- ナノ -

■ 37.屈辱

気が付くと暗がりの中、目の前に立つ男。イルミはとっさに攻撃を仕掛けようとしたが、腕が上がらないどころか指一本動かせない。
視線だけで自分の姿を見下ろせば、なんとそこに自分の体はなかった。

「…っ!」

「驚いたかい?」

にやにやと気味の悪い笑みを浮かべているこの男は紛れもなくターゲット。それはともかくもこの状況は一体何なのだ。
暗闇の中に浮かぶ、生首だけの自分。体を動かせないこと以外、特に痛みなどはないが死んでいるとも生きているとも判断がつかない。

わかるのはこれがさっき倒した男の念によるものだろうということだけだった。

「素晴らしいだろう?君がさっき攻撃した男は護衛なんかではない。
彼の能力はどちらかというと捕獲向きでね、攻撃されたときのみ発動するんだ。
もちろん一撃で殺されることを懸念して、色々と対策は講じさせてもらったけどね」

「…へぇ、参ったな、こんなの初めてだよ。
首だけ残したのは、オレから情報を聞き出すため?」


恨みにしろ賞金にしろ、家族ぐるみの暗殺一家だ。捕まった時にあっさり殺してもらえるはずがないし、そのためにこっちは拷問の訓練も受けてきた。
イルミには自分がどんなことをされようとも口を割らない自信がある。そしてたとえどんな窮地でも、逆転のための隙が無いかどうか目を光らせていた。

「いいや、勘違いしないでほしい。私は君の家に恨みがあるわけでも、ましてやお金が欲しいわけでもない。
君なら私の趣味を調べてきているだろう?」

「人体収集?でもオレ、別に珍しくとも何ともない人間だよ」

ターゲットを調べ上げたリストには、確かそんなことが書いてあった。けれどもイルミは別にどこかの少数民族でもなんでもなかったし、いくらゾルディックのネームがレアだとしても人体のパーツになってしまえばそれを証明する術はない。
身動きさえできれば、絶対に首をかしげていた。


「そうだなぁ、確かに君の体には価値がない。初めて見て驚いたが、その髪や顔の造作は綺麗だよ。だけど私が興味あるのは君の『記憶』だ。暗殺者としての、君の『記憶』」

「記憶…?」

そんなものどうやって。

口を開こうとした瞬間、顎を掴まれ強引に視線を合わせられる。「大丈夫、悪用したりしないよ。君の一番大事な記憶をコレクションに加えさせてもらうだけさ」逃れようとしたが、体は動かないどころか存在しないのだ。

なすすべもなく男の瞳を見ていると、激しいめまいに襲われ、頭の奥がずきずきと痛んだ。






初めは夢を見ている気分だった。

床に広がる赤い海。そこに横たわる人だったものの姿を見て、これは昨日のターゲットだ、なんてぼんやり思う。
確かこいつはマフィアのボスで、対立していた組織からの暗殺依頼。

つい先日の自分の行動を、まるで映画でも見るみたいにただ眺めていた。

あのあとオレはどうしたんだっけ……。
そうだ、アニスに電話をかけたんだった。

そう、アニス……。

その名前におぼろげな意識が次第に戻ってくる。そうだ、今彼女はどうしているんだろう。狙いがイルミならもう目的は果たされたはずだし、上手く屋敷から逃げ出したんだろうか。

しかしそんなイルミの意識とは関係なく、記憶の映画はどんどんと巻き戻っていく。
あ、あれは一昨日の、あれは先週の…あれ、誰だっけあんなやつ殺したっけ。

本人が覚えてないものまで含めて、ひたすらに続いていく惨劇。だが今更そんなものを見せられたところで苦痛でもなんでもない。
それどころかひどく退屈で、だんだんと眠気すら襲ってきた。

けれども悠長にしていられるのはここまで。
どんどんと古い記憶へと場面は変わり、とある人物の姿が映し出された瞬間、イルミの意識はこれ以上ないほどまでに冴えわたった。


キル…!


やめろ。家族のことは漏らすわけにいかない。
今更ながら焦り始めるが、ここには生首としての実体すらない。

「やめろ」見るな。
記憶を勝手に見られている嫌悪感が、ないはずの背筋をぞくりと走る。


「見るな見るな見るな…!」


アルバムの中だけの幼い笑顔が、他人に踏みにじられるのは屈辱でしかなかった。

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