■ 31.八つ当たり
あんなものを見せられて、結婚しないでなんて言えるはずがない。
ウルはしばらく呆然と立ち尽くしていたが、やがてのろのろと重い足取りで来た道を引き返し始める。すると後ろを付いてきたヒソカが、ウル、と控えめに呼びかけた。
「……もういい」
「よくないよ、あれはおかしい
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イルミはあの女の名前を呼んだかい
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?」
「そんなのどうでもいい。綺麗な人だった。お似合いだと思う」
「ボクはそう思わない
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」
「ヒソカが思ったって意味ないよ。選ぶのはイルミだもん」
八つ当たりなのはわかっている。でも、期待を持たせようとするヒソカが憎い。やっぱりこんなところに来なければよかったと思わずにはいられなくて、ウルは少し歩調を早めた。
「ウル、諦めるのかい
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?」
「……」
「ウル、」
「ごめんヒソカ、私、キルアに会いにいくから私の部屋で待ってて」
それはつまり、付いてくるなということ。今はヒソカの慰めも励ましも煩わしいだけなのだ。部屋の場所を半ば強引に説明したウルの強い態度に、ようやくヒソカも悟ったのか後ろをついてくる気配はなくなった。すると間もなく、意思に反して足は止まってしまう。
「諦めるもなにも……どうしようもないじゃん……」
結局そうやって無理矢理手に入れた一人の世界は、どこまでも酷く虚しいものだった。
※
「えっ、ウルが!?」
その日、訓練のため地下室にいたキルアは執事の告げた言葉に耳を疑った。
「まじかよ、じゃあこんなことしてる場合じゃねーって!」
ウルが戻ってきたというのに、呑気に電気なんて浴びてる場合ではない。拘束具を引きちぎったキルアは慌てて彼女を探しに向かった。場所なんて聞かなくてもわかってる、どうせイルミのところだ。
「ウルっ!」
いつもは怖くて近寄らない兄の部屋だが、今はそんなこと頭になかった。勢い良く扉を開けば、部屋の中にいたイルミがこちらを向く。無表情の中に僅かな不機嫌さを滲ませて、キルアを射るように見た。
「…っ、ウルはっ!?」
向けられた眼差しに一瞬怯みそうになるが、それよりもキルアはウルがいないことに驚いた。てっきりここだとばかり思っていたので、この勢いを自分でも持て余している。動揺するキルアとは対照的に、イルミはひたすらに静かだった。
「さっきまでいたよ、けどお前に会いに行ったんじゃないの」
「俺に……?待てよ、もうイル兄に会ったってことは、結婚のこと、知ってるのか?」
キルアだってこの結婚がウルを諦めさせるためだということくらいわかっている。だが同時に、自分ではイルミを止めることができないということも。
キルアから見て、イルミの意思は異常なほどまでに固かった。それこそイルミ自身、幸せになってはいけないのだと思い込んでいるかのようだった。
「知ってるも何も、オレが呼んだんだよ。ウルは一応オレの義妹になるし、結婚式には来て欲しくてね」
「まだそんなこと言ってんのかよ!そんなことのために……ウルも、自分も傷つけて何の意味があるんだよ!」
「意味はある」
イルミはぽつりと、それでいてしっかり聞こえる声で言った。その気迫にのまれて、キルアは一瞬言葉を失う。「オレは意味のないことなんてしないよ」気がつくと、イルミはゆっくりこちらに近づいてきていた。
「何度も言ってるだろう?キルはうちを継ぐんだ、その相手としてウルの才能は申し分無い。優れた遺伝子は次世代に繋いでいく必要がある」
「み、皆が不幸にしかならねーのに、繋いだってしょうがねーだろ!こんな家クソくらえだ、俺は暗殺家業なんて、」
「キル、言葉が過ぎるよ」
