■ 56.残酷な選択
しかしながらその日、どこを探しても師匠の姿は見つからなかった。
確かに彼と戦い、ヒソカが重傷を負ってからもうすでに3週間以上経過している。その間一度も顔を合わせていないわけだが、ヒソカは当たり前のようにまた師匠と会えるものだとばかり思っていた。
というのもそれは彼自身が血まみれのヒソカに向かってこう言ったからだ。
まだ殺しはしない、今度お前の力を最大限まで引き出してやろう、と。
だからこそ彼が何も言わずに行方をくらませるなんてことは全く考えられなかったのだが、結局一日を探し回っても見つけられなかった。
「…どこに行ったんだろう」
夜も更け、流石に一人残してきた妹のことが心配になる。また明日探せばいいかと気持ちを切り替えて帰宅したヒソカは、玄関を開けて嗅ぎ慣れた鉄臭い匂いに戦慄した。
「アニス…?」
頭の中で警鐘が鳴る。内心は焦っているのに、気配を殺して廊下を歩くだけの冷静さは残っていて、体と心のばらばら加減が自分でも気持ち悪かった。
「いるんだろう?」
返事をしてくれ、という思いが声を上ずらせる。「…っ!?」意を決してリビングルームを覗くと、見慣れたはずの部屋は赤黒く染まっていた。
床に横たわる男女は、確認するまでもなく両親だ。床にできた血だまりの量と、ぴくりともしないその体からすでに彼らが絶命していることはわかる。
しかしその光景よりもヒソカに衝撃を与えたのは、血まみれのナイフを片手に佇む妹の姿だった。
「…アニス、」何があったの。
絞り出すようにそう声をかけたが、責めるつもりなんてこれっぽっちもない。生憎ヒソカはアニスほどこの両親を愛してはいなかったし、何か彼女にこうさせるだけのことを両親がしたに違いないと思った。
むしろ彼らを殺したことで、妹が壊れてしまわないかそっちの方が心配だった。
「アニス、怪我はない?これ…アニスがやったのかい?大丈夫?」
恐る恐る近づいて、彼女の様子をうかがう。肩を掴んで前後に揺さぶってみたが放心状態のようで、揺れに合わせてその体もがくがく揺れた。それなのに、握りしめたナイフは一向に手放さない。
結局、何かがおかしいという疑惑が確信に変わったのは、その鋭い切っ先がヒソカに向けられてからだった。
「お兄ちゃ…ん」
「っ!」
言葉とは裏腹に機敏な動きで、ヒソカの喉元を刃がかすめる。とっさに後ろに飛びのいたので切りつけられることはなかったが、妹の動きは確実にヒソカの命を狙っていた。
「アニス、落ち着いて!どうしたんだい!?」
「死んで」
「アニス!!」
強く妹の腕を打ち、ナイフを叩き落とさせる。とっさのことで力加減が出来ず骨の折れる鈍い音がしたが、倒れたアニスの顔が痛みに歪むことはなかった。
「…どうだ?妹に殺されかける気分は?」
「なっ、なんで…」
不意に後ろから殺気をぶつけられ、ヒソカすぐさま振り返る。部屋の入り口に立っていた師匠はいつからそこにいたのか、不気味な笑みを浮かべていた。
「なんでって、言っただろ。お前の力を最大限引き出してやるって。
しかしお前も水臭いな、家族がいるなら言ってくれよ」
くつくつと喉を鳴らして笑った師匠の系統を、ヒソカは知らなかった。けれどもアニスがおかしくなったのは間違いなくこの男のせい。「ヒソカ、お前の本気が見たいんだ」師匠がそう言うと倒れていたアニスが起き上がり、折れていないほうの手でナイフを掴む。さては殺し合いをさせるつもりなのだろうか。
妹と師匠の両方の動きを注視していると、アニスは構えたナイフの刃を向けた。なんと彼女自身に。
「お前が妹を大事にしてるのは調べさせてもらったよ。だから殺し合いなんてどうせ成り立たないだろう?」
「…やめろ」
「俺は戦闘狂で快楽殺人者だ。だけどな、生憎念の系統は戦闘向きではない。他人を操るなんてなんともすかっとしない能力だが、だからこそ俺はお前に目を付けたんだ」
ヒソカがアニスの方へ駆け寄ろうとすると、動くな、と冷たい声で脅される。動けばアニスの命はない。うつろな瞳の妹は胸にナイフを当てて、次の命令をただ待っていた。
「俺はお前という作品が完成するのを見たくなったんだよ。どうせ操るなら人生ごと、最高に狂った殺人鬼を作ってやろう。
お前は人殺しを楽しむ才能がある。だけど今のままじゃまだ駄目だ。大切なものを失わないと」
「やめろ…やめてくれ」
「強くなりたいんだろう?」
だったら何もかも捨ててしまえ
師匠が笑ったのと、アニスの目が大きく見開かれたのはほぼ同時だった。ナイフが刺さった胸は右。痛みと驚愕に彩られたその瞳は、彼女の意識が戻ったことを表していた。
「お…にい、ちゃ…」
引きつるような呼吸音。自分でも何が起こっているのかわからないのか、視線はせわしなくあちこちを彷徨う。「アニス!」今ならまだ助かるかもしれない。しかしヒソカが近づくとアニスの細腕は、より深く身体にナイフを埋め込んだ。
「っぐぁ…!」
「俺は助けたくて急所を外したわけじゃない。ヒソカ、お前が引導を渡してやれ」
「は?何言って…」
「妹を助けたいだろう?なら殺してやれ、今のままでは苦しいだけだ」
「そんなことできるわけ」「薄情な兄貴だな」
いいからやれ、と師匠は呟いた。やらなきゃもう一度刺す。何度でも刺す。急所を外して死なない程度にいたぶって殺す。お前が先に俺に向かって来てもいい。だが戦っている間にお前の妹は死ぬだろうな。苦しみながら死んでしまうだろう。
「妹だって、お前に殺される方が嬉しいに決まってるさ」
それは、残酷すぎる選択だった。
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