- ナノ -

■ 43.どうして一人で行動したの



「クロロさん…怒ってます?」

「…いや、呆れてるだけだ」

あの後、フラウにさんざん研究室を連れ回されたクロロ達は、ようやく自分達の部屋に行くことが出来た。

時計を見ればもう夜の9時。
10時を過ぎないと、レイの母親に会わせてもらえないらしく、つかの間ではあるが暫しの休息タイムだった。

「泊まりたかったのか?」

「…歓迎されてるって思うと、なんか嬉しくて…」

「馬鹿だな。本当に歓迎してるかどうかわからないだろう」

「そう、ですよね…」

うなだれるレイはいつもよりさらに一回り小さく見える。
クロロはふぅ、とため息をつくと、彼女の頭をぽんぽんと撫でた。

「別に怒ってないから。
ほら、先にシャワー…」

浴びてこい…はなんだか意味深だな…

婚約者という設定で来たのだから、当然部屋は一つ。
それは仕方ないにしても、やっぱり何かと意識せざるを得ない。
クロロは少し口ごもると、「浴びさせてもらうぞ」と続けた。

「あ、はい。どうぞ」

「…直ぐに出るよ。その間、一人でうろうろするなよ」

「ええ、わかってます」

手を握ったことはすっかり忘れているのか、レイの様子に普段と変わったところはない。
意識しているのは自分ばかりだと思い知らされ、だんだん情けなくなってくる。

そんなことを思いながら服を脱ぎ、シャワーのコックを捻ると、温かいお湯が全身を包み込んだ。

「どうせあいつは…言わないとわからないんだろうな」

どこかほろ苦く感じる水は今のクロロの気分に影響されたのか。
水音だけが空しく響くバスルームで、クロロはゆっくり目を閉じた。



**




「あれ…クロロさん?」

レイがシャワーを終えて出てくると、彼はベッドに突っ伏すようにして眠っていた。

「疲れてたのかな…」

まだ髪も濡れている。
レイが近づいても、深い眠りの中にいるのか、一向に起きる気配はなかった。


綺麗な顔…。

長い睫毛。
すうっと通った鼻筋。
風呂上がりだからか、赤く上気した頬を見ていると、本当に男性なのか疑いたくもなる。
レイは恐る恐る、彼の髪に触れてみた。

「風邪、引きますよ…」

一応そう声をかけてみるが、返事はない。
レイは今度はゆっくりと手を握った。

さっきのは一体何だったんだろう。
あの場面で、叔父にバレてしまう危険のある行動をしたのはクロロさんらしくない。
だが、手を繋いでみたところで彼があの時何を思っていたかなんて分かるわけもなく。
すやすやと眠るあどけない寝顔にレイは自然と笑みを浮かべた。

「でも、困ったな…もうすぐ10時になるのに…」

本心としては寝かしておいてあげたいところだが、きっと勝手に私だけで行動すると怒られるだろう。
レイはそっと彼の肩を揺すった。

「クロロさん、起きて」

「…」

今度はもう少し強めに揺すってみる。

「クロロさん、起きて。
起きてください。
もう、10時ですよ」

レイがいくら声をかけても、クロロさんは目を覚まさない。
一瞬怖くなって、鼻と鼻がくっつきそうなほど顔を近づけてみたが、ちゃんと呼吸はしていた。

「やっぱり寝てる…どうしよう…」

そんな時、途方に暮れたレイの耳にコンコン、とノックの音が響く。

「あ…来ちゃった…」

眠る彼と扉を交互に見て逡巡した後、レイは扉を開けるべく、ゆっくりとベッドから降りた。




***



「わぁ…」

案内されたのは、マクマーレン家の図書室。
レイは天井まで届きそうなほど高い本棚を見上げ、感嘆の声を上げた。

「とても立派ですね…」

図書室というよりかは図書館と言った方が正しいだろう。
きょろきょろ辺りを見回すレイにニヒスはくすくすと笑った。

「義姉さんに会う前に是非見て欲しいものがあってね。
大事なものだから、もっと奥の部屋に保管してあるんだけれども」

「書物ですか?」

「ああ、そうだよ」

それを聞いてレイはやっぱりクロロさんに付いてきて貰うべきだったなぁ、と後悔する。
解読という意味においても彼は優れているし、そもそも古書の類いには目がない。
だが、そんなレイの思いに関係なく、ニヒスはどんどんと奥へ進んでいった。


