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あと七十五本...「足りない」




予想していたとはいえ、恐ろしい光景に息を飲む私たち。いつのまにこれだけ床一面に水たまりが出来ていたのだろうか。するとすりガラス越しに女性の片手が扉の取っ手に向かうのが見えた。そしてそれを横にスライドさせようとする。ガタン、ガタン、と音を立てて鍵が扉を開ける事を拒む。それでも諦めない。何度も何度も教室内に音が響き渡る。私たちはそこから視線を外す事が出来ない。どうしよう、このままで大丈夫なのだろうか、このまま本当に入ってこれないのだろうか………どうしよう、どうしよう!


「…おい、柳から連絡はないんか?」


はっ、として隣の仁王を見る。しかし仁王は扉から視線を外さない。私は仁王の言葉通りに携帯を取り出し、電源を入れる。柳から聞いていた部活終了時間にはなっていないが、私と仁王が此処に閉じこもって1時間30分も経っていた。しかし着信どころかメールすらない。おかしい。私はメール画面を開き送信ボックスを見る。確かに1時間30分前に柳宛にメールが送信されている。しかし受信ボックスには友達からのメールが最後で、そこに柳の文字はなかった。そこで画面上部を見て、あることに気づく。


「な、圏外!?」

「……連絡はないんじゃな。この場所の電波が悪いんか、それとも……」

「………」


それとも、あいつの影響だろうか? しかしこれでは誰とも連絡が取り合えない。柳はあのメールに気づいてくれたのだろか。いや、流石に1時間以上も仁王が戻らなければ誰かしらおかしいと思うはず。それよりもこの場をどう切り抜けるかだ。連絡手段を絶たれた今、あいつ等が探しに来てくれるか、柳の言っていた解決策を試すしかない。しかし柳がその解決策らしきものに辿り着いたのも放課後まじか。私はそれを部活終了後に聞くはずだった。それが直ぐに試せるものなのかも分からないが、何も分からない今、後は柳にその解決策を託すしかないのだ。どうにかそれまでの間を持たせなければ……。するとダンッ、ともう1度音が響き渡る。何故だか分からないが、女が扉に押し付けられたのだ。すりガラス越しに女性の濡れた髪がべったり、と貼り付いた。


「………」

「………」


その異様な光景に私も仁王も言葉が出ない。するとゆっくり女は扉から体を離す。次の瞬間、ガチャンッ、と鈍い音がパソコンルームに響き渡った。私と仁王はびくり、と反応する。しかし、それ以上動けない。なんとパソコンルームの扉の鍵が下がったのだ。それは阻むものがなくなった、という事。先ほどと同じように女の手が扉の取っ手に向かう。そのまま横にスライドした。今度は阻むものが何もなくスッ、と開いた。そこには水に濡れた女が水と赤い雫を滴らせて立ち尽くしていた。ぽたり、ぽたり、と床に落ちていく。私と仁王はその光景をただただ見つめる事しか出来ない。頭を引っ込めるどころか、机のふちに置いた指先すら動かす事が出来ない。すると立ち尽くしていた女性が1歩踏み出す。扉前にも水たまりがあったのか、女性の素足がそこに沈む。びちゃり、びちゃ、と不快な音を立てる。


「………」

「………」


どうしよう、どうしよう。どうにかしなければいけないと分かっているのに、動く事が出来ない。一心にその女性の一挙一動を見つめる事しか出来ない。もう1歩踏み出す。びちゃり、ぽたん。呼吸する事すら苦しくなる。動かなくちゃ、早く! びちゃり、びちゃん……ごぼっ、耳を覆いたくなるような音が聞こえてくる。


「あっ!」

「っ!」


私たちは目を見開く。此方に迫って歩いて来ていたその女性が、口から血を吐いたのだ。その次の瞬間ぐらり、と体が傾いた。そのまま水たまり目指して、前のめりに倒れて行った。床についていた膝に振動が来る。突然の出来事に私たちは、咄嗟に反応出来ない。一体、何が起きた? 何故いきなり倒れた? しかし私はその背中にある物を見つける。あれは、


