- ナノ -

■ 30.流血する心

あの男のことは、別に好きというわけではない。
ただ自分の家と比べるとはるかに格上で、なおかつ実力も金もあり、見た目だけならそう悪くなかった、それだけのことだ。
それなりの暗殺一家に生まれた以上は結婚に自由なんてものは無いし、条件だけ見れば恵まれているのだとすら思う。だが、それでもリーシャは気に入らなかった。

「イルミ様、」
「……あぁ、来てたの」

無表情なのは初めて会ったときからそうだが、それにしても冷たい目をする。愛がないからと言えばそうなのかもしれないが、それにしたってこれから生涯を共にする相手だ。少しくらい歩み寄りを見せたっていいのではないだろうか。リーシャは内に秘めた不満を隠すように笑みを貼りつけると、式のことなのですが……と口を開いた。

「そういうの、執事か母さんに聞いてよ。オレに聞かれてわからないし」
「でも、私達の結婚ですよ。なんでもかんでも人任せというわけには」
「いいよ、じゃあお前の好きにして」

素っ気ないだけならばまだしも、目の前のイルミは面倒だと言わんばかりに手を振った。その仕草はまるで犬か何かを追い払うようで、流石にリーシャもムッとする。
確かにゾルディック家にとって、リーシャとの結婚にそこまでの利はない。この程度の家柄ならば代わりはいくらだっているだろう。だがそれにしたって選んだのはイルミだ、どうしてこんな扱いを受けなければならないのか。そう思った時には、疑問が口をついて出ていた。

「……イルミ様は、どうして私を選んだのですか」

本当の恋人ならば、それは甘い質問だっただろう。だがリーシャにとってはそれ以上でもそれ以下でもなく、ただの純粋な、憤りすら混じった疑問である。そしてその怒りが言葉の端に表れていたのか、イルミはどこか侮蔑に近いような眼差しをこちらに向けた。

「それを聞いて何になるの」
「聞くことも許されないのですか」
「きっとお前が望む答えは言えないからね。あぁ、でも結婚をやめたいなんて言わないでよ、今から新しいのを探してたんじゃ間に合わないから」
「……」

望む答えどころか一番望まない答えを言われ、リーシャは悔しさに唇を噛みしめた。この男は好きでない。好きではないが今更結婚をやめるなんてこと、周りが許さないだろう。
しかし悔しさの一方で、間に合わないという言葉も引っかかった。イルミはこの結婚に別の価値を見出している。それがわかればこの男の弱味を掴めるかもしれない。

リーシャは小さく一礼すると、足早にその場を去った。気が付けば結婚式まであと三日だ。
それでも名前を呼ばれたことは、まだない。




ウルが到着した、という知らせは既に執事から伝わっていた。何も知らないキキョウは喜び、慌ててウルの両親に知らせていたが、すべてを知るイルミはただ自室でいつもと変わらぬように過ごすだけ。最近は結婚を控えているからと仕事を減らされ、退屈な日々が続いていた。イルミが自分から相手を選んだのは初めてのことで、それが余計にキキョウを喜ばせたのだろう。急なこととはいえ、少しでも一緒に過ごしてみたほうがいいわ、とゾルディック家にあの女の部屋を用意するはめにまでなった。

が、実際、あの女がここに住んでくれる分には都合がいい。ウルのことだ、式当日にごねる可能性がある。それならば結婚式よりも先にあの女と会わせておいて、しっかり二人の仲を見せつけなければならない。

しかし口で言うのは簡単だったが、実際行動するとなれば難しい。先ほどあの女に問われ、答えたように、イルミの想いは全くあの女になかったからだ。そして女もまたイルミのことを快くは思っていないようである。必死で隠してはいるものの、彼女の瞳に不満の影がちらつくのは何回も見た。まぁ、イルミは媚びられるよりは面倒でなくていい、くらいにしか考えてはいなかったが。

やがて、隠しもしないオーラの塊がこちらに向かってくるのが感じられた。言わずもがなウルだ。一直線に、誰よりも先に自分に会いに来る彼女のことを思うと、嬉しいのか悲しいのかわからない。ただイルミは気を引き締めなおすと、扉が乱暴に開けられる瞬間を待っていた。

「イルミっ!!」

果たしてウルはイルミの想像通りに現れ、彼女が何も変わっていないのだということがよくわかった。ひとつ気に入らないのはウルと一緒にヒソカまで来ていることだが、それもまぁ予想していなかったわけではない。人の名前を呼ぶだけ呼んでそこから何も言わないウルに、イルミはわざと首を傾げてみせた。

「……なに?」
「イルミが、その、結婚するって聞いて……それで……」
「聞いたんじゃない、オレが教えたんでしょ。祝いに来てくれたんだ?」
「わ、私は……」

祝う、という言葉にウルは泣きそうな顔になる。わかっていた、ウルは自分の気持ちに嘘をついておめでとうなんて言えるほど、殊勝でもなければずるくもない。だがイルミだって別にウルに心の底から祝ってもらう必要はなかった。

「そうだ、紹介しないとね、ウルの義理の姉になるわけでもあるんだし」

要は諦めさせればいい。イルミは固まっているウルの隣をすり抜け、廊下へと出る。幸いにもあの女の部屋は隣だ。おそらく自室にいるだろう。探るようなヒソカの視線も無視して、イルミはノックもなしに部屋の扉を開いた。

「ねぇ、ちょっと、」
「っ!なんですか?」

扉を開ければ、案の定女は中にいた。声をかけられたことに心底驚いたようで、心なしか顔色が悪い。イルミはずかずか部屋に入っていくと、困惑した表情の女の腕を掴んで廊下へと引っ張り出した。

「紹介するよ、これが……そう、結婚する相手」

イルミを追って廊下に出てきていたウルに、女を引き合わせる。イルミは彼女を紹介しようとしたが、肝心の名前を思い出せなかった。そしてそれを誤魔化すように、今度はウル達のことを女に紹介した。

「こっちは幼なじみのウル。弟と結婚する予定だから、義理の妹になるんじゃない?で、あのピエロは仕事関係の知り合い」

そこまで言い終わっても、誰も何も言わない。ウルは食い入るように女を見つめているし、女も女で突然のことに戸惑っている。が、やがて女の方が、自分できちんと名乗った。

「初めまして、リーシャと申します。いつも夫がお世話になっております」

さらりと夫だと言った彼女に、やればできるじゃないか、と心の中で称賛する。泣き出しそうだったウルは今や青ざめていて痛々しいくらいだ。それを見たイルミはとどめを刺すように、ぱっと女の手を取って握った。

「じゃ、一応紹介したから。ウルも早くキルに会いに行ってあげなよ」

そのまま来た時と同じように女の手を引き、女の部屋に向かう。閉まった扉の向こう側でウルはどんな思いでいるのだろう。辛いだろうか、それとももう諦めてキルアに会いに行くのだろうか。

「イルミ、様……?」
「ちょっと黙ってよ」

傷ついたのは何もウルだけではなかった。

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