- ナノ -

■ 34.どうして抵抗しないの

レイ、レイ…

遠くの方で、誰かが呼んでる声が聞こえた。

右手にひんやりと冷たい感触。
だけど、それはずうっとずうっとあるものだから
次第に暖かくなってきて…


レイ、

私は知っている。
この声が、この温度が
誰であるのか。


レイ…目を覚まして


もう、私は起きなければならない。
たとえ目覚めた世界にどんなに辛い現実が待っていようとも
いつまでも逃げ続けることは出来ないから。

ただいま、イルミさん…



**



「よかった…」

いつも無表情な彼が、そんな顔をするなんて知らなかった。
まだ上手く働かない頭でぼんやり見つめ返すと、きつく抱き締められる。
懐かしい髪の香りに、思わず身体の力が抜けた。

「もう起きないかと思った」

「…私、どれくらい寝てたんですか」

「二週間」

イルミさんはぽつりと答えた。
確かに周りを見れば点滴などがたくさんぶら下がっている。

「何があったか覚えてる?」

「…覚えてます」

「そう」

忘れたくても忘れられる訳がない。
パクノダの死。
もちろん、ウボォーの死だってショックだったのだが、今回はまさに自分の目の前だったのだ。
助けられたはずだと考えると尚更耐え難かった。

「…イルミさん、私…」

彼はそっと体を離し、レイの頬に手を当てた。

「もう、忘れなよ。レイのいるべきところはここ。それでいいでしょ?」

優しさのこもった眼差しで見つめられ、レイは無意識のうちに目を反らす。
私にそんな価値はない。
私はイルミさんに優しく接してこなかった。

「…っ、イルミさん、その手!」

反らした視線の先に、包帯でぐるぐる巻きにされた彼の右手。
酷く膿んでいるのか、包帯は色が所々変わっている。

「ああ、これ?」

彼はこてん、と首をかしげて自分の手を見た。
聞かなくてもわかっている。
あの日、暴走してしまった私を止めるために彼は…

「それ…私のせいで…す、すぐに治します!」

イルミさんの自己治癒力だって、常人のそれとは比べ物にならないはず。
それなのに二週間たった今ですら生々しいその火傷はどれ程の痛みを伴ったのだろう。
だが、彼は動揺するレイの顔をぐいと引き寄せ、まっすぐに視線を合わせてきた。

「ふーん。治して、それで全部終わりなんだ?綺麗に治して何もなかったことにするんだ?」

「え…」

「ずるいよね、レイは。
治したらどうせ俺のことも忘れるんだろ?」

「何言って…」

絡み合った視線からは、いつものような不機嫌さは感じられない。
その代わり、彼の声には切なさが滲んでいた。

「ハンター試験の後、置いていくんじゃなかった…いつの間にかオレ以外の世界と繋がり持っててさ…キルもそうだけど、そんなにオレから逃げたい?オレのこと嫌い?」

「イルミさん…」

急に子供みたいなことを言い出す彼に愛しさが込み上げてくる。
触れている彼の体温は、確かに眠っていた間に感じたものだった。

「嫌いなわけ…、ないじゃないですか」

初めて外の世界を教えてくれたのは彼。
強くなりたいと思わせてくれたのも彼。

私が蜘蛛でも修行をつけてもらったのは
貴方に認めてほしかったから。
貴方の役に立ちたかったから。

レイが微笑むと、イルミさんはそっと頬に添えていた手を離した。

「ホント?
じゃあ、もう蜘蛛のことなんか忘れてくれる?」

「…」

「今すぐとは言わないから」

「…はい」

たぶん、無理だろう。
というより、忘れちゃいけないんだ。
それでも、命を懸けてでも私を想ってくれた彼を
悲しませたくなかったから嘘をついた。

嘘は悪いこと?
でもね、騙すのは彼じゃない。
私はこれから私を騙していかなきゃならないんだ。


**



それから私は何事もなかったかのように明るく振る舞った。

ゾルディック家の人々は私の帰りをとても喜んでくれ、イルミさんも仕事以外のときはずっと一緒にいてくれた。
穏やかな日々。
まさにレイが昔から憧れ、思い描いていたような。
けれどもそれは、同時に辛い日々でもあった。

