- ナノ -

■ 37.どうして簡単に諦めるの?


イルミが帰ってからは非常に穏やかな日々が続いていた。

毎朝目覚めるとちゃんとおはようといってくれる人がいる。
クロロは相変わらず本を読んでいることが多かったけれど、「誰かがいる」という感覚は不思議なくらいに安らぎを与えてくれた。

「レイ…雨だ」

「あ、じゃあ洗濯物入れてこなくちゃ!」

ばたばたと慌ただしく出ていく彼女の後ろ姿になんだか無性に幸せを感じる。
流星街にいた頃はもちろん、蜘蛛として活動していた頃には知らなかった生活に、クロロはすっかり浸っていた。

こうして一般人みたいにゆっくり過ごすのも悪くはない。
もちろん、それは相手がレイであるからこそなのだが、心のどこかでこんな暮らしがずっと続けばいいとも思ったりする。
戻ってきたレイはクロロの顔を見るなり、不思議そうに首を傾げた。

「どうしたんですか?」

「ん?何がだ?」

「いや、なんか一人でニコニコしてたから…」

言われて思わず自分の口元に手をやると、なるほど、確かに口角が上がっている。
クロロは笑って「何でもない」と答えた。

「お前はきっといい奥さんになるよ」

「そうですか?でも、向こうじゃたくさん執事さんがおられるので私の出る幕なんてないかと…」

「じゃあ、こうやって過ごすのは俺とだけ、だな」

ゾルディックじゃ、きっとこんなまったりした日々はない。

「そうなりますよね」

クロロはレイの苦笑混じりの言葉に少し嬉しくなった。

「そうだ、雨が上がったら散歩にでも行こうか」



**



気づけば、秋ももう終わる。
雨上がりの外の風は少し冷たく、薄手のコートを羽織ってちょうどいいくらいだ。

ここは一応隠れ家であるため、周りには木々しかない。
紅葉の名残が所々に残っているくらいで、とりわけ目を引くものは無かったが、レイが隣を歩いているということだけで心が弾んだ。

「静かな所…なんだか私の家を思い出しますね」

「…なるほど」

確かに言われてみれば、どことなく雰囲気が似通っている。
クロロは歩きながらも、レイの瞳を真っ直ぐに見つめた。

「…前からずっと気になっていたんだが、お前は自分の家のことをどう思っているんだ?」

クロロ自身も捨てられた身ではあるものの、親のことなど記憶に無いため、別段憎いとも思わない。
だがレイにいたっては単に捨てられただけではなく、ずっと酷い仕打ちをうけていたのだ。
恨んでしまったとしても何らおかしくはない。
レイは真剣な顔でうーん、と唸った。

「家族ですか…私にはまず何が当たり前なのかわかりませんし、やっぱり私は家族から愛されてなかったのかもしれません。
痛いのも嫌だし、辛いのも嫌だったけれど、想像も出来ないものを恨むことも出来なくて…。
父には会ったことがあるんですけど、それも白衣を着て研究するだけなら、他の人と大差なかったですし…」

