなるから…!」
「悪かったよ、でもあの時は本気でもう会わない方がいいかと思ったんだ
今のボクは結局あの男と同じことをしてるわけだし……今更それを辞めるつもりもないしね
」
そんな弁解をしたヒソカはとにかく泣いているアニスを落ち着かせようとしたが、離さないと言わんばかりに掴まれた服を見て苦笑した。
「…そんなの関係ないよ、どんなことをしてても私のお兄ちゃんだから」
「ま、快楽殺人者と一緒にされたら迷惑だけど、オレも人殺しだしね」
しれっと言い放ったイルミに、それもそうだったと思い出す。実際、彼らに出会ってからアニスの生活はがらりと変わった。それが良いことか悪いことかはわからないが、毒も飲み続ければ耐性がつくように悪にだってアンモラルなことにだって慣れてしまう。
たとえどんなに二人が悪人だったとしても、彼らがアニスにとって大切であることには変わりなかった。
「うん、それなんだよ
」
だが、せっかく珍しくイルミが出した助け舟は結果的にヒソカを調子づかせただけだった。ボクも後からそのことに気が付いてさ、なんて頷きながらにやにやする。
「何も遠慮してイルミにアニスのことを任せる必要はないって思ったんだよねぇ
」
「は?」
「だからこれからもまたアニスの傍にいるよ
」
そういうわけで、とアニスの肩に手を置いたヒソカ。
けれども再びアニスの様子を探りに来た彼が目にしたのがよりにもよって先ほどのキスシーンなのだから、タイミング的にこれほど最悪なものはないだろう。「ちなみに不純なのは反対だからね
」その言葉にアニスはまた思い出したように真っ赤になった。
「もういいよヒソカは。アニスは貰ったから」
「いやいや、貰うも何もキミたちまだ付き合ってもないし認めません
」
「ヒソカは黙っててよ。そういうの野暮だってわかんない?」
「ボクはアニスの兄だよ、義弟になる心づもりはできてるのかい
?」
「うわ、気持ち悪い」
どうやらそこまでは考えていなかったのか、イルミの素直すぎる反応に泣き顔だったアニスも思わず噴き出す。
ヒソカも『お義兄さん』と呼ばれることを想像したのか、肩を揺らして笑っていた。
「何笑ってるのさ、アニスもオレが好きだって言ったし、お前が兄だとしても関係ないだろ」
「へぇ、じゃあ改めて聞くけど、アニスはイルミのどこがよかったんだい
?」
「ど、どこがって……」
ようやく涙がおさまってきたところへ、期待の眼差しというよりは無言の圧力がかかる。アニスの念の性質や性格的に理由付けするのはそんなに苦手ではなかったはずなのに、改めて聞かれると困ってしまう。
そもそも記憶喪失中にイルミに言った『クールな人』がタイプというのは本当のことだった。
「えっと……冷たそうに見えて実は優しい…から好き?」
「なんでそこ疑問形なの?冷たそうってアニスの好きなクールってことじゃないの?」
「だ、だって強引というか突拍子なさ過ぎて怖いときもあったし……そこはどっちかって言うと嫌いかな。怖いし」
「嫌いだって
イルミ聞いた
?」「うるさい」
揶揄するようにヒソカが笑みを浮かべ、すぐさまイルミはムッとする。
別に怒らせたいわけじゃないが、イルミのことを考えると悪い点も結構思いついた。というか基本的に一般人に思考が近いアニスからすれば、悪いことのほうが多い。
けれども拗ねたような気配を滲ませたイルミに、愛おしさばかりがこみ上げるのも確かだった。
「でもね、イルミが幸せになってくれたら嬉しいし、イルミと一緒にいると私は幸せ」
「……」
「これじゃだめ…かな?」
こうだから好きとかああだから嫌いとか、形ばかりの理由をつけることは不可能ではないのだろう。けれどもそれではどうしてもしっくりこないし、言葉では伝えきれない。
ただ声を聴くだけで幸せなのは、決してその声が好きだとかそういう話ではないのと同じで。
アニスが少し照れながらそう言うと、わかりやすくイルミの雰囲気は明るくなった。
「アニス、それならやっぱり今すぐ結婚しよう。結婚したら一緒にいられるしオレは幸せだし、オレが幸せならアニスも幸せだし完璧じゃないか」
「いいや、まずはお付き合いからだね
」
「ヒソカには聞いてないよ。ねぇ、アニスはどうなの?」
がしりと両手で手を握られ、それだけで身動きが取れなくなる。恋焦がれていた何事にも関心の薄いイルミのイメージとは違ったけれど、強引なのもまた彼の一面なのだろう。今は本気だとわかるからそれも嬉しいのだが、もっともっと彼のことを知りたい思う。
「ま、まずはお付き合いからよろしくお願いします」
結婚と言ったってアニスは力も毒の耐性もないし、いきなり暗殺一家に嫁ぐには不安要素が多すぎる。「じゃあせめて婚約ね」尚も食い下がるイルミにまた笑ってしまったが、彼の方は至って真剣だった。
「あ、でも、私ひとつイルミに嘘ついてた…」
「何?」
「その……ハニートラップ的な仕事やってたって、本当はイルミの役に立てるようなこと一つもできない…」
もしかするとイルミはまだ楽観視してるのかもしれない。キキョウさんにだって仕事仲間と伝えているから暗殺ができると誤解されているだろう。
嘘をついていた後ろめたさからアニスが小声になると、当の彼は怪訝そうな顔になった。
「え?それだけ?」
「…それだけって、だって…」
「むしろオレが気づいてないとでも思ってたの?仕事に連れてった時に素人なのはわかったよ」
「じゃ、じゃあ…」「オレはアニスが欲しいんだよ。暗殺一家の嫁じゃなくて」
ぎゅっと手を握られ、恥ずかしさで咄嗟に言葉が出てこない。イルミってこんなこと言うタイプだっけ、とくらくらしつつも頷くだけで精いっぱいだった。
「あのさぁ、まだボクいるんだけど
」
「もう帰っていいよ」
「うん、ここボクの家だから
」
アニスの手を握るイルミの手の上にさらに手を重ね、ヒソカが無理矢理間に割って入る。しばらく無言の攻防が続いた後、それでも離さないイルミにとうとうヒソカは諦めたようだった。
「はぁ……結婚はあくまで前提だよ
アニスは本当に強くはないからね
」
「大丈夫。早く結婚できるようにオレが訓練とか付き合うから」
「お、お手柔らかに……」
急に生き生きとした表情になるイルミを見て、あぁこの人にはスパルタな一面もあるのだと覚悟する。片思いだった時には気が付かなかった彼の一面を知ることは驚きと嬉しさの連続だった。
きっとこれから辛いことも苦しいこともたくさんあるだろうが、それでもアニスは自信を持って言える。
「イルミを好きになってよかった…」
たくさん泣いたし何度も諦めかけたけれど、今こうして握った手は暖かい。
「オレもアニスが好きだって気づけて良かった」
にこりともしないくせに、いや、にこりともしないからこそイルミの言葉は聞いていて恥ずかしかった。
「……っ、クールじゃない」
「こういうこと、言われるの嫌?」
「……ううん」
むしろギャップで余計に好きになりそう。こてん、と首を傾げたイルミは可愛くて格好良くて心臓の音が煩い。
「イルミならなんでも好き」
誰かを好きになることに理由なんていらないのだと、ようやくわかった恋だった。
End
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