- ナノ -

■ 35.ずるいひと

「リーシャさんって、よっぽどイルミのこと好きなんだね……」
「は?」

床に落ちたガラス片を拾い上げたウルは、どこかしみじみとした様子でそう呟く。そのあまりに理解を超えた台詞に、イルミは思わず聞き返してしまったが、彼女は不審には思わなかったようだ。だからそれをいいことに説明を求めてみる。

「どういう意味」
「だってさ、私にイルミのこと取られるかもって思ったからあんなことしたんでしょ。そりゃまぁ嫌だよね、急に幼馴染みの女が現れて、挙句の果てに自分の旦那を好きだったら……」

濡れ衣を着せられそうになっていたくせに、よくもまあそんな同情的な台詞が言えたものだ。イルミは呆れてものが言えなくなったが、ある意味でウルらしいとも言える。あの女は今頃医務室で治療を受けているだろうが、自分のやったことの恐ろしさがわかっただろうか。もう少しイルミの気が短かったら、本当に殺していたと思う。だが、そんなことを知らないウルは「許してあげてね」なんて甘っちょろいことを言ってのけた。

「……ウルは怒ってないの」
「私?怒ったよ、でも今は怒ってない。だいたい腹が立ったのはイルミに対して」
「オレ?」
「そう。長い付き合いの私より、やっぱりリーシャさんのこと信じるんだって思ったら悔しいのか悲しいのか分からなくなった」
「……」
「でも、それだけイルミがあの人を好きで、あの人もイルミのことを好きならもういいんじゃないかって思った」
「いいって、何が」

そんなこと、聞かなくても予想できた。それにイルミの目的はそれだったはずだ。

ウルに諦めさせること。結果的にあの女の行動は功を奏したとみていいだろう。けれどもイルミの中の何かがウルが諦めないでいてくれたらいいと思っていた。彼女が何か別のことをいえばいいと思った。

「私、イルミにお祝い言ってなかったよね……結婚、おめでとう」
「……」
「そうだ、これ、盗品で悪いんだけど、きっとリーシャさんなら知ってると思うからあげるね」

告げられたおめでとうに、ありがとうなんて返せない。返したくない。固まるイルミに気がつきもしないで、ウルは何やら小さな箱を取り出すとイルミに渡す。

「きっともうちゃんとしたの買ってあると思うんだけど、これ有名な物なの。嵌めた二人を永遠に幸せにするって、そんな不思議な力があるんだよ」

箱の中身は対になった指輪。うっすらと念の気配を感じることから、彼女のいう言葉はあながちジンクスというわけでもないのだろう。盗品ということは、蜘蛛のところで手に入れたものか。
イルミは複雑な思いでそれを見つめ、ややあって箱を彼女に突き返した。

「こんなのいらない」
「やっぱ、盗品を人にあげるのって失礼だよね」
「ていうか念がかかったものなんて得体が知れないよ。どうしてもって言うならウルが使えばいいだろ」
「はは……一人で二つとも嵌めろっていうの?イルミは相変わらず酷いなぁ」
「……キルがいるでしょ」
「……」

ウルは困ったような笑みを浮かべただけで肯定も否定もしなかった。今までならすぐに否定していた彼女が、今回は否定をしなかったのだ。そしてその話はしたくないとばかりに「そうだ、ヒソカのこと忘れてた」と彼女は話題を変えた。

「先に部屋で待っててって言ったのに、来てみたらいなかったの」
「ヒソカなら帰ったよ」
「え?」
「ま、そもそもオレは呼んでないしね」
「そうなの?」

ちょっと驚いた顔になったウルは、どうやら”ヒソカはイルミの友達”という、例の下らない嘘を信じていたらしい。イルミはここにいないピエロのことを忌々しく思ったが、連絡先聞いとけばよかった、という彼女の呟きにぴくりと眉を反応させた。

