- ナノ -

■ 35.どうしてそんなに鈍いの



ぱらり、とページをめくる音だけが部屋に響く。

簡素な部屋。
だが、一人で暮らすには少し広い。
念を失ったクロロは除念師と、それを探しに行ったヒソカを待っていた。

ヨークシンでの一件からはやくも2ヶ月が経つ。
ずっと髪を下ろし、一般人の生活をしているせいで、伸びた前髪が目元にかかって鬱陶しい。
それを手で払いのけるようにして、クロロは活字を追っていた。

─さようなら、クロロさん

いつまで経っても耳から離れないレイの声。
さよならを言われるのは昔から嫌いだった。

実際、彼女は蜘蛛ではないのだから、会ってもなんら問題はない。
けれどもあのイルミの様子では二度と家から出してもらえないだろう。
蜘蛛が復活した後、初めての大仕事はおそらくレイの奪還になりそうだ。

クロロは一人で想像して、苦笑を浮かべる。

正直、蜘蛛に関しては全く心配などしていなかった。
団員たちは皆強く、たくましい。
一人で生きていけるだけの力もある。
俺がいなくてもシャルあたりが上手く全員をまとめてくれているだろう。
蜘蛛として機能すれば、誰が頭であろうと関係ないのだ。

考え事をしていると、いつしかページをめくる手は止まっていた。

今頃、どうしてるんだろうか。
お仕置きと称して、酷いことされてないといいが…

結局、寝ても覚めても浮かぶのはレイのことばかり。
彼女は蜘蛛の宝だから?
でも、まだ足りない。
手に入った気がしない。

初めてのキスが血の味だなんて、色気も何もあったもんじゃないな…
クロロは目を閉じ、自分の唇を指でなぞった。


「クロロさん!!」


ん…?
今、レイの声が聞こえたような…

とうとう幻聴まで聞こえるようになったか…俺も重症だな。
心なしか気配までするような気がするし。
クロロは自分に呆れながら、ゆっくりと目を開ける。

すると、突然何かにがばっと抱きつかれた。

「クロロさん!」

「レイ…!?お前…どうして…」

腕の中の彼女には確かに質量がある。
抱き締めても消えない。
幻なんかじゃない。
クロロは混乱しつつも、自然と口許が緩んでいた。

「一体どうやって…というか、急に現れたな。念か?」

「そうです!私の新しい念です」

「ほう…瞬間移動のようなものか」

だとすれば非常に便利だが、それなりに条件も厳しいはず。
彼女は嬉しそうな顔で説明を始めた。

「私のこの念『深紅の道標』(クリムゾン・ディレクト)は一度相手の血液を『知る』ことによって、その人の元へと瞬間移動できるんです。
ただ、すごく集中しないとできませんから、雑念があると全然行きたいところに行けないし…ホントにたどり着けてよかった!」

なるほど、やはり自由にどこへでも飛べるわけではないのか。
場所ではなく、人の所へ移動というのも、誰かがそこにいてくれなければ使えない。
明らかに、これは俺の為に考えられた念だろう。
そこまでして会いに来てくれた彼女に愛しさが込み上げる。

「それにしても、俺の血…?」

俺がレイの血を飲んだことなら何回もあるが、その逆、飲ませた覚えはない。
クロロは少し考えて、それからにやりと笑った。

「あぁ…そうか、キスしたからな…」

わざと囁くように低く呟けば、レイの顔がぱっ、と紅くなる。
前はこんな反応しなかったのに…とクロロは嬉しくなったが、次の言葉を聞いた瞬間凍りついた。

「それ…絶対イルには言わないで下さいね…」

「…イ、ル?」

誰に促された訳でもないのに、自然と視線が彼女の左手に向く。
白く長い指。
その薬指には銀色のリングがきらりと輝いていた。

「………冗談、だろ?
まさか…結婚したのか?」

「いえ、まだ…婚約の段階です」

「…何で?」

「何でって…ほら、ヨークシンで約束しましたし」

クロロの頭の中で、セメタリービルでのやり取りが浮かぶ。

─帰ったら何でも一つ言うことを聞くこと。

まさか、それか?
それでイルミは…?

「レイ、お前…本当にそれでいいのか?
結婚っていうものはだな、そんなに簡単に決めるものじゃない。
気持ちがないのに下手にすれば、お互い傷つくだけだぞ」

特にレイは結婚どころか、恋愛すらまともにわかっていない。

「イルミのやつはそれを逆手に…くそっ!」

「え?逆手?何がですが?」

「…ん?」

レイがきょとんとした表情で聞いてくる。
どうやらついつい声に出してしまっていたらしい。
クロロは慌てて何でもないんだ、と首をふった。

「あの、心配してくれるのは嬉しいですけど…私はちゃんとイルのことが好きですし、彼も好きだって言ってくれましたよ?」

「……勘弁してくれ!
じゃあなぜ俺のところに来たんだ?」

『イル』だって!?
鳥肌がたつ!

どうせあいつが無理矢理呼ばせてるんだろう。
レイの「好き」ほどあてにならないものはないので、クロロは深くため息をついた。

「何でって…クロロさんが念を使えない間、役に立ちたくて…大したことは出来ませんが、私でも身の回りの世話とか護衛くらいは…」

「じゃあ、婚約中の身で俺と暮らすって言うのか!?」

「そうですけど…何か?」

「あーーーー」

目の前のレイは心底不思議そうに首を傾げている。

いいな、お前は!
その能天気さを俺に譲ってくれ!
こっちはもういっぱいいっぱいだって言うのに…。
少しは俺のことも意識しろよ、と言いたいのをこらえ、クロロはわざと難しい顔になった。

「それにしても、そんなの…よくイルミが許したな」

彼女を溺愛し、俺を目の敵に思ってるくらいのあいつが、結婚前に自分以外の男と…ど、同棲させるなんて…
ま、間違いがおこる可能性だって無いとは言い切れないし…普通、これはまずいだろ…

レイもイルミが許したことには驚いていたらしく、そうですね、と微笑んだ。

「花嫁修業だそうですよ」

「くそっ!あの野郎ぉ…!!!」

この俺をだしに使う気か!
冗談じゃない。
どこまで人をおちょくれば気がすむんだ。

俺はお前の可愛い可愛い奥さんに何があっても知らないからな。
そう思って彼女の方をちらりと見ると、目が合い、素直に見つめ返してくる。

だぁーーーーと髪の毛をかきむしりたくなった。

「どうしたんですか?さっきから様子が変ですよ」

「本当に俺は知らないからな!何があっても責任は……とるけど、とらない!!」

「はい?」

「とにかく先に言っとくぞ。万一のことがあっても俺は悪くないからな?ここへ来たからにはそういうことも承知の上だな?」

「はい!今さら危険がどうのこうのは気にしてられません!私が絶対クロロさんを護りますから」

「だぁぁぁぁぁーーーー!!」

駄目だ…これは駄目だ。
本当にまずい…
だが、レイは荒れるクロロの心境など露しらず、朗報とばかりに話を続ける。

「そうそう、私、予言の通りにここまで来てるんですよ。
だからクロロさんと一緒にいたら、何かマクマーレンの秘密もわかるかもしれませんよ?
もしかしたらクロロさんの欲しい『宝石』っていうのも手に入るかも…」

「あぁ…そうだと、いいな…」

彼女の無邪気な笑顔を見て、クロロはとうとう観念する。

もうそんな宝石なんかどうだっていいのに…。
本当に欲しいものはすぐそこにあるのに…。

これからの生活を思うと、先が思いやられる。
彼女の指で輝く銀色の光が、ただ目障りでしかなかった。

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