■ 44.どうしてこんなところに
うす暗い部屋。
ぼおっとする頭。
クロロはそんな状態でも、無意識のうちにレイの姿を探していた。
一体自分はいつから眠り、どれ程眠っていたのかも判然としない。
とりあえずまずは起き上がらねばと思い、
「…っ!?」
クロロは自分の体がぴくりとも動かないことに気がついた。
どれだけ集中しても、指一本動かすことすらままならない。
頭がはっきりとし、状況が呑み込めるようになるにつれ、クロロは言い様のない焦りを感じていた。
レイ……!
必死に目だけで彼女を探すが、部屋のどこにもいない。
そもそも気配がしないのだから、彼女が絶でも使っていない限り、ここにはいないということだ。
くそっ…これは毒か?
だが、だとしたらいつの間に?
仮に夕食にしこまれていたとしても、その時はまだレイの薬が効いていただろうからあり得ない。
クロロは自分の行動を省みて、まさか…と苛立った。
毒が…いや、睡眠作用と筋弛緩作用のあるものが含まれていたのは、シャワーの水しかありえない。
食事以降は何も口にしないように気を配っていたが、シャワーにまでは気が回らなかった。
唇についた水滴くらいのごく微量でこの効き目。
なぜ一思いに致死性の猛毒にしなかったのかは謎だが、とにかく一刻も早くこの状況をなんとかしなければならない。
クロロは自分のことよりも、この場にいないレイの安否が心配で堪らなかった。
***
「そんな目でみないでおくれ。
ちゃんと君のお母さんには会わせてあげるとも」
縛り上げられたレイには、罠と同じ素材でできた足枷が。
彼の言うように、どんどん力が抜けていくようで、ひどく体が重い。
念をもつレイでさえこうなのだから、もしもクロロさんが一緒に来ていたら危なかっただろう。
一人で行動したことは、ある意味正解だったのかもしれない。
レイはこの状況をなんとか打開できないだろうかと考えを巡らせたが、特にこれと言った作戦は思い付かなかった。
とにかく今は、歩く度にじゃらりと大きな音をたてる枷のせいで、昔のことを思い出して気分が悪くなる。
前を歩く叔父の背中が、忘れかけていた記憶の中の父を呼び起こした。
「レイ」
父であるはずのその人はいつも目を合わせなかった。
けれども彼の声はとても優しい。
太っているせいかゆったりとした足取りで、レイはいつもその人を後ろからじっくり眺めることができた。
「今日も新しいお薬ですか?」
「…ああ」
「お薬」ではないことくらいはわかってる。
良薬は口に苦し、と言えども全身に激痛を伴う薬があるはずもない。
それでもレイは自分の立場を疑問に思ったことはなかった。
「レイにしか試してもらえないからね…」
そう。
私「しか」出来ないことだから。
私は「そのため」にいるのだから。
もしも死なない体でなければ、きっとそれは「私」ではない。
父はまた目を合わせずに返事をした。
レイはひたすら彼の背中を追いかける。
今日もまた、と聞いたのは嫌味やあてつけなんかじゃなかった。
ただ、私の存在意義を言葉にしてほしかっただけ。
前を歩く父の背中は、どこか悲しそうだった。
**
ニヒスに連れてこられたのは、地下室。
薄暗く、湿気の匂いがつん、と鼻についた。
「まさかこんなところに母を!?」
信じられない、と怒りを瞳に宿し、ニヒスを睨み付ければ、彼は小さく肩をすくめてみせた。
「私だって好きでこんなところに閉じ込めているわけではないよ。
ただ、君も君のお母さんにも反省をして欲しくてね」
「だって、病気って…」
「私の言うことを聞かない病には、これが一番の薬なんだよ」
彼は笑うと、ゆっくり足音をたてながら階段を下りていった。
「最低…
じゃあ、父が死んだというのも嘘なの?」
「それは事実。兄は死んだ」
何故かニヒスは兄、という言葉に少しだけしかめ面になった。
そしてそれきり返事をしなくなった。
「やあ。その後、御加減はどうです?」
強固な鉄格子を目の当たりにして、レイは今さらショックを受けた。
囚われているのは自分と同じ銀髪の、ほっそりとした女性。
比較的健康そうではあったが、彼女の目はニヒスに対する敵意に溢れていた。
「貴方のせいで最悪よ…」
そう呟いた彼女とレイの目はばっちりと合う。
「…!!