「レイ、おいで。ゴトーに言って、ケーキ持ってこさせたから」

「ありがとう」

一緒にいて感じることは、イルミさんがとても優しいということだ。
キルアがいないせいなのだろうか、彼の関心は今全てレイに向かっている。
暗殺者、そして師匠としての彼しか知らなかったレイにとっては、戸惑いながらも嬉しい発見だった。

「あ、そうだ。この前、レイが読みたいって言ってた本見つけたんだよ。後で持ってくる」

「本当にありがとう…」

にっこりと微笑むが、内心は複雑だった。
まだ、蜘蛛でのことを忘れた訳じゃない。
罪悪感は静かにレイを苛み続け、それは優しくされるほどに膨れ上がった。
だが、そんなこと素振りに出してはいけない。
私のことだけを考えてくれるイルミさんの前ではずっと笑顔でいたい。

嫌われたくないんだ…
だから偽り続ける。

イルミさんのことが大切。
大切なのに騙してる。
大切だから騙してる。

誰かのことをこんな風に想うのは初めてだった。
嫌われるのをこんなにも恐れたのも初めてだった。
レイはまだ、この感情の正体を知らない。

ただ目の前の彼を見ながら、渦巻く罪悪感に胸が張り裂けそうだった。



**




「レイ、あ…寝てるの…」

仕事から帰ると、机に突っ伏したまま眠る彼女の姿。
どうやら本を読んでいて、途中で眠ってしまったらしい。
イルミはそっと彼女の傍に近より、顔を覗きこんだ。

柔らかな銀髪が頬にかかり、その寝顔は幼い子供のよう。
だがそんなあどけない表情をしたレイの睫毛は、濡れてきらりと光っていた。

「レイ…」

知っていた。
彼女が自分の前では無理をしていたことぐらい。
心の優しいレイが、蜘蛛でのことをあっさり忘れられるはずなかった。

イルミはそっと彼女を抱き上げると、ベットに運ぶ。

そう。
オレがレイの嘘に気づかないわけないじゃん。
けれども、それに気づいていながら見て見ぬふりをした。
その話に触れると、またレイが自分のもとからいなくなってしまう気がしたから。

いっそのこと、針を埋め込んで忘れさせた方が幸せなのかな。
イルミはベットに腰掛け、彼女の頭を撫でた。

「…ん」

不意に、レイは鼻にかかったような声を出す。
それから夢を見ているのか、ぽろぽろと涙を流し始めた。

「レイ、起こしちゃった?」

「…クロロさん」

彼女の口からその名前が出た瞬間、ぴくり、とイルミは固まった。
そのまま、涙をながし続けるレイ。

「ウボォー…パク…ごめんなさい…」

だが、イルミの耳には後の言葉は届かなかった。
頭を撫でていた手を止め、それをそのまま彼女の首に持っていく。

どうして…

どうして
またあいつなの?
オレが傍にいるのに、レイはあいつのために泣くの?

無意識のうちに、手に力が籠っていた。
ギリギリと絞まっていく首。
驚き、パッと目を覚ました彼女の瞳と視線が交錯する。

「…っ」

目を開けたレイは首を絞めているのがイルミだと気づくと

薄く、微笑んだ。
そして、ふっと力を抜く。

「レイ!」

バッ、とイルミは手を離した。
そのとたん、彼女は激しく咳き込み、ぐったりとベットに身体を静める。
顔色は赤黒くなっていて、ギリギリであったことを物語っていた。

「どうして…!?どうして抵抗しないの…?」

イルミは恐々自分の手を見る。
自分はレイを殺したい訳じゃない。
なのに、勝手に…

それから、もう片方の手を見て、大変なことに気づいた。

自分は今、彼女を殺しかけた。
けれども、あの熱は発生していない。
イルミは混乱したままだったが、とにかく彼女の背をなで、落ち着かせようとした。

「…けほっ、けほっ」

「レイ、どうして…どうして…」

イルミは彼女の身体をかき抱いた。
殺そうとした自分も狂っているが、それを受け入れようとしたレイもまた狂っている。
今度は生理的な涙を浮かべ、彼女は弱々しく微笑んだ。