彼女は言葉を探すように、どこか遠くを見つめていた。

「私には家族なんてわかりませんけど…でも今こうしてクロロさんと一緒に暮らしてみて、家族ってこんな感じなのかなって…暖かいし、すごく幸せだなって…」

そう言ってにっこりと微笑む彼女は本当に綺麗だった。
そのためクロロは思わず見とれてしまい、すぐには返事できない。

たっぷりの間を置いた後、そうか…と短く呟いた。

「幸せか…よかったな」

レイが自分と同じことを感じていてくれたなんてとても嬉しい。
と、同時に淡い期待がクロロの胸のうちに芽生えた。

「レイ…」

立ち止まって彼女を見つめる。
背の低い彼女は半ばこちらを見上げるような形で見つめ返してきた。

「どうしたんですか?」

残念ながら、またその質問には答えることが出来ない。
本当に自分でもどうかしていると思う。
クロロは黙ってレイの身体を抱き締めた。

「…クロロ、さん?」

レイの声音からは戸惑いがありありと感じられた。
それでも離したくはない。
クロロは彼女の髪に顔を埋めるようにして目を閉じた。

「少し…寒い。暖めてくれ」

好きだと言ってしまえたらどんなに良かっただろう。
いつもなら、誰かに愛を囁くことに抵抗はない。
だが本気であればあるほど、その分失うのが怖かった。

レイの気持ちがわからない。
特に今、彼女を縛っているもののことを考えると、拒絶の言葉が返ってきたって不思議ではないのだ。

諦めた方がいいのだろうか…
もう絶対に俺のものにはならないのだろうか…

自然と彼女を抱く腕に力がこもる。
レイはそれを寒さゆえと勘違いしたのか、こちらの背中に腕を回し、優しく撫でてくれた。

「…なぁ、レイ、お前は愛ってなんだと思う?」

「え…?愛、ですか?」

伝わればいいと思った。
二人の体温が溶け合うように、心も溶け合ってしまえたらいいのに…
彼女の髪からする甘やかな香りがクロロの胸をきゅっと締め付ける。

「愛…うーん、愛…
ただの好き、とは違いますしね…なんでしょう…
『その人のために死ねること』、命をかけれるくらい好きってことじゃないですか?」


−俺はお前のために死ねるよ

もしそう言ったら、レイ
お前はどうする?

クロロは悲しげな微笑を浮かべる。
だが、そのことを知るものは誰一人としていなかった。







それから二人はどちらからともなく離れて
黙って家に向かって歩きだした。
気まずさとはまた少し違う。
離れると余計に風が冷たく感じられて、しばらくの間その余韻に浸っていたという方が正しい。

言葉なんか無意味だった。


「ククク…見ぃちゃった☆」

突然そう聞こえて、二人の前に現れたピエロ。
木の上からこちらを見下ろし、にやにやと笑っている。
その奇抜な格好は、自然の中では余計に浮いて見えた。

「やっぱりお前か…」

クロロは僅かな警戒を滲ませ、相手を睨む。

「ヒソカさん、お久しぶりですね」

が、レイは特に驚いている様子もない。
彼女も何となく気づいていたのだろう。
ヒソカのオーラは独特であるし、なによりこいつは隠そうともしていなかった。

除念師を連れてきたようにも見えないし、一体こいつは何をしに来たんだ?
クロロはレイを庇うように一歩前に出た。

「相変わらずつれない態度だなあ◇」

「除念師がいないのなら、お前とはあまり関わりたくないんでな」

「イルミからレイがここにいるって聞いてね、様子を見に来たんだけど…☆
どうやら除念師は必要ないかな◆?」

不自然なほどに弧を描いた口元。
それとは対照的に少しも笑っていない瞳がぎらぎらと輝いて不気味だった。

「え?除念師必要ですよ、ね?」

「…当たり前だ」

除念が終われば、レイはイルミの元に戻ってしまう。
だが、俺には蜘蛛という存在もある。
まるでクロロの揺れる心を見透かそうとするかのように、ヒソカは目を細めた。

「おや、そうかい◇?なら、ボクは構わないんだけどね★
それより久しぶりにレイに会えて嬉しいよ◆」

「私も」

レイはにっこりと微笑む。
その笑顔に他意はない。

ヒソカはすたっ、と地面に着地した。

「キミ…イルミと結婚するんだって★?」

「えぇ、まぁ…」


「そう…
ボク、レイのこと好きなんだけどナ☆」


突然のストレートな告白に、告白されたレイ本人よりもクロロが反応してしまう。
こいつ、いきなり何を言い出すんだ!?

