■ 58.変わらぬ気持ち
「……やっぱりだめ、出ない」
そう言ってあからさまに落胆するアニスにイルミは短くそう、とだけ返事をした。
彼女が記憶を取り戻し、過去が明かされてから早いものでもう2週間経つ。
あの日アニスを頼むと言い置いて出ていったヒソカとは、それ以来一切の連絡が取れなくなっていた。
電話はもちろん、アニスと一緒に暮らしていたマンションにも帰っている様子はない。彼女はすぐにでも探しに行くと言ったが、あてもなく行動しても無駄だとイルミがいさめたのだった。
「お兄ちゃん、どうして……」
とはいえ不安そうに何度も携帯を見つめるアニスにかける言葉が見つからない。
他のことなら諦めなよ、と言うところだが、あんな話を聞いた後では軽々しく口に出せるものではないだろう。
本当にもうヒソカはこのままアニスの前に姿を現さないつもりなのだろうか。
「私、嫌われたのかな……」「それはないよ」
「だといいんだけど……」
今更ヒソカがアニスのことを嫌いになるはずがない。
それにはすぐさま即答したイルミだったが、本音のところは内心ヒソカにイラついていた。
「……ねぇ、アニス」なぜならせっかく彼女の記憶が戻ったのに、今の彼女の心を占めているのはヒソカばかり。
状況を考えると無理もないことなのはわかるが、イルミだってアニスのことをずっと気にかけていたのだ。
アニスをよろしくねと言われたのはいいが、まずは目先の問題を取り除かなければ始まるものも始まらなかった。
「なに、イルミ?」
「……思い出したんだよね、全部?」
前に一度アニスにプロポーズまがいの告白をした。だから記憶が戻っているのなら、その返事が聞きたい。
けれども彼女はうん、と頷いただけで困ったような顔をした。
「ごめんね、一度忘れられたら不安になるよね。
もうちゃんと思い出したよ」
「……だったら」
返事を聞かせて欲しい。でも深刻そうな表情の彼女を前にしたら言えなかった。
自分は急ぎ過ぎているのだろうか。欲しかったものがようやく手に入れられそうなのに、あと少しどうすればいいのかわからない。
肝心の彼女の気持ちがわからないばかりか、前よりも彼女が笑わなくなってしまってイルミの気分も晴れないままだった。これなら忘れたままの方が彼女にとってよかったんじゃないかと、考えたくないことまで考えてしまう。
イルミはそっと後ろ手に針を構えた。
「…あのさ、思い出したこと、後悔してる?」
もし彼女がそうだと言えば、自分は忘れさせるための手段を持っている。もちろん彼女の記憶は勝手に消したり書き加えたりしていい玩具じゃないし、彼女が過去を忘れたところで自分にメリットがないのはわかっていた。
それでももし今アニスが忘れたいと願うなら、イルミはヒソカのことを全て忘れさせようと思っていた。中途半端に過去だけ誤魔化してしまおうとするから、いろんなところで綻びが出る。ヒソカがアニスの前に二度と姿を現さないならば、最初から存在しない物に意識が向くこともない。
けれどもヒソカのことを忘れさせるということは、必然的にイルミとの出会いもそこからイルミにまつわる何もかもを忘れさせることと同じである。
メリットどころかデメリットしかないが、イルミはただアニスに悲しい顔をしてほしくなかったのだ。ずっと自分のことを思い出させようと必死にやってきたが、蘇った記憶が彼女を幸せにしないのならいっそ……「後悔してないよ」
静かな声で、それでいてはっきりと告げられた言葉にイルミは肩の力を抜いた。
「…むしろ感謝してる。イルミが思い出させようとしてくれなきゃ、私はずっとお兄ちゃんを誤解したままだった」
「……オレはオレのために思い出して欲しかっただけだよ」
「…そうかも。でも、イルミのおかげなことには変わりないよ。ありがとう」
彼女の言葉に偽りはなさそうだったけれど、礼を言われても素直に受け取る気にはなれない。
イルミが欲しいのは感謝なんかではなくて、アニスの心そのものだった。
「そっか……ならいいんだ。
とにかく、ヒソカはオレが見つけるから安心して」
「ごめんね、いろいろと」