も、もしかして!」
「待ち望んだ感動のご対面ですよ」
彼女の瞳は大きく見開かれ、言葉を探すように唇がぱくぱくと動いた。
その様子を、さも面白そうに叔父は眺めている。
「レイ………なの?」
絞り出すように紡がれた言葉は
ひどくレイの胸を締め付けた。
***
ガチャ…
ドアノブがゆっくり回される。
クロロは動けないながらも警戒し、必死に相手が誰なのか見極めようとした。
もちろん、レイならそれで問題はない。
だが、このタイミングこの状況で、彼女が普通に登場してくれるとは考えにくい。
何も出来ない自分が悔しくて、睨み付けたその扉の隙間。
するりと入ってきた人影は男のものだった。
「あっれ、起きてるんだね」
飄々としたその口調。
嫌でも目立つ白衣姿。
クロロは覚悟をし、それでも相手を睨むことをやめない。
フラウは注射器を手に、瞳を輝かせていた。
「やっぱ、普通の人じゃないんだなぁ。
夕食にも毒、入ってたんだよ。
でも、今回のは効いてくれて良かった」
「…俺を殺しに、来たんだろ…」
「そういう役割だからさ。
だけどまさか、起きて喋れるとまで思わなかった。
君って一体何者?」
「…さぁな」
べらべらと喋り、なかなかトドメを刺そうとはしない。
この状態のクロロなら殺るのは簡単だろう。
こちらはもう既に覚悟はできていた。
「…それより、レイはどうしたんだ?」
「へぇ、さすが婚約者だな。
自分の心配より彼女?」
「…答えろ」
「まぁいいけどな」
彼はこちらが動けないのを嘲笑うかのように、ベッドの、それもクロロのすぐ近くに腰かけた。
「レイなら、たぶん今頃母親に会ってるんじゃないか。
もちろん、紅茶片手に穏やかな再会ってわけにはいかないだろうけど」
「…へぇ、本当にまだいたんだな。
母親」
病気だっていうのは恐らく嘘だろう。
レイにはとても言えなかったが、父親が死んでいると知ったとき、その母親の生死も疑った。
フラウは珍しく、呆れたようにため息をつく。
「あ、そこまで疑ってたのかよ…。
父さんはあの女を殺さないって。
本のありかを知ってるのはあの女だけだろうし」
「それで、レイに会わせれば、そのありかを話すと…。
そういう作戦だな…?」
「ピンポンピンポン大正解。
君を眠らせたのも、警戒されずにレイだけをおびき出すため。
悪いけど、婚約者は俺なんだってさ」
キラリと光る注射針。
きっとそこには猛毒が入っているのだろう。
まだ動かない体では、ろくな抵抗も出来そうになかった。
「…残念だが、本当の婚約者は俺じゃない。
ここで俺を殺したって、お前ら一族の繁栄はあり得ないな」
必ずレイを連れ戻しにイルミは来る。
いくらマクマーレンとは言えど、ゾルディックにかかればひとたまりもないだろう。
レイを二度と実験なんかに使わせない。
彼女が無事なら、彼女が幸せならそれでいい。
クロロは挑発するようにフラウを見た。
「実験動物はもっと悲しい目をするんだ。
…己の死期を悟るのかもしれない」
フラウはクロロのYシャツの袖をまくった。
むき出しになる腕。
空気がひやりと冷たい。
チクリ、と針の感覚。
体に入ってくる液体。
鈍い痛み。
クロロはこの後来るべき激痛に備え、無意味と知りつつも体を強ばらせる。
「俺って悪い奴だな」
フラウがぼそりと呟いた。
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