- ナノ -

■ 32.憎しみの矛先

ゾルディック家の壁は厚く、普通にしていれば隣の部屋の話し声など聞こえない。
だが、本日二度目となる大きな扉の開閉音に、リーシャはまた何かあったのかと耳を澄ませた。

『……っ、ウルはっ!?』

聞こえてきたのは、まだ声変わりをしていない少年の声。イルミには弟がたくさんいるから、そのうちの誰かだろう。彼らはまだ幼いのに訓練に忙しく、リーシャもまだ一、二回ほどしか顔を合わせたことがない。そして彼らもまた、兄の妻となる人間に積極的に関わろうとはしてこなかった。

少年の問いかけに、何やらイルミが返事をしたようだ。こちらは声が小さく聞き取りにくいが、少しの間があってまた少年の声が聞こえる。

『まだそんなこと言ってんのかよ!そんなことのために……ウルも、自分も傷つけて何の意味があるんだよ!』

どうやら揉めているらしい。もっとも、怒っているのはもっぱら少年の方であって、イルミはきっといつものように涼しい顔をしているのだろう。だが、話に出て来たウルというのが先ほど引き合わされた少女のことであるとわかると、リーシャはこの会話が重要なものであると直感的に悟った。

というのも、ウルに会わされた時のイルミの様子が、リーシャにとって違和感だらけのものだったからだ。今までのイルミだったら婚約者をあんなふうに紹介したりしないだろう。たとえそれが幼なじみと仕事の知り合いでも、率先して見せつけるように手を繋いだりなんてしない。それはイルミが恥ずかしがり屋だからではなく、そもそもリーシャのことを愛していないからだ。そしてまた、ウルのほうも随分と様子がおかしかった。結婚式に招待されたくらいなのだから、イルミが結婚することは知っていたはずである。それなのに今にも泣きそうな顔をして……あれはきっとイルミのことが好きだったのだろう。

リーシャはすっと壁際によると、恐る恐る耳を付けた。はしたないがこの際構わない。そんなことよりも今は、話の続きのほうが大事である。リーシャも暗殺者の端くれとして、人並み以上の聴覚を持っていた。

『何度も言ってるだろう?キルはうちを継ぐんだ、その相手としてウルの才能は申し分無い。優れた遺伝子は次世代に繋いでいく必要がある』
『皆が不幸にしかならねーのに、繋いだってしょうがねーだろ!こんな家クソくらえだ、俺は暗殺家業なんて、』
『キル、言葉が過ぎるよ』

会話の内容で、あぁ、この少年はこの家の跡継ぎである三男キルアなのだとわかった。そしてウルという少女が彼の婚約者だったはず。だが、それなら二人は何を揉めているのか。キルアは婚約者の存在が気にいらないのか。
確かにキルアの年では親から決められた相手など反発したくなっても仕方がないのかもしれない。しかしリーシャの予想は外れたばかりでなく、耳に飛び込んできた会話は信じられない物だった。

『キルはウルのことが好きなんでしょ?隠したって無駄だよ、オレにわからないとでも思ってたの?』
『……イル兄だって……ウルのこと、』
『好きだよ、だからキルになら譲ってもいい』

あの男は今、何と言った。
イルミが、あの少女を、弟の婚約者であるウルのことが好き……?

リーシャは、驚いてばっと壁から離れる。これは聞いてはいけないことだった。でも、なんで、どうして……?

リーシャは別にイルミのことが好きなわけではないから、今更傷ついたりなんてしない。が、もし今聞いたことが本当なら、本当にリーシャはただ利用されているだけだ。

つまり、二人は両想いだが、どういう決め方かウルは弟の婚約者に決まってしまった。跡継ぎは弟の方であるから、政略結婚として何らかの取り決めがあったのかもしれない。

そこまで考えて、リーシャは何もかも腑に落ちたような気がした。イルミがこの結婚に求めるものは決別だ。彼はウルへの想いに終止符を打つため、彼女を諦めさせるために、リーシャを利用したのだ。種明かしされてみれば、なんとくだらない理由だろう。

