■ 15.悪い夢
「お兄ちゃん、」
幼い私は満面の笑みで誰かに向かってそう微笑んでいて、大人の私の意識はそれをぼうっと見ていた。
流石に過去に戻れる訳がないし、そもそも私が二人存在していることになるし、これは夢なんだとすぐにわかる。
そうか、これが明晰夢って呼ばれるやつか。
「お兄ちゃん、待って」
記憶はあやふやだけれど、私にお兄ちゃんと呼ぶべき相手は一人しかいない。
そんなに懐いていたのか?と自分でも不思議に思うくらい、小さな私は幸せそうだった。
そして、そんな私の頭を優しく撫でる少年。彼が今のピエロ野郎だなんてこと信じたくない。
アニスはまるで映画でも見ているかのように、幼い自分と兄とを眺めていた。
特に懐かしさに浸るわけでもなく、ただ目覚めることが出来ないという理由だけで過去の自分達を眺めていた。
……いや、そもそもこれは本当に過去の出来事なんだろうか。
私の作り出した都合のいい妄想かもしれない。その割に両親の姿がちっとも出てこないけれど。
ずっと眺めていても私と兄ばかりが一緒にいた。何をするにも一緒で、年の離れた兄は何でも教えてくれた。
「っう……う……」
ふと、押し殺したような泣き声が聞こえた。
もちろん声の主は幼い私。いつの間に場面が切り替わったのか、ぼろぼろと大粒の涙を流している。
そして涙を拭った私の腕には、黄色みを帯びた青や紫の痣が輪のように咲いていた。
「アニス、ごめんね。もう1人にしないから、守るから」
だから、泣かないで。またあの人達が来るから。
兄は私の口を手で覆った。私も懸命に堪えようとしていたけれど、止めようとすればするほどしゃっくりが止まらないようだった。
「師匠を見つけたんだ。ボク強くなるよ、もうアニスを誰にも傷つけさせないよ」
ヒソカはあやすように私にそう言う。
あれ…じゃあこの時私をこんな風にしたのは誰なんだろう?
師匠って誰。私は……私はその人を知ってる…?
突然、頭が割れるように痛んだ。
意識だけのはずだった夢の中で、強烈な痛みが思考をぐちゃぐちゃにする。お兄ちゃん、私を1人にしないで。私も連れてって。私も強くなりたい。景色がぐにゃりと歪んだ。痛い。助けて、助けてよお兄ちゃ「アニス…?」
目を開けると、そこには怪訝そうにこちらを見つめるイルミがいた。一瞬、自分がどうなったのかわからず瞬きを繰り返し、やがて夢から醒めたのだと気づく。
「アニス、気分はどう?」
「え…」
「毒、飲んじゃったんだろ」
イルミの言葉にあぁ、と思い出した。そうだった、命からがら本邸にたどり着いた私は、そこで紅茶を飲んで苦しくなって……。
じゃあさっきの夢や頭痛は毒のせいだろうか。体中に嫌な汗をかき、心なしか呼吸も浅く早い。
動こうとしてと身をよじったが、まだ体がしびれて思い通りにならなかった。
「どうしたの、何だか様子が変だけど」
「…毒のせいだよ。
それよりベッド……ごめん」
とりあえず人のベッドにこんな汗だくで寝転んでいるのは気が引ける。こんな状況下にあっても僅かながらに残った乙女心に、自分で馬鹿馬鹿しくなった。
「いいよ、毎日シーツは変えるし。なんだったらベッドごと変えればいいし」
「…ごめん、他人が寝たら気持ち悪いよね」
「アニスは香水の匂いがしないからまだマシかな」
フォローになっているのかなってないのか良く分からない台詞を言われ、これは本格的に起きた方がいいかもしれないと考える。立ち上がることは無理でも、転がって床に落ちるくらいは「何やってんの、まだ寝てなよ」腕をぐい、と引かれ、傾いた体がベッドへと逆戻りした。
「でも良かったね、即死するような毒じゃなくてさ」
「…なんで、」なんでイルミがそんなこと言うの?勝手に屋敷に入って迷惑かけたのに。弱ってるところに優しくされたら、本当に好きになっちゃうよ。
「そのうち解毒剤も効いてくるんじゃない?
ウチには無かったから、執事が慌てて探しに行ったよ」
とりあえず寝てなよ、とイルミは言った。「死なれたらオレがヒソカに文句言われる」
「…うん」
その言葉に甘えて、アニスは再び目を閉じることにした。
そして今度は夢を見ることもなく意識を手放した。
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