たった一言ぶつけられただけで、息が止まる。足が震え、寒気がした。目には見えない圧迫感がキルアを押しつぶそうとする。冷や汗が流れ、頭のどこかで警鐘が鳴った。イルミを怒らせるのは得策ではない。兄貴には勝てない。それは誰よりもキルアが一番よくわかっていることだった。
「キルはウルのことが好きなんでしょ?隠したって無駄だよ、オレにわからないとでも思ってたの?」
「……イル兄だって……ウルのこと、」
「好きだよ、だからキルになら譲ってもいい」
「は、意味わかんねーよ……」
言ってることが滅茶苦茶だ。だが、今は返事を返すので精一杯。イルミから発せられる圧迫感は今だ消えること無く、キルアを苛み続けている。
兄貴は怒ってるんだ。でもこれは八つ当たりだ。兄貴も本当はまだ諦めきれてないんだろう。
そう思うと、いつも恐ろしい兄が少しだけ憐れに思えた。だからキルアは勇気を振り絞って、震える足を叱咤して、真っ直ぐにイルミを見上げた。
「ウルと俺を結婚させようとしたって、無駄だ……俺はいつかこんな家出ていく。だからそんなにこの家が好きなら、イル兄がウルと結婚してこの家にいればいいだろ!」
「そんなことさせるわけないだろ、キルは出ていかせない」
「……じゃあウルがまた出ていくだろうな!もしかしたらあいつは馬鹿だから、死を選ぶかもしれない、そうなったら責任とれんのかよ!」
死、と言う言葉に、僅かにイルミの眉が動いた。もちろん、キルアの言葉にはなんの根拠もないし、死なんて暗殺者にとって聞きなれた単語でしかない。だが、ウルのこととなると話は別なのだ。心無しか圧迫感が弱まったような気がして、キルアは畳み掛けるように叫んだ。
「ウルが死んだら、俺はイル兄のことを一生許さない。イ、イル兄よりも強くなって、こんな家いつか出てってやる!そうなったら、兄貴の計画は全部パーだ!」
「……」
イルミに対して啖呵を切ったのはこれが初めてだった。言ってしまってすっきりした思いと、後からじわじわはい上がってくる恐怖。が、予想に反してイルミは何も言わなかった。驚いているのか考えているのか、とにかくじっと床の一点を見つめている。キルアはすうっ、と息を吸うと、言うだけ言って踵を返した。最初の数歩は足がもつれたが、それでも懸命に足を動かす。
どくどくという心臓の音だけが、煩く身体中に響いていた。初め、小走りだった足の回転は次第に増し、走って、走って、もうここまでくれば大丈夫だろう。そう思って息を吐いた瞬間、ぐい、と後ろから襟首を掴まれる。
「っ……!」
一瞬にして全身が強ばった。兄貴には勝てない。ぎこちなく振り向けば、底の無い黒い瞳と視線がかち合う。
「忘れてたよ、キルには今ウルと会われちゃまずいんだよね」
確かにこの結婚の真の狙いを、キルアがウルに伝えてしまっては意味がなかった。イルミがあの女を愛していないのだと分かれば、ウルは再びごねるだろう。「は、離せよ!」抵抗するがそんなものは虚しい。キルアを引きずるようにして歩き出したイルミは、確実に地下室へと向かっていた。
「それにあの変態にも会わせたくないし……ミルはいいとして、カルにも言っておかなくちゃ」
「な、なぁイル兄、俺をどうするつもりだよ」
「別に何もしないけど。ただちょっと、しばらく訓練中ってことにしておいてよ」
「おいっ!」
声をあげようとすれば、手で口を押えられた。「もちろん式にはキルも出てもらうからさ、ね、わかるでしょ」何がだ、何をわかれと言うのだろう。暴れるキルアをものともせず、イルミはずんずん階段を下りていく。そして一番奥の訓練室の扉を開くと、無造作にキルアの身体を離した。あぁ、ここは。
「ちょ、待っ、」
「大丈夫、ウルはキルと結婚するよ。それを考えればこのくらいのこと、我慢できるでしょ」
「なぁ、イル兄!待てよ!」
追いすがろうとしたが、刺すような視線にまた足が竦んだ。その隙に扉は閉ざされる。地下室のひんやりとした空気がキルアの肌を粟立たせた。
「いい子にしててね、キル」
地下室の一番奥は不思議な部屋になっていた。
試しの門を開けられるキルアですら、力技では開けられない扉。なにか目には見えない力が働いていると言ってもいい。
遠ざかっていく足音に、キルアは静かにうなだれた。
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