だが、ヒソカはびっくりするほど真面目な顔をしていた。

「え…」

当然のことながらレイも固まっている。
ヒソカはゆっくりレイに近づくと、彼女の顎をくいと持ち上げ上を向かせた。

「本気だよ…レイ、ボクじゃダメかい◇?」

「ちょっ、ちょっと待って!!」

抱き寄せられそうになって、ようやくレイは慌てる。
見かねたクロロはヒソカの腕をとり、射るように睨み付けた。

「やめろ…レイが困ってる」

「クロロだって、抱き締めたじゃないか☆」

「お、俺は…」

クロロは何も言い返せず、視線を反らす。
レイは困ったように、二人を見ていた。

「ヒソカさん、私…」

「わかってるよ◆イルミのことだろう?だけど、一つだけ聞かせてほしいんだ☆」

「…」

「余計なことを考えずにこの質問に答えてほしいな◇
キミは…
『ボクのことが嫌いかい◆?』」

とても婉曲な質問だと思った。
こいつらしくもない、護りの姿勢。
クロロはそこに彼の本気を見たような気がした。

「いいえ…むしろ好きです」

「…そう☆」

呆然としているクロロに向かって、ヒソカは珍しく眉を下げて見せた。

「だってさ、クロロ◆」

「…だが…」

「わかってるよ、それでもボクは諦めないけど☆ 」

普段はヘラヘラしている男の真剣な言葉に何となく圧倒されてしまう。
ライバルが増えたというのに、痛いほどに気持ちがわかって辛かった。

「レイ、ボクの気持ちは伝えたから…。イルミが嫌になったらいつでもおいで★」

レイは頷くことも首をふることもせず、戸惑ったような表情でヒソカを見つめている。
返事など最初から期待していなかったのか、ヒソカはクロロの方に向き直ると

「そうそう、ボクはクロロとも話があるんだけどな☆」

またいつもの調子に戻った。


「レイ…先に家に戻っていろ」

「…はい」

話とは何だ?
まさかこの状況でGIでのことを言い出さないだろう。
クロロとヒソカはレイが見えなくなるまでずっと、互いに黙って相手を見ていた。



「…話とは何だ?」

いつまでたっても一向に話し出す気配のないヒソカに、とうとうしびれを切らして問いかける。
ヒソカはふっ、と肩の力を抜くと、少し唇を歪めた。


「クロロはさ、レイのことを本気で好きなのかい◇?」

「…だったら何だ?」

「どうせまだ、好きって言ってないんだろう★」

「…言ってもお前の二の舞だろうさ」

これ以上レイを困らせたくはない。
第一、今の自分では彼女を守ってやれない。
クロロはそう考えて自嘲の笑みを浮かべた。

「それじゃあ、諦めてくれるのかい☆?」

「馬鹿言え。あいつのために言わないだけだ。お前に譲る気はない」

「へぇー◇いつの間にか、物わかりがよくなっちゃったんだね★」

ヒソカの瞳がギラリと輝く。
それは間違いなく獲物狙う動物の目である。
仕方ないだろ、クロロは吐き捨てるようにそう言った。

「欲しいものは全部手に入れるんじゃなかったのかい◆?」

「ライバルなのに、随分と煽るんだな」

「だってレイをかけて、キミと戦う方が面白そうだから☆」

「またそれか…」

ヒソカはふざけたと調子だが、クロロにとっては痛いところを突かれた気分だ。

欲しいもの…
俺はレイが欲しい…
彼女を閉じ込めて、誰の目にも触れないようにしたい。

でも…
それはレイの幸せと両立するのか?

悩みだしたクロロにヒソカは盛大なため息をついた。

「悩んでる姿もそそるけど、物事はシンプルに考えなよ◇
欲しいものは奪う。幸せかどうかじゃなくて幸せにするんだ★
キミは天下の幻影旅団の団長だろ?
失望させないでくれよ◆」

「…」

「いいかい?ボクが除念師を連れて帰ってきたら、その時はレイを賭けて闘ろう☆
もちろん、彼女はボクがもらうけどね◇」

ヒソカはトランプを取り出すと、見せつけるようにぱらぱらとカードをきる。
とうとうクロロは空を見上げ、くつくつと笑いだした。

「面白い冗談だな。俺がお前に負けるわけがないだろう?
お前もイルミもまとめて殺ってやる」

「ククク…そうこなくっちゃ★」

にたにたと嬉しそうに笑うヒソカ。
話していたら、一人でもやもやと悩んでいたのが馬鹿らしくなってくる。
たまにはこの男もいいことを言うのだな、と少しだけ感心した。

「じゃあ早いとこ除念師を頼んだぞ。俺がレイに手を出して、イルミに殺られる前にな」

「もちろんさ◆
ボク抜きでそんな楽しいことはさ、せ、な、い☆」

ぱちん、とウインクするヒソカにクロロは思わずぶるっと寒気を覚える。
だが、互いにすっかりいつもの調子に戻ったことがわかると黒い笑みを浮かべた。

二人の頭上では雨上がりの空では雲間から太陽が顔を覗かせようとしていた─。

[ prev / next ]