「ここだよ」

鍵のかかった扉を開けると、そこは想像していたよりも遥かに小さい部屋。
誰かの書斎のような雰囲気で、外側の図書館とは比べ物にならないくらいみすぼらしかった。

「ここにはマクマーレンの歴史が詰まってる。
そこに並べられているのは全部、我が家について記された本なんだよ」

「あ、これ…」

蜘蛛のホームで見たものと同じ。
というより、ホームで見たものはこの中の一冊に過ぎなかったのだ。
レイが手にとってよいものかどうか迷っていると、隣に立ったニヒスが、本棚から一冊本を抜き取った。

「…とはいえ、残念なことに全部揃っている訳じゃないんだ。
伝記の方はまぁ、ただのコレクションだとしても、こちらは是非揃えたくてね」

ニヒスが手にしているのは「U」とアラビア数字でかかれた赤い本。
見れば、その第一巻にあたるものの場所が空白になっていた。

「これはね、ここで行われた研究の全てを記したものなんだよ」

「研究…」

「そうだ。けれども肝心の一巻がない。
レイのような死なない体質の人間がどのように出来たのか、それがわからないんだ」

生まれた、ではなく出来た、と表現するニヒスの横顔はさっきまでとは別人のように冷たい。

「叔父様…?」

レイの頭の中で警鐘が鳴り響く。
おかしい。
危険だ。

言いようのない不安が胸を満たす。
だが、レイが自分でも気づかぬうちに後ずさりをすると、ガチャンと音がして足に鈍い衝撃が走った。

「っ…」

驚いて足元を見れば、そこには所謂トラバサミのような仕掛け。
鋭い歯こそ無いものの、ガッチリと足を挟み込まれ抜くことができない。

暗い部屋。
ほとんど床に同化したその罠に、レイは気づくことが出来なかった。

「最近は科学技術が進んでいてね。
それはレイのために特別作らせたものなんだよ。
ほら、見てごらん」

ニヒスがポケットから小さなリモコンを取り出しボタンを押すと、床に仕掛けられていたトラップが全てガチャン、ガチャンと起動する。
それからもう一度彼がボタンを押せば、何事もなかったかのように無数の罠はなりをひそめた。

「な、何でこんな…!」

「私はどうしてもこの第一巻が欲しくてね。
君が持っているんだろう?」

「知らないわ!離して!」

正直に答えても、冷たくこちらを見据える叔父。
レイは新しく出来るようになった念を使い、クロロさんの元へと飛ぼうとした。

「……でき、ない…?」

前の時はちゃんと成功した。
今回はさらに移動する距離も短いはず。
けれども焦る気持ちとは裏腹に、全く体に力が入らなかった。

「無駄だよ。それは特別に作ったと言っただろう」

「何…?何が起こってるの?
私に何をしたの?」

まず、オーラを身に纏うことができない。
大きな穴の空いた水槽に水を溜めようとするかのごとく、躍起になればなるほど、自分の体からオーラが流れていくのを感じた。

「それはね、特殊な鉱石でできているんだよ…。
聞いたことはないかい?
持つものを死に至らしめる宝石や装飾品の類いを。
あれは本来こうして、念能力者に対して用いるものなんだよ」

「鉱石…」

「研磨すればそれは恐ろしく輝く宝石だが、オーラの総量が少ない一般人が持つと、当然長くは生きていられない。
レイはよく鍛えられてるみたいだから大丈夫だがね。
…それでも今は強制的な絶状態。
無理はしない方がいい」

そう言った宝物の話は、蜘蛛にいたときに聞いたことがある。
多くは元の持ち主の強い念が込められているせいで悲劇を引き起こすのだが、中にはそうした特殊な素材があったとしてもおかしくはない。

いよいよ逃げる方法がなくなったレイに、ニヒスは今までで一番優しい笑顔になった―。

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