リーシャはなんだかおかしくなってしまって、気がつくとふふ、と声に出して笑っていた。とんだ茶番に巻き込まれたものだ。だがこれはフリでもなく正式な結婚。あの男の都合で、リーシャは一度しかない人生を棒に振り、無意味で肩身の狭い一生を送らねばならない。

いつの間にか、口元に浮かんだ笑みは消え去っていた。その代わりに胸の中で、イルミに対する憎しみと、ウル対する嫉妬が、どろどろに混じりあって渦巻いていた。





「なんだ……キルアいないじゃん」

ヒソカにはああ言った手前、気は乗らないがキルアに会いに行くしかない。
そう思ってわざわざ遠回りをしつつ、のろい歩を進めてキルアの部屋を訪れたウルだったが、肝心の部屋の主はここにはいないようだ。実際、顔を合わせたところで何と言えばいいのかわからなかったし、おそらくキルアも勝手に出て行ったウルに対して怒るだろう。

怒られるのは仕方がないにしても、今は勘弁してほしかった。そんな心の余裕も、反省するだけの思考力も、今はない。だから空っぽの部屋を見て、ウルは無意識のうちに安堵の溜息をついていた。

「ウル、」

しかし、息をつけたのはそこまで。名前を呼ばれ、緩慢な動作で首を動かせばそこにはイルミ。いつもならその声を聞いただけで笑顔になったが、今は彼に名前を呼ばれてもちっとも嬉しいとは思えず、それどころか胸がきゅっと締め付けられた。

「……」
「言うの忘れてたよ、キルはしばらく訓練室だから」
「……そう」

今、ではなくしばらく、ということは食か睡眠を絶つ訓練でもしているのだろうか。あれは連続で数日にわたって行われるから、それならここで待っていたって仕方がない。経験があるウルはそれを聞くと、特にそれ以上は詮索しなかった。興味がなかったというのも正直な話である。いつもはうるさいくらいに話すウルが黙っていれば、必然的に二人の間には沈黙が流れた。

「そうだ、ウル、刺青」
「……え?」

すると珍しいこともあるようで、先に沈黙を破ったのはイルミだった。唐突に手を叩き、刺青なんて言うからウルには何のことだかわからない。だがイルミの手がすっと伸びてきて、彼の冷たい手が首筋に触れた途端、ウルはハッとして身を引いた。

「っ、なに?」
「あぁ、もう消したんだ?腕のいい医者に頼んだね、全然わからないよ」
「だ、だからなんのこと……?」

イルミの話す中身が全く理解できないが、それよりも今は触れられたところが熱い。今更ながら屈みこむようにしてこちらの首筋を覗くイルミに、戸惑いと羞恥が一気に身体中を駆け巡った。

「蜘蛛の刺青だよ。抜ける時に面倒なかった?」
「蜘蛛……?私、一緒にいたけど入ってなんかないよ」
「そんなはずない、オレは見たよ。確かここに……」
「っ、触らないで」

自分ではそこまで力を入れたつもりは無かったが、ぱしり、と乾いた音がした。イルミは驚いたように目を見開き、それからたった今払われた自分の右手に視線を落とす。何か言わなくちゃ。そう思ったが上手く言葉が出ない。弁解すればいいのかイルミを責めればいいのかもよくわからない。ただ、触らないでほしいと思った。他に大事な人がいるくせに、そうやって優しく触れないで欲しいと思った。

「ウル……?」
「っ、ごめん、私、部屋に戻る」
「ちょっ、ウル、」

イルミが伸ばした手をするりとかわして、ウルはその場から逃げ出した。そんな自分の行動にいつまでたっても子供だ、と情けなくなる。イルミの幸せを喜ばなくちゃいけないのに、あんな態度をとってしまった自分が憎い。

そしてそんな二人のやり取りも、去っていくウルに呆然と立ち尽くすしかないイルミのことも、リーシャはしっかりと見ていたのだった。

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