「別にいいよ」手の中で針がぐにゃりとまがった。自分を見て、とはっきり言えたらどんなに良かっただろう。「ねぇ、アニスが住んでたマンションに今からもう一回行ってみない?」
「うん……」
頷いて立ち上がった彼女は、どこか前よりも大人びて見える。記憶というものはそれほどに人に影響を与えるものなのだろうか。
早く彼女の心からの笑顔が見たいけれど、それは自分の我侭なのだろうと思った。
※
室内を見渡して、相変わらず『あいつらしく』ない部屋だな、と思う。あちこちにあるヒソカの仮住まいは今まで何回か見たことがあるけれど、ここが一番生活感がある。
けれどもやはりヒソカは帰っていないみたいで、言葉にされなくてもアニスの落胆がありありと伝わってきた。
「……私ここで待ってようかな。いつかお兄ちゃんが帰ってくるかもしれないし」
「それって、ここで暮らすってこと?」
脱力するようにソファーに腰かけた彼女の呟きに、思わずハッとする。迷いながらも頷いたアニスは、それからこちらを見て首を傾げた。「…イルミ?」名前を呼ばれて、彼女の腕を無意識のうちに掴んでいたことに気がつく。そしてそんな自分の行動に困惑する余裕もなく口走っていた。
「…いやだ」「え…」
「やっと、一緒にいられると思ったのに」
近い距離で視線が交錯し、アニスの瞳に自分が映っているのが見える。この言葉に動揺しているのはお互い様だった。まだ言ってはいけないと思っていたし、ここで言うつもりもなかったからだ。
けれども今さら後に引けやしない。彼女がここに住んでヒソカを待ちたい気持ちは理解できるが、そうなるならイルミはその前にアニスの気持ちを確認しておきたかった。
直感的に、今しかないと思った。
「ねぇアニス、前にも言ったけど……」
前はあんなに言うのが簡単だったはずなのに、改めて記憶を取り戻した彼女を前にすると緊張した。感情を殺す訓練は何度もやってきたのに、出した声は無様なほど掠れている。
言い回しとかムードとかそんなことに構ってる余裕はなくて、頭の中はたった一つの感情でいっぱいだった。それを伝えたくて、伝えなければ壊れてしまいそうだった。
「……好き、なんだよ。アニスのこと」
たったこれだけのことに気付くのに、酷く遠回りをした。愛なんて恋なんてはっきり言ってこれっぽっちも信じていなかった。
家族以外に特別な感情なんて持ち合わせることはないと思ってた、それなのに。
たとえ自己満足だったとしても、押し付けだったとしてもアニスに伝えたい。
「…アニスは、どうなの?」そして私も、って言ってほしかった。
ずっと聞きたかった質問をぶつけてまっすぐに見つめると、アニスはゆっくりと瞬きをする。長い睫で覆われた瞳がゆらゆらと揺れて「わ、私は、」その顔がみるみる赤くなっていくのを見たイルミは心の底から安堵した。
「だからその…私も前に言ったけど…」
「あの時は悪かったよ。だからもう一度聞かせて」
ねだるように掴んだ腕を軽く揺すれば、アニスは消え入りそうなほど小さな声で呟いた。
「……好き、だよ。
イルミのこと、ずっと好きだったよ。変わってないよ」
真っ赤になって俯いた彼女はでも今はお兄ちゃんが…と口にする。けれども肝心の続きはイルミの耳に入ってこなかった。『好き』なんてありふれた言葉なのに、彼女のそれを聞いた途端に胸が苦しくなって、自分が今感じているこの感情がなんなのかすらわからなくなった。
「……よかった、アニスの気持ちが変わってなくて」
ほとんど無意識のうちにぽつりと想いを洩らした後、イルミは彼女の背中に手を回して身体ごとこちらに引き寄せる。「えっ」驚いて顔をあげたアニスは逃れようとしたみたいだったが、流石に力では叶わない。
すぐ鼻の先に彼女の顔が近づいて見つめ合ったあと、そのまま少し首を傾けて……
「ストップ
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」
チラリ、と声のした方に視線をやれば、ベランダにつながるガラス越しにヒソカが怖い顔をして立っていた。
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