「そんな…イルミさんらしくない…貴方は私を殺すのが仕事なんですから…」

「だからって、何も…」

「私…今、イルミさんになら殺されてもいいかなって…」

彼女の切ない声に胸が締め付けられる。

バカ…
ホントにバカだね
レイもオレも。

だけどほんの少し嬉しかった。
今までたくさんの人の命を奪ってきたけれど、殺されてもいいなんて言われたことはない。
イルミは彼女の首に残ったアザを指でなぞる。

ごめん…。

小さく呟けば、レイは背中に腕を回してきた。

「でも…とうとう殺せるようになったんですね…」

「どうしてさっきは熱が発動しなかったんだろう?」

殺意はあった。
そして彼女は実際に死にかけた。

本来なら条件は揃っている。

「このまえ暴走したからその反動?」

「さぁ…わかりません。もう一度試してみますか?」

「バカなこと言わないでよ」

たぶん、オレはレイが死んだら気が狂ってしまうだろう。
さっきも危なかった。
突発的な衝動とはいえ、目の前が真っ赤になった。

「レイ、よそ見しないで。オレを見て?」

殺したい訳じゃないんだ。
ただ、クロロの名を呼ぶ彼女が許せなかった。

「レイ、もう殺されてもいいだなんて言わないこと。
今はきっと弱気になってるだけだから」

「弱気…?」

首を傾げるレイはやはり無意識のうちにクロロの名を呼んだのだろう。
イルミは彼女の頬の、まだ乾ききっていなかった涙を拭った。

「…クロロの名前、呼んでた」

「え…」

そう言ったとたん、レイの瞳は動揺したように揺れる。
彼女は唇をきゅっと結び、また泣き出しそうだった。

「ねぇ…そんなに後悔してるの?それともクロロが好きなの?」

「私は…」

イルミは自分でもどうしたいのかわからなかった。
もし、ここで彼女がクロロを好きだと言えば、オレはレイを殺すかもしれない。
けれど、ホントは殺したくなくて、殺したらたぶんオレも死ぬんだろう。
キルには殺したいだなんて思わないのに…なんで?

一方で、問われたレイも真剣に悩みだした。

「後悔は…してます。けど、好き?
好きなのかしら…私はパクもウボォーも好き。クロロさんも好き。
だから私のせいでこんなことになったのが辛くて…もう二人は助けられないけれど、せめてクロロさんの役に立ちたくて…」

答えを聞いたイルミは、はあ…、とため息をついた。
レイの言う「好き」は恋愛の好きじゃない。
そう考えて、じゃあオレは?と思った。
こんなにも彼女に執着しているオレはレイが…好き?

恋愛として…好きなの?

イルミは心を決めると、一枚の紙切れを取り出した。

「これ…予言の!」

広げて見れば、レイが前に占ってもらったと言う予言。
気を失った彼女のポケットに入っていたものを、イルミが取っておいたのだ。

ミルキに色々調べさせたけれど、今なら彼女の詩に大きな空白があるのも頷ける。
そして、これが正しいのなら最後の二行は…

懺悔の炎を消したくば 血の導きに従うがいい
そこに貴女の秘密が見つかるだろうから

イルミはもう一度、レイをまじまじと見つめた。
彼女を手放したくはない。
けれど、辛そうな彼女を見るのはもっと嫌だ。
きっと彼女を悩ませているものが皆無くなれば、オレだけを見てくれるはずだから。

「レイ…クロロのとこ、行ってもいいよ」

「え?」

唐突な話の流れに、レイはきょとんとする。
イルミは自分の気が変わってしまわないうちに、残りの言葉を続けた。

「レイがそんなに後悔してるなら、行っておいで。それで少しでも気がすむんなら、今回は許してあげる」

「ほ、本当ですか?」

「うん…ただし、その前に約束は守ってもらうよ。ヨークシンで何でも一つ言うこと聞いてくれるって言ったよね?」

レイを失うつもりなど毛頭ない。
恋愛に疎い彼女にわかってもらうには強引だがこうする他はなかった。

「はい…なんでしょう?」

イルミは自分の鼓動の音がやけにうるさく聞こえた。
難しい暗殺をするときだって、もっと静かなのに。

躊躇って、深呼吸する。
不思議そうなレイの顔が目の前にあった。


「レイ、オレと結婚して。
オレだけのものになってよ」

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