- ナノ -

■ 53.心の震え

一体除念が始まってからどのくらい経ったのだろう。
突然扉の向こうで悲痛な絶叫が聞こえ、イルミは思わず肩を跳ねさせる。
そして嫌な想像を振り払うようにして、次の瞬間、開けてはいけないと固く言われていた扉を思い切り押し開いた。

「アニスっ!?」

「イ、イルミ様…」

室内の様子は出た時とほとんど何も変わっていなかった。ただ、除念師が腰を抜かして床に座り込み、こちらを恐れるように伺っている。「せ、成功はしたのです、したのですが」這うようにして足元に縋り付いてくる除念師を無視して、イルミはベッドに横たわる彼女に駆け寄った。
とにかく彼女の無事を確かめたかった。

「アニス、大丈夫なの!?何があったの」

アニスは目を覚まして意識もしっかりしているようだった。特に目立った外傷はないが、こちらを見るなり両手で顔を覆う。
彼女は震えて、そして泣いていた。イルミ、と小さな声で名前を呼んだ。

「イルミ…イルミ私…」

「どうしたの、落ち着いて。ねぇオレはここだよ、思い出したの?」

手首をつかんでアニスの表情を伺おうとするが、アニスはいやいやをするように首を振る。「思い出した。思い出したの…」仕事の時を思い出して錯乱でもしているのかと、イルミは彼女を抱き起して肩を抱いた。

「大丈夫、大丈夫だよ。もうアニスを危険な目に合わせたりしないから。だから、落ち着いて」

「違う、違うのよ…そうじゃないの」

「どういうこと、アニス?何を言ってるの?」

「両親を殺したのはヒソカじゃない…あれは、あれは…」


─わたし

アニスの顔を覆っていた手が、ゆっくりと下に降ろされる。涙で濡れたまつ毛はきらきらと輝いていたが、肝心のその瞳は色褪せていて。

「アニス……?」

抱きしめた彼女は壊れるんじゃないかと思うくらい震えていた。「ごめんなさい…私、ごめんなさい…」

ヒソカが除念を拒んだ理由が、ようやくわかったような気がした。





ヒソカとアニスの家は、貧しいながらも至ってごく普通の家庭だった。親がおらず捨て子だったわけでも、また逆に特別レールを敷かれた人生だったわけでもない。

ただ、この世界にはありふれた残酷さを、当時住んでいた地域ではありふれた日常として享受していた…それだけのことだった。

「ねぇ、お兄ちゃん、ママいつ帰って来るのー?」

「どうだろうねぇ、でも、アニスにはボクがいるだろう?ほら、ボクが遊んであげるよ」

両親は親と言うより「男」と「女」だった。いつまでも自分が一番で、子供のことなんて顧みなかった。
いやそれでも、他の家に比べればまだ恵まれていたのかもしれない。ぼろいながらも住む場所があって、時折思い出したように家に寄る父と母は、機嫌が良ければお金をくれた。
もちろん、そうでないときは暴力だって振るわれたけれど、それでもヒソカには妹がいたしアニスにも兄がいた。
自分を産んでくれたことに感謝する気は起きなかったが、兄妹を産んでくれたことには少なくとも感謝していたのだった。

「今度ね、パパとママが来たら見せてあげるの」

「へぇ、上手く描けてるじゃないか」

捨てられていた小さな青色のクレヨンで描かれた似顔絵を掲げ、アニスは嬉しそうに微笑む。ヒソカはその泥混じりの青色よりももっと鮮やかな痣が彼女の身体中に付いているのを見て顔をしかめた。

「ボクのいない間に二人が来たの?」

「…うん、でもお金くれたよ」

「……」

ヒソカが大きくなるにつれて、両親はアニスにばかり暴力を振るようになっていた。そしてタチの悪いことに彼らにも人並みの罪悪感があるのか、乱暴にした後は殊更に優しかった。
だからアニスは酷いことをされても彼らのことを嫌ってはいなかったし、すべてはお酒が悪いのだと信じ切っていた。

お酒を飲むと両親の代わりに『あの人たち』が来る。そいつらは両親そっくりな顔をしているけれど、決して両親ではないのだ。本物の両親はちゃんとアニスのことを大切に想ってるよ。

昔、あんまりにも泣くアニスが憐れでついた嘘。後になってからまだその嘘を本気で信じているのか、それとも信じようとしているだけなのか、ヒソカに確かめる術はなかった。

「アニス、ボクが守ってあげるからね…」

眠りについた彼女の寝顔に何度そう話しかけただろう。こんな家早く出るべきだ。そのために力が欲しい。
子供二人で生きていくには、金よりも力が足りなかった。ヒソカは器用だったし、親がいないときはそれなりに色んなことをして稼いでいた。

手品もその一つだ。アニスを喜ばせるために始めた遊びは、大人も楽しませることができた。数少ない稼ぎからほんの少しの贅沢をして、お菓子を買ってやるとアニスはすごく喜ぶのだ。

けれどもいくら金が稼げても、力が無ければ奪われて終わり。

確かに手品なんて見世物は、色んな人間の目を引くだろう。そしてその対価に支払われる小銭すら、喉から手が出るほど欲しい人間がたくさんいる。

ヒソカは力が欲しかった。
せめて自分と妹が安心して暮らせるだけの力が。


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