- ナノ -

■ 47.交渉成立

決死の思いで断り文句を口にしたが爆発音以外は何も聞こえず、ややあってからアニスは恐る恐る顔をあげた。

もちろん、真っ先に目に入ったのは先ほどと全く変わらぬ位置に立ち尽くすイルミだ。
唯一違うのはその猫のような瞳が大きく見開かれていることだけ。助けを求めるように兄の表情を伺えば、なんと彼は口に手を当て肩を揺らし、笑いをこらえているではないか。「ちょっ……!」

小馬鹿にするような兄の態度に何かフォローをと慌て、そもそもあのプロポーズが本気だったのかすらわからないながらも、アニスは気まずい沈黙をかき消すように口を開いた。

「あ、あのっ……決してイルミさんが嫌いとか、そういうんじゃなくて……いきなりですし、そんなこと言われても困るっていうか」

「……嫌い、じゃない?じゃあ好き?」

「いや、だから私イルミさんのことよく知らないし、そもそもお付き合いもしてないのに結婚だなんて考えられません。
好きでも嫌いでもないし、そういうのよくわかんないっていうか……もう、笑ってないで助けてよ!」

ばしん、と目の前の兄の背中を叩くと、いよいよ兄は吹き出した。「悪いねぇイルミそういうことだから諦めて」先ほどのオーラもどこへやら、今度は逆に上機嫌である。
イルミはというと不快そうに少し眉を寄せた。

「よく知らないのは忘れてるからなだけ。
思い出せばアニスは断らないはずだよ」

「え?私達付き合ってたんですか?」

「うん、そーだよ」

「イルミの嘘は下手くそだねぇ

アニスに記憶がないのをいい事に男たちはめいめい勝手なことを口にする。しかし冷静に考えてもし本当に恋人だったのだとしたら、記憶を無くした彼女をこんなに放置するだろうか。
嘘だとはっきり言われたイルミは悪びれることなく「本当にするからいいよ」そんな挑発的なことを口にした。

「ねぇヒソカ、真面目な話、チャンスをくれない?」

「…チャンス?」

「念のせいだから望みは薄いかもしれない。でもまた買い物に行ったり、お茶会したりしたらアニスの記憶も戻るかも。
オレは同情とか罪悪感とかそんなもので行動したりしないよ」

「……」

「欲しいと思ったんだ、純粋に」

まっすぐ目を見つめられ、思わずドキリとする。元々常に真顔な人だけれど、今日はいつも以上に真剣に見えた。兄もそれを感じ取ったのか自然と背筋が伸びる。


しばし無言で見つめ合った後、溜息をついたのは兄の方だった。


「…イルミ、嘘はないだろうね?」

「お前ならわかるだろ」

「すべてはアニス次第だ、それだけは忘れるなよ」

無理強いするな、危険な目に合わせるな、勝手に手を出すな……。
ぽかんとするアニスをよそに、ヒソカとイルミはまるで取引をするような雰囲気だ。

「いいよ、ヒソカの条件を全面的に呑む。
ただし自分で言ったように全部アニス次第ということ、忘れないでね」

「アニスはそんな軽い女じゃないよ」

「ま、待って」勝手に決めないで。

半ば捕虜にでもなった気分でおろおろしていると「じゃ、交渉成立だね」近づいてきたイルミに腕を取られる。「もしも思い出せなくてもその時はその時で好きにさせるから」「えっ!?」この人の言うことはひたすら心臓に悪い。

一気に体が熱くなるのが自分でもわかる。
しかし、固まってしまっているアニスの空いているほうの腕を今度はヒソカが掴んだ。

「でも買い物の時は三人だったもんね、もちろんボクも行くよ」

「別にいいよヒソカは」

「いやいや、ちゃんと再現しないと」

「邪魔だって言ってるのわからない?」

「お、お兄ちゃん着いて来て!」

記憶もないし状況も呑み込めない状態で、いきなり二人きりは気まずすぎる。しかもさっき告白されたんだから、考えようによってはデートだ。
ゾル家で療養していた時にお世話になったとはいえ、あの時のイルミは終始重たいオーラを纏っていて楽しくお喋りだなんてしたことがなかったし、アニスからしてみるとまだまだ謎の多い人物である。暗殺者だというのもやっぱり怖い。

「アニス次第、って言っただろう」

アニスのお願いに気を良くしたのか、ヒソカはふん、と鼻を鳴らした。


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