- ナノ -

■ 36.どうして今それを言うんだ



「わあ、お引っ越し完了ですね。皆さんありがとうございました」

家の中に黒服の執事達がぞろぞろと。
表にはゾルディックの私用船。
不便さを我慢し、せっかく人里離れたところに住んでいるというのに、もはや隠れ家とは言い難い現状を目の当たりにしてクロロは深いため息をついた。

「よかったな…今日から気を遣わずに眠れるだろ」

どういうことかというと、一緒に暮らすとなれば当然何かと物入りなわけで。
レイが来た当日から即、色々な問題にぶち当たったのだ。
もちろん、彼女だってお金をちゃんと持ってきてはいたし、それで当面の衣服とか日用品などは買えば良かったのだが…
どうやらゾルディックの方がその他の家具やらを運んでくると言って聞かなかったらしい。

要するに、そろそろ寝ようかという段階になって初めて、クロロはベッドが一つしかないことに気がついたのだ。

「…俺、ソファーで寝るから」

内心の動揺を押し隠し、なんでもない顔でコーヒーカップを傾ける。
レイもすっかり失念していたらしく、珍しく慌てていた。

「…え!?いやいや、悪いですよ!私がソファーで寝ますから」

「馬鹿。人の嫁に風邪引かせる訳にはいかないだろう。お前がベッドで寝ろ」

「で、でも…クロロさんの家なのに…
…うーん、そうだ、一緒に寝ます?」

「ぶっ!!」

やめろ。やめろ。
本当にコーヒー吹くから。
これが他の女の発言だったら軽蔑していただろうがレイは本気でただ「寝る」ことしか考えていない。

ここであぁ…、と頷くのは簡単だったが果たしてそれは許されるのだろうか?
俺はどこまで理性を保っていられるのだろうか?
クロロは頭を抱え込んだ。

「馬鹿。人の嫁と一つのベッドで寝る方がまずいだろ…いいから、お前はベッドで寝ろ!これは命令だ」

「そうですか?十分広いから、二人でも寝られるのに…」

「駄目だ」

そこまで言ってやっとレイは渋々といった感じで頷いた。
基本、ずっとこんな調子だから、どうにもクロロの悩みは絶えることがない。
ベッドが届いたことにより、クロロは少しだけ抗しがたい誘惑から救われたような気がした。

「そうそう、後で遅れてイルも来てくれるって言ってました」

「は!?」

ようやく引っ越しも終わり、やれやれと一息ついているところへ、そんなレイの爆弾発言。
クロロは盛大に顔をしかめ、今すぐ断れ、と言った。

「いや…無理ですよ。クロロさんが言ってください」

レイは困ったような表情になり、机の上の携帯をちらりと見る。
気は進まなかったが、家に来られるよりかはマシだと思い、クロロは渋々電話を掛けた。


plulululu…

静かな部屋で鳴り響く、着信音。

「もしもし?」

抑揚のないその声は、思いの外近くで聞こえた。

「わっ、イル!」

レイの声に振り返ってみれば、視界に入るすらりとした体躯。

「…なんでもう、家の中にいるんだ…お前は…」

クロロは呆れて怒る気にもなれなかった。

「ははは、びっくりした?」

イルミは大して面白くなさそうな笑い方をしたが、そのオーラは柔らかい。
全く、本気の絶を使ってまで何をやってんだ、こいつは。
クロロはちらりと横目で二人を見て、ため息をついた。

