- ナノ -

■ 42.大事な記憶

「アニスさん!!本当になんて言っていいか…あなたを危険な目に合わせてしまってごめんなさい…そしてイルを助けてくれてありがとう!!
あなたには是非イルのことをよろしくお願いしたいわ!!」

「いえ…」「母さん、やめて」

無事退院できるとなったその日、もちろんヒソカはアニスを迎えに来た。それまでだって何度もヒソカは見舞いに来ていたが、裏でイルミが面会謝絶にしていたのだ。
それでもヒソカが暴れなかったのは妹の体を心配してか、はたまた自分は忘れられていないという優越感か。とにかくヒソカは今日久しぶりにアニスと会う。イルミとも久しぶりに。

元々すごく仲が良かったわけでもないが二人の間に漂う冷たい雰囲気にも気づかず、キキョウだけは『アニスの兄』で『息子の知り合い』かつ『強い念能力者』のヒソカの登場にとても喜んでいた。

「でも、記憶が無いのは念のせいなんでしょう?
それならウチで除念師でもなんでも用意させますわ!」

「お気持ちは嬉しいんですけどねぇ、あまりこれ以上アニスに負担をかけたくないんですよ
逃げた共犯の男も、そちらで片付けてくださったんでしょう
それなら今のままでも、日常生活に支障はありませんし

「まぁまぁ、そうねぇ、まだそんなに急がなくってもいいかしら。除念師が必要になったらいつでも声をかけてくださいね!」

「ええ、ありがとうございます

ちっとも思っていないだろうに、ヒソカはにこりと笑って見せる。
しかしそんなことよりも日常生活に支障はない、の一言がイルミの胸に重くのしかかった。

「お世話になりました」

「またいらしてね、アニスさん!!」

執事たちも皆深々と頭を下げ、アニス達を見送る。「ヒソカ、」イルミがヒソカに対して言葉を発したのは今日これが初めてだった。

「…なんだい?」

「後で話がある」

「……アニスを家に送り届けてからね」

「それでいい」

ヒソカに連れられながら、アニスは少しだけ後ろを振り返ってこちらを見た。視線が合って、言いたいことはたくさんあるのに肝心な時に言葉が出てこない。

軽く会釈をした彼女が今更ながらひどく遠い存在に思えた。





「話って、なんだい」


ヒソカと待ち合わせしたのは結局深夜を過ぎてからだった。酒なんかちっとも飲む気にはなれなかったが、改めて話すにはどんな場所がいいのかわからない。とにかく正面に向かい合って話すのは気が引けたため、二人は仕事後にたまに行くバーで並んだ。

「…アニスのことだけど、あのままにするの?」

「あのままって?」

いつもなら遅れてきたヒソカに文句の一つもぶつけている。けれども今日はそれを咎める余裕もなく、イルミはいきなり本題を切り出した。どんなに言いづらいことでも、婉曲に話を進めるやり方がわからなかった。

「わかってるだろ、記憶のことだよ」

「…キミには関係ないだろ」

「あるよ」

むしろ、忘れられてるのはイルミだけなのだ。そしてアニスが記憶を失う原因を作ったのも。
しかしヒソカはすぐには返事を返さず、おそらく飲みたくもないであろう酒を注文した。

「…ボクとしては、あのままでも何の問題もないんだよ。
確かにキミにはすごく腹が立ってるけどね」

「危険な目に合わせたことはホントに悪いと思ってるよ、だけど」「一つ聞いていい?」

形だけグラスに口を付けたヒソカは、そう言ってイルミの言葉を遮った。

「キミもその男の念にかかったんだろう?どんな記憶を取られそうになった?」

「え?」

何の話かと思いきや…。

イルミにとってその話はもうどうでもいいことだったが、なにやらヒソカは真剣な雰囲気である。だから質問された以上は答えるべきだと思った。

「どんなって、向こうは変わった趣味を持つ奴だからね。殺戮シーンとか興味あったんじゃないの」

そう深く考えもせず回答すれば「これはボクの意見だけど」ヒソカはかたり、とグラスをカウンターに置いた。

「そんな趣味を持つ奴が一番欲しいのは、相手のもっとも大事な記憶だよ」

「……」

確かに、奴はそんなことを言っていたような気もする。イルミの脳裏に昔の家族の思い出が蘇り、あの時感じた屈辱が胸を満たす。と、同時にヒソカの言わんとしていることがなんとなくわかって驚いた。

「じゃあ、アニスも……?」

アニスにとって一番大事な記憶は自分だったのか?確かに彼女は好きだとは言った。けれども振られてもめげずに追いかけてくるほどではなかったはずだ。言ってしまえばその程度の想いだったはずだ。
それがどうして……。

イルミにとっての家族ほど、彼女は自分のことを大事に想っていたというのか。兄であるヒソカを差し置いて。「言っただろ、ボクはキミにすごく腹を立てているって」ヒソカはちらりともこちらを見なかった。


「だから改めてキミに言っておく。もうアニスには関わるな」

「…っ、なんで」「じゃあ逆に聞くけど、記憶が戻ってなんになる?確かにアニスの記憶が戻れば、キミは自分の失態をチャラにできるだろう。罪悪感も薄まるだろう。だけどアニスはまたキミへの想いを引きずるだけだ。
……それなら初めからキミなんて『いなかった』ほうがアニスのためだ」

その言葉に衝撃を受けイルミが言い返せないでいると、話は終わりだと言わんばかりにヒソカは立ち上がる。

「ヒソカ、」「もういいだろ、キミはもともとアニスのことなんてなんとも思っていないんだから」

「……」

違う。心のどこかが悲鳴を上げた。アニスのことは嫌いじゃなかった。だけど嫌いじゃないことがどういうことかわかっていなかった。だから避けるように引っ越しをした彼女に腹が立った。

「もう何もかも遅いのかな……」

アニスがそこまで自分のことを想ってくれてるなんて知らなかった。彼女に完全に忘れられて初めて、自分が焦っていることに気が付いた。そしてその焦りの原因も。

ここへ来た時にはちっとも飲む気になれなかったくせに、今は飲まずにいられない。

一人になったイルミは長い髪が乱れるのも構わず、両手で頭を抱え込んだ。


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