「ヒソカとなんか関わらないでいいよ」
「あ、イルミに聞けばいいんだった。知り合いなのは間違いないんだよね」
「まぁね。でも教えないよ、必要ないし」
「そうかな……あのね、イルミ。私、暗殺者辞めるよ」

「は?」

短く、そして低く発せられたそれは、決して疑問の色を含んだものではなかった。突然何を言い出すのだという苛立ちがたった一言に集約されて、容赦なくウルに投げかけられる。けれどもウルは怯むことなく、じっとイルミの黒い瞳を見つめ返した。

「……なに馬鹿なこと言ってんの」
「うん、両親は怒ると思う」
「オレも怒ってるよ、ウルが暗殺者辞めるなんて許すはずないだろ」
「なんで?」
「は?」
「なんで、イルミの許しを得なくちゃいけないの」

「それは……」

確かに、これを言ったのがキルアなら─実際、キルアは似たようなことを言ったが─イルミはゾルディック家の長男として、兄として、それを止めることができる。が、ウルに対してはどうだろう。彼女は所詮幼なじみでしかなく、今はまだゾルディック家の者でもない。ウルが言ったように、彼女の決意を否定できるのは彼女の両親だけなのである。
そのことに今更ながら気づかされたイルミは、一瞬言葉を失った。そしてその隙に、ウルはイルミが次に言おうとした言葉を先回りして封じた。

「キルアとの婚約は前に破棄したから、問題ないよね」
「……ある、オレはそんなの」
「イルミに認めてもらわなくたっていい。だってこれは私とキルアの問題だもん」
「っ……今更暗殺者を辞めてどうしようっていうのさ」
「別に決めてないよ。でももう暗殺者に拘る理由はなくなったし」

ウルはなんでもないことのようにそう言って、箱から指輪を取り出すと手のひらの上で弄び始めた。それを見ながら、イルミはどうウルを説得しようか考える。キルアなら少し殺気を向けてやればよかったが、ウル相手だとそうもいかない。彼女だってれっきとした念能力者であるし、下手に脅せば余計に反発するのが目に見えている。
そうなると否が応でも、イルミは彼女の想いに向き合わなければならなかった。それを逆手に取ってウルを引き留めるしかなかった。

「ウル、おめでとうなんて言っておきながら随分と酷いことをするんだね」
「……どういう意味?」
「オレへのあてつけなんでしょ。オレが、ウルにはキルと結婚してほしいって思ってるの知ってるくせに」
「……イルミだって、私の気持ち知ってるくせにあんな招待状寄越したじゃない。知らないほうがよかったよ」
「それはウルに戻ってきてほしいからだろ」
「でもそれだって、キルアの婚約者として、でしょ」
「そうだよ。オレのことが"ほんとに好きなら"、オレの頼みくらい聞いてよ」


「ずるい……」

ウルはぽつりと、泣き出しそうな顔をして呟いた。言ったイルミですらもそう思った。
しかしもはやウルを引き留めるにはこうするしかなかったのだ。ウルの気持ちが本物だからこそ、ウルがまっすぐな性格をしているからこそ、イルミがそう言えばウルに逃げ道はない。ウルの家族でないイルミは彼女を縛る権利を持たなかったが、彼女を縛る手段だけは持っていた。

「ウルがキルと結婚すれば、また三人で前のように一緒にいられるよ。ウルの両親だってそのほうが喜ぶ。家の情勢、よくはないんでしょ?」
「……最低だよ、イルミ」
「全部本当のことだろ」
「っ、そうだけど、でも!」

そこまで言ってウルは両の目からはらはらと涙を流した。それから手で顔を覆ったかと思うと、声を殺して泣き始めた。

「……なんで、なんで私はイルミなんか好きになっちゃったんだろう……!」
「……」

ほんとうだよ、とイルミは心の中で呟いた。本当に、どうしてウルはここまで好きでいてくれるんだろう。最低だと言った彼女の言葉は間違っていない。

だが、ウルが怒って出て行かなかった時点で、どんなに最低だとしてもイルミの勝ちは明白だった。

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