- ナノ -

■ 16.含み笑い

どこからともなく聞こえる水音に、失っていた意識はだんだんと戻ってくる。
薄目を開けて周囲を確認したウルは見慣れた家具の配置に少し安心しかけたが、ふと気が付いた。ここは自分の部屋ではない。
選手用に与えられた個室はどこも似通ったつくりになっているため間違いかけたけれど、よく見れば自分の私物以外の物があるし、何よりこの水音はバスルームの方から聞こえてきている。

慌てて身を起こしたウルは、ほとんど無意識のうちに息を潜めた。寝かされていたのはベッド。服は試合の時のままだが、何本か肋骨が折れている。左手で脇腹を押さえつつ、足音を立てないようにしてベッドを降りたウルは、緊張しながらバスルームの方へと向かった。

「……ヒソカさん?」

流石に脱衣所を開ける勇気はないが、状況を考えて中にいるのは彼しか考えられない。試合が終わった後、情けなくも倒れてしまったウルをわざわざ運んでくれたのだろう。あの時は必死だったとはいえ彼の腕を壊してしまったので、たいそう不便に違いなかった。

「あ、あの、運んでくれてありがとうございます!」

扉の前で声を張れば、きゅ、とシャワーコックの閉まる音がする。「ウル、気が付いたんだね」それだけならまだしも、浴室から出てくる気配がしてウルは焦った。

「は、はい!私は大丈夫です、ですからあの、もう戻り……」
「まぁ、そう焦るなよ

がら、と扉が開いて、あっと思った時にはもう目と目が合っていた。濡れた前髪から覗く切れ長の目が、こちらの動揺を見透かすように細められる。ウルはなるべく顔から視線を逸らさないようにして、ぱくぱくと口を動かすしかなかった。

「……あ、あ…」
「その様子じゃ、『例の男』ともそう深い仲じゃないんだねぇ
「あ、あの……」
「なんだい?ちゃんとタオルは巻いてるだろう?」

確かに、彼は全裸というわけではなかった。だからと言って部屋に女性がいるとわかったうえでその格好はないだろうと思うが、とりあえずウルが固まっている理由はそれだけではない。

「か、確認しますけどヒソカさん……?」

いつでも逃げられるように身体を引いて、ウルは早口でそう問う。確認が取れない以上は油断できない。つまりは『敵』かもしれない相手から目を反らすことはできないわけで、ウルは真っ赤になりながらも耐えるしかなかったのだった。

「あぁ……ボクだよ、ヒソカ
「信じていいんですか」

「なんでも信じる素直なキミにそう言わせるって、ある意味ボクすごいよねぇ

ヒソカは警戒されることに慣れているのか、無事なほうの片手で前髪をかきあげて見せる。それを見てようやく納得したウルは、今度こそ背を向けて、服を着てくださいと小さな声で言った。

「ウブな反応も可愛いと思うよ

「……腕のほうは大丈夫なんですか?」
「うーん、少しかかりそうだけど大丈夫

ヒソカが服を着終わった気配がしたので、ウルはようやく振り返る。見れば見るほど先ほどのピエロとはかけ離れていて、こうしているとただの美青年にしか見えなかった。

「惚れ直したかい?」
「え、いや、元々惚れてはいませんが……」

「いい加減その堅苦しい敬語はやめなよ、さん付けもいらない
ボクたちはもうそう浅くない仲じゃないか

意味深な言い方になんと返事をしようか戸惑っていると、互いに拳を交えた仲ね、とヒソカはウインクして付け加えた。
なるほど、そういうことならとウルは頷いて、ややあってから彼に聞きたかったことがあるのを思い出した。

「……じゃあ、遠慮なく。
さっきの試合だけど、負けた方はなんでも言う事を聞くってあれ……私は何をすればいいの?」

「あぁ、あれね
そうだなぁ、ウルにはボクの仕事を手伝ってもらおうかなこの腕じゃ流石にキツいし

「ごめんなさい……」

「責めてるわけじゃないよ、とっても楽しかったからねそれにウルだって何本か折れてるだろう?」

ヒソカはそう言って、ウルをじろじろと頭の先から足の先まで眺める。そのねっとりとした視線に体内まで見透かされたような気持ちになって、身を固くすることしかできなかった。気まずさから話題を元に戻そうとやっきになる。

「そ、それでその、仕事って?殺しですか?」
「ほら、敬語はやめてって言ったばかりだろ
まぁ殺しも含まれるかもしれないけど、目的は盗みだよ
「盗み?何を盗めばいいんで……いいの?」

ヒソカは終始笑顔だが、無表情なイルミと同じくらい何を考えているかわかりにくい。だがウルが敬語を使った瞬間、一層その笑みが濃くなったので、慌ててもう一度言い直した。

「さぁ、それはまだボクにもさっぱり
「え?……どういうことなの?」
「ボクが欲しいわけじゃないんだ

勿体つけるように、ヒソカはそこまで言って少し間を置いた。含み笑いはこれからのウルの反応を期待してのものなのかもしれないが、当然ながらこちらは全く意味が分からず首を傾げるしかない。しかし次のヒソカの言葉を聞いた瞬間、寄せられていたウルの眉は綺麗な弧を描いて上に持ち上がった。

「幻影旅団って言えば、キミもわかるかい?」


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