- ナノ -

■ 34.正直者の弁解

来た道を走って引き返す途中、正面からキキョウがこちらにやって来るのが見えた。おそらく自らヒソカに挨拶でもと考えたのだろう。先手を打っておいてよかったと思わざるを得ないが、今は正直それどころじゃない。あらあらイルミ!廊下を走ったりなんかして!と甲高い声があがり、いつものマシンガントークが始まりそうだったので、イルミは早口でそれを遮った。

「っ、ねぇ、ウルは?」
「えっ?ウルさん?さぁねぇ、先ほどご両親は帰られたけど、今は自室にでもいるんじゃないかしら。きっと叱られたのがよっぽどこたえたんだわ、すごく暗い表情をしてて、いつも元気なウルさんが暗いとなんだか可哀想になってくるのよ。親の立場になると、心配だったっていうのもよくわかるんだけれど……」
「そ、部屋ね、ありがと」
「あ、ちょっと、イルったら!ウルさんもだけどあなたのお友達はどうしたの!!!」

これ以上聞いていたらまた長くなるに決まっている。イルミは必要な情報を得ると、キキョウを置いて走りだした。暗い表情というのが気になるが、部屋にいるならそれでいい。あとはそれをこの目で確認するだけだ。

だが、ウルの部屋の前に着いたイルミは、扉に手をかけるのを少しためらった。いざとなると会いづらいというのもある。しかしそれだけでなく、部屋の中の気配が二つだったからだ。そしてひとつは紛れもなく”あの女”のもので、どうしてウルのところに……と思わざるを得ない。あの女がいれば、イルミはまた下らない演技をせねばならなかった。それは今のイルミにとって苦痛以外の何物でもない。

一度引き返そうか。ウルはちゃんと部屋にいるようだし。

そう思ってイルミが踵を返そうとした瞬間、ガラスの割れる音と悲鳴。驚いて振り返れば、「何をするのっ!?」非難の色が多分に含まれた、あの女の声が聞こえて来た。

「なにしてるの」

そうなれば流石にイルミも無視はできない。何かがあったことは明白だ。結局ノックもせずに扉を開ければ、床に座り込んでいる女とびっくりした顔でこちらを見るウル。床には割れた写真立てが散乱していて、女は腕を少し切っていた。そしてイルミの姿を見るなり、抱き着いてきた。

「聞いてちょうだい、あの子、私に向かって物を投げたの」

こちらを向いている女の顔は、おそらくウルからは見えていない。だからこそ、彼女は突然の女の言葉に驚き、狼狽し、否定の言葉を紡ごうとする。が、わざわざそんなことをしなくてもイルミは女の言ったことが嘘であるとわかっていた。なぜならそう言った女の顔は意地悪く笑っていて、さぁ私を庇いなさいと勝ち誇っていたからだ。どうやらイルミがウルの手前、良い夫を演じなければならないとわかっているらしい。つまり女の目的はウルを悪者に仕立て上げることではなく、わざとイルミに女を庇わせ、ウルとイルミを苦しめることなのだ。だが、それがわかっていてもなお、イルミは女を庇い、ウルを責めなければならなかった。そうしないと、今までやってきたことがすべて無駄になる。

「ち、違う、私、物なんて投げてない!その人が自分で……!」

そんなことはわかっている。わかっているが、そう言ってやれない。
黙ったままのイルミに、ウルは疑われていると思ったのかさらに慌てて言葉を重ねた。

「私そんなことしないよ、本当だよ」
「嘘つき!あなた、私が羨ましいんでしょう!知ってるのよ、あなたが彼を好きだってことくらい。だから彼に選ばれた私が憎かったんでしょう!」
「そんな!違うの、イルミ信じて!」

女の言葉に、ウルはふるふると首を振った。「好きだけど、でも、そんなことしないよ」いつまでたっても馬鹿正直なのは治らないらしい。イルミは女に腹が立つやら、自分が情けないやらで小さく溜息を漏らした。その僅かな仕草にもウルは肩を跳ねさせ、すがるようにイルミを見る。

「……ウルさ、いつまでも子供みたいなことしないでくれる?」
「っ……!ほんとうよ、嘘じゃない!」
「でも普通に考えて、自分で自分に写真立てを投げる奴がいると思う?そんなことして何のメリットがあるのさ」
「それは……わかんないけど、でも!」
「言い訳は聞きたくない。式が近いのに、傷が残ったらどうしてくれるの」
「イルミ、なんで……なんで信じてくれないの」

悔しさに顔を歪めて、それでも泣くまいとしているウルをイルミは冷たく見据えた。いや、実際には何も考えないようにしていた。そうでもしないと、イルミも壊れてしまいそうだった。

「イルミから見て、私はそんな卑怯なことする奴だって思われてるの!?」
「……さあね、ウルは後先考えないから、何するかわからないだろ。ヒソカから聞いたよ、オレの妻を殺すとかなんとか言ってたそうだね」
「そ、そんなこと言ってない!いや、ヒソカがそうしたらって言ったけど、やっぱりそんなことできないよ、だって……」

─だってその人は、イルミの大事な人なんでしょ……。

そう言ったウルの声は可哀想なほどに震えていた。怒りと悔しさと絶望と。正直だからこそ、隠さない感情がその声音に乗せられる。対してイルミの声はというと、むしろいつも以上に冷ややかで、どこまでいっても無機質だった。

「もういいよウル、じゃあ事故ってことにしておいてあげる」
「そんな言い方っ……!待ってよイルミの馬鹿!聞いてよ!聞いてったら……!」

たぶんもう、ウルは泣くだろう。イルミはそれを見たくなくて、女の腕を取ると背を向けて部屋を出で行こうとした。手にぬるりと生暖かい感触。ガラスで切った傷口の上を強く握りしめると女の顔が苦痛に歪んだが、今ウルはもっと苦しんでいる。イルミはこの女を殺してしまいたい衝動に駆られて、それを抑えるだけでも精いっぱいだった。「ほら、行くよ」絶対に許さない。それでも挑発的に見返してくる女。その瞳の中にほの暗い憎しみの影を認めた時、ウルがひときわ大きい声をあげた。

「そ、そうだ、イルミ、私のことは信じられなくても、私の技術は信じられるでしょ!?私が本気でリーシャさんを殺そうとしたなら、ちゃんと一撃でしとめるよ!ね?だから、」
「……」

一体何を言い出すのだ、と思わずイルミも女も振り返ってウルをまじまじと見る。それでも彼女は信じてもらうことで頭がいっぱいなのか、迷うことなく女を指さした。

「私が本気ならもう死んでるよ、彼女」

それが無実を証明しようとする人間の言う言葉だろうか。だが、ウルは何も間違ったことは言っていない。ウルの実力ならばたとえ同業のこの女でも容易く殺すことができるだろう。

「馬鹿じゃないの……」

イルミは呟いて、力なく笑った。ほんとに、ウルって馬鹿。可笑しさと愛しさがこみ上げて来て、泣きたい気分なのに口元に弧を作る。笑い出したイルミに女はぎょっとし、ウルはそれでもまだ不安そうにこちらを見ていた。

「次にこんなくだらない騒ぎ起こしたら、怒るから」
「イルミ……!」
「違う、ウルじゃない」

─お前だよ

そう言って掴んだ腕に思いきり爪を立てると、女はさっと青ざめ、震える声でごめんなさいと言った。それを見て、ウルの表情がようやく和らぐ。

本当ならもっと徹底してウルを信じないふりをしなければならなかったのだろう。イルミは苦々しい思いを抱えながらも、また一方でどこかほっとしていた。

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