■ 29.兄として
翌朝、寝室から出てきたアニスは案の定何も言わなかった。
流石に着替えて化粧も落としているようだったけれど、瞼が腫れているのは隠しようもない。
当たり前のようにリビングのソファーで寝ていたこちらに気づくと、一瞬だけ強ばった表情になった。
「おはよう
」
「……なんでいるのよ」
「駄目だったかい
?」
「……もういいけど」
ふぁ、とわざとらしい欠伸をしてアニスはテレビをつける。起き上がったヒソカがぽんぽん、とソファーを手で叩くと、少し迷う素振りを見せた後に黙って腰をおろした。
「……ヒソカって、いつも何してるの?」
「ん
?」視線をテレビの天気予報にぼんやりと合わせながら彼女はそんなことを言う。「何って、色々やりたいように自由に生きてるよ
強い奴と戦ったり探したりね
」
「ふぅん...」
自分から質問をしてきたくせに、彼女は特に興味なさそうに相槌をうつ。まぁそんなことにいちいち腹を立てるほど心が狭いわけではないが、急にこんなことを聞くなんてどうしたのだろう。
女が何の脈絡もない質問を投げかけてくるときは、大抵本人に話したいことがあるのだとヒソカは知っていた。
「……私、しばらくしたらまたここを出ようと思うの」
「へぇ、どこに
?」
「詳しくは決めてないけど、元から住むとこなんて転々としてたし。
だからまぁ一応……お兄ちゃんだし、なんか言っておくべきかなって」
アニスは言いにくそうにぽつり、ぽつりと呟いた。
「そっか
嬉しいよ、アニス
」
お兄ちゃん、と呼ぶのはイルミとの仲を取り持つという取引の報酬だった。もしかするとただ単にようやく兄と認めてくれただけかもしれなかったが、アニスがイルミのことを完全に諦めたという可能性もある。
イルミのことを吹っ切ってくれて、なおかつ自分のことを兄扱いしてくれて……。
妹の不幸なのに、どこか少しだけ安心している自分がいた。アニスにはあまりこっちの世界に染まって欲しくない。
「アニスさえ良ければだけど」そしてもう二度と自分の目の届く範囲から出ていって欲しくなかった。
「好きな大陸でも国でも言ってごらん
どこかしらにボクのマンションがあるから
」
「……え?」
「そこに住めばいい
今までは適当に男騙して転がり込んでたんだろ
」
「まぁ……そうだけど」
「だったらその男がボクでもいいじゃないか
」
でも……と口ごもる彼女に決まりだ、と手を打った。善は急げというし、いつまでもこんなイルミの家の近くに住んでいるのは精神衛生上良くないだろう。
結局、半ば強引に引越し先を決定したけれど、アニスは珍しく文句の一つも言わなかった。きっと彼女も心のどこかでこの場を早く離れたいと思っていたに違いない。
「ヒソカはどうするの?」
「別に一緒に住もうって言ってるわけじゃないよ
アニスがそうしたいならそうしてもいいけど、ボクも忙しいからねぇ
」それに今は一人になりたいだろう。
やっとこちらを向いた彼女は聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声でそっか……と呟く。
それからソファーの上で三角座りになると自分の膝に顔をうずめた。
「ありがとう……」
「気にしなくていいよ、アニスはボクの妹じゃないか
」
「ごめん、ね……」
その声がほんのりと泣き声だったことには、気づかないフリをした。
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