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■ 26.悟った世界

しかしわかったとは言ったものの、本音を言えばハニートラップが必要な事態になんかなって欲しくない。ターゲットが女性と話す度にアニスは頼むから連れこめ〜と祈るように見つめていた。

「そんなに見てたら気づかれるから」

「え、あ…ごめん」

「それより、顔色だいぶよくなったからお酒でも飲む?」

緊張ほぐれるかも、とイルミは近くのウエイターからグラスを二つ受け取った。

「…仕事前に飲んで大丈夫?」

「はは、この程度で酔わないよ。アルコール耐性だってあるし」

「あー流石ね…」こっちはまだ少し胃が痛むと言うのに。

だが少しくらいなら確かに緊張をほぐすのに役立つかもしれないと思って、アニスは金色に輝くシャンパンに手を伸ばした。「眠くもなりそうだけど」まぁ高級なお酒はグラスに少ししか注がれていないので、あまり飲み過ぎると言うこともないに違いなかった。

「眠られたら運ぶの面倒だからやめてね」

「わかってる…あ、動きそう」

シャンパンを流し込み、ターゲットに視線を戻せばちょうど女性の肩を抱いてホールから出ていくところだった。

「ホントだ、じゃオレ行ってくるからここで待ってて」

「待って、私も行く」渡された二人分のグラスを近くのテーブルに置いてそう言うと、イルミは振り返って少しだけ怪訝そうな顔になった。

「なんで?」

「…興味あるの」

「ふぅん、変わってるね」

やっぱヒソカの妹だからかな、なんてありがたくないお言葉を頂戴してしまったが、ここはひとまず耐えて彼を追いかける。「邪魔だけはしないでね」そんなことはもちろんわかっていた。

アニスはただ仕事をしているイルミを見てみたかったのだ。好意を寄せている彼の、おそらくもっとも悪い部分を。






「はい、おしまい」

「…呆気ないね」

プロの暗殺者の殺しと言うのは、想像よりもずっと綺麗で静かで迅速だった。
兄が昔起こした惨劇のインパクトが強いからかもしれない。血の一滴も流さず人形のように倒れるそれはほんの数分前までは確かに生きていたのだが、こうなってしまうともう物のよう。
男は悲鳴すら上げなかったので、見ているこちらとしても殺しに対しての嫌悪感を感じないほどだった。

「ま、こういう流れに持ち込めるとだいぶ楽だよね」

「あの女の人は?」

「もうしばらくしたら気が付くんじゃない?」

あの後、ホールを出たターゲットと女性の後を私達も同じように休憩するふりをして尾行した。そしてその時にイルミが小さな針を女性に向かって投げると、二人が入っていった部屋からしばらくして女性だけが出てきたのだ。
どうやら彼の念は私を拷問した時みたいに人を操れるらしくて、どこかぼんやりとした表情の女と入れ違いになるように私達はターゲットのいる部屋へと入ったのだった。

「さ、帰るよ」

「うん」男の眉間から針を抜いたイルミは、いつも通りのイルミだった。彼が仕事をする姿を見ても、怖いとも嫌だとも思わなかった。
けれどもその代わりに、アニスは絶望的なまでの彼との差を思い知らされることになった。鮮やかすぎるまでのその手際に、私達は住む世界が違うのだと。

「…イルミって毎日こんなことしてるんだよね」

「そうだけど。家業だしね」

「…そっか」


そこからどうやってパーティー会場を出たのかはあまりはっきりと覚えていない。たぶん、来た時と同じように恋人のフリをして何食わぬ顔で受付を通り抜けたのだろう。
本当に言葉どおり恋人の「フリ」だ。あんなに大きなお屋敷を見ても毒の入った料理を食べさせられてもそこまで感じなかった彼との生きる世界の差が、こんな簡単なことではっきりと分かった。

「…じゃあやっぱ同じような暗殺一家のお嬢さんをもらうんだね」

ゾルディックの執事が運転する黒塗りの車に揺られて、言わなくていいはずの呟きが漏れた。


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