「ええ、いつの間に…早かったですね」

「うん。早くレイに会いたかったから」

この男はさらっと真顔で恥ずかしいことを言う。

のろけるなよ…
俺のことも少しは考えてくれ

クロロは何しに来た?と不機嫌さを隠しもせず問いかけた。

「あぁ、ちょっとね。釘をさしておこうかと思って」

「針やら釘やら忙しいやつだな。ご苦労様なことで」

クロロの嫌味をイルミはものともしない。

「レイに手を出したら殺すから」

いつだってこいつは本気だが、とりわけ今回はゾッとするような目をしていた。

「そうか」

そんなことはわざわざ言われなくたってわかっている。
だがクロロの返事にイルミは納得しなかったらしく、少し目付きが鋭くなった。

「ふーん、ま、オレは別に今すぐ殺してもいいんだけどね。でも、そんなことをしたらレイが可哀想でしょ?」

「言いたいことはそれだけか?
なら、もうさっさと帰ってくれ」

「…」

二人の間に不穏な空気が漂う。
それを感じたレイが焦ったように割って入った。

「まあまあ、二人とも…久しぶりなんですし…」

「「別に会いたくなかった」」

クロロとイルミか見事にハモる。
それからまたきっ、とにらみあって、クロロは苦い顔になった。

「お前がうちに来たんだろ」

「オレはレイに会いに来ただけだよ?それに一応言っておかなきゃならないこともあるしね」

「なら、早く言えよ」

クロロが面倒臭そうに水を向けると、イルミはわざとらしくため息をついた。

「クロロってホントにムカつく。
でも、まぁいいか。
実はオレさ、レイのこと殺せるようになったんだよね」


「…は?」

特に難しい話ではないはずなのに、何故かすんなりと頭に入ってこない。
クロロは今の言葉が信じられず、思わずレイの方を見た。

「えぇ、本当ですよ。よくわからないんですけど、イルには熱が発動しなくなっちゃって…」

彼女は苦笑混じりにそう言うが、実際笑い事ではない。
お忘れのようだが、レイはあくまでもイルミのターゲットなのだ。
結婚などと呑気なことを言っている場合ではないだろう。
だが、どうするつもりだ?とイルミに問うと、あっさりといいんだ、と返ってきた。

「うちは家族は殺さないからね。むしろ、オレと結婚した方が安全ってワケ。第一、あの依頼に期限はないし」

「ゾルディックがそんな甘いこと言ってていいのか?」

「ふーん、じゃクロロはオレにレイを殺してほしいの?」

「そんなことは言ってない!」

クロロが声を上げると、僅かにイルミの目が意地悪く細められる。
それから彼は今度はレイの方に向き直り、言葉を続けた。

「そうそう、レイにも教えとかなきゃならないんだった」

「え…なんでしょう?」

イルミがそう言ったとたん、レイの表情が固くなる。
あの様子ではどうやら、ここへ来る前にもさんざん注意を受けたらしい。
説教を前に緊張する子供のように、レイは肩をすくめた。

「あのね、クロロもさ、男なワケ。
だから、たとえ夜に帰ってこなくたってレイは心配せずにさっさと寝てていいんだよ」

「…はい?どういうこと?」

レイは首を傾げる。
クロロが殺気を送るのも構わず、イルミは優しく説明を続けた。

「んー、分かりやすく言えばクロロにも女がいるってことだよ。黙っていれば向こうから寄ってくるだろうしね」

「あ…彼女さんが…それは大変、私なんかがいたら誤解されちゃいますね」

「ま、どうせ身体だけだから、代わりはいくらでもいると思うよ。
オレとしてはどっちかっていうと、そのせいでレイが夜更かしするのが許せないだけ」

さっきから黙って聞いていればこの男は…
だが以前の自分を省みると、あながち間違いでもないのが辛いところだ。
でも何もレイの前で言わなくたっていいと思う。
というか、これは完全に奴の作戦だろう。
レイが俺のことを嫌うようにわざと仕向けているとしか思えない。

クロロは乾いた笑い声をあげると、彼女に向かって「そんなことはしない」ときっぱり告げた。

「だいたい、どちらかと言うと嫁さんが手元にいないお前の方が溜まるんじゃないのか?
花代も馬鹿にならないだろ」

「花代?」

再びレイが理解できない、といった様子でこちらを見る。
花代とは女を買う金のことだ、と教えると、ぴしっとその表情が凍りついた。

「レイに変なこと吹き込まないでよ。大丈夫、オレはそんなことしないから」

「イル…人身売買はよくないことですよ」



予想外の反応に、しばし沈黙が訪れる。

「…うん、しない」

イルミはわざと見せつけるようにレイを抱き締めた。

「安心してよ、オレにはレイだけだよ?」

クロロの手の中で、携帯電話が嫌な音をたてる。

「頼むからもう…帰ってくれよ」

苛立ちや腹立たしさよりも、胸がきゅうっと締め付けられて苦しかった。
欲しがることは悪いことなのか…?
今まで生きてきて、考えもしなかった疑問がぐるぐると頭をまわる。

照れたように微笑むレイを見て、とうとう携帯は只の金属片へと姿を変えた。



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