「…カッター…?」

「……カッターが、刺さっとる…」


そう、女性の背中にカッターが刺さっているのだ。何故、そんな物が…? そういえば先ほどから血が滴っていた。私の部屋に現れた時は水だけだったのに、いつのまにこんな怪我を? しかし、目の前のモノが倒れてしまった事にほっ、と一息ついた瞬間、呻き声が聞こえてくる。まだ終わっていなかったのだ。私たちに緊張が戻る。そのまま目の前の女性は伏せていた顔を上げる。その顔は大半が髪が肌に貼り付いた事によって窺がえないが、片目だけがここからでも血走っているのがよく見える。


「ぅ、………ぁ、っ、ぁあああぁっ、……ぁぁ、」


目の前のソレは呻き声を上げる。声を出すたびに口の端から赤いものが流れていく。それでも声を出すことを止めない。私たちはそれを見つめる事しか出来ない。頭の中は真っ白で、どうすればいいのか、まったく思いつかなかった。どうしよう、逃げなきゃ、という言葉だけは頭のどこかでぐるぐる回っているような気がした。そんな状態が何分続いただろうか。いきなり目の前の女性が何かに気づいたかのようにはっ、と息を飲む。




「……ぅぁ、あ、た、たり、たりなぃ、たりない、たり、たりない、たりない、たりない、たりないたりないたりないたりないたりないたりないたりない、恨みが足りないぃいっ!!」

「っ!」

「な、!」




目の前のソレは譫言のようにその言葉を繰り返す。呪いのような、耳を塞ぎたくなるようなその言葉を、その声で、発する。そんな姿を、目を見開きながら聞き続ける私たち。まったく状況を把握できない。一体、どうなっているのだ。目の前のソレは一体どうなってしまったのだ。頭が全く付いて行かない。しかし壊れてしまったかのように呟き続けていた女は次の瞬間、バシャン、と音をたてて跡形もなく目の前のソレが消え去る。いや、水に、なった。……え? 水に、なった? 目の前で起こった光景に息を飲む。そうあの女性は初めから存在していなかったかのように消え失せたのだ、水となって。いきなり、何故…? 何が起こった…?


「…何なんじゃ……まったく付いていけん……」

「どこに、消えたの…?」

「……この世から、消えたんじゃなか?」


そう呟く仁王。本当に? あんなにも私と仁王を追いかけまわし、やっとここまで追い詰めたというのに? 本当にこれで終わったのか? 私は机のふちに置いていた手を自分の胸元に持ってくる。手のひらにはどくん、どくん、という振動が伝わってくる。まるで全力疾走でもしたみたいだ。相当に緊張していたらしい。本当にこれで終わりなのかは分からないが、今度こそ息を吐き出す。隣の仁王はその場にどかり、と座り込んだ。お互いによく分からない状況に沈黙する。次の瞬間、もう片方の手で握りしめていた携帯が振動を始める。私はいきなりの事に、携帯を咄嗟に手放してしまった。がたん、と教室内に音が響き渡る。先ほどまで緊張が張りつめていたからか、その音に仁王までがびくり、と肩を揺らした。しかし画面を覗き込んでみると、そこには柳の文字。


「電話!」


私はすぐさま先ほど放り出した携帯を拾い上げ、通話状態にする。


「もしもし」

「朝岡だな」


私の声にすぐさま電話相手である柳が反応する。その声を聞いた瞬間、一気に力が抜けた。そのままべたり、と仁王と同じように床に座り込んでしまった。柳の話ではずっと私の携帯に電話をかけていたそうなのだが、留守電に繋がるだけだったらしい。柳の声の他に微かだが、知った声が混じって聞こえる。きっとテニス部だろう。どうやら柳が言っていた解決策は当たりだったらしい。仁王が居なくなってすぐに私のメールに気づいたとか。それのお陰で先ほどまでいた女性が、消えたんだ…。とりあえず今からそちらに向かうのでそこで話をしよう、という柳。もしかしてレギュラー勢揃いになるのだろうか。私は曖昧に返事をしながら柳との通話を切った。そのまま携帯をブレザーのポケットに戻した。そして立ち上がる。これからレギュラーがここに集まるのだろう。確かに事の顛末は気になるが、それ以上にこの場にいたくない、という思いの方が強い。しかし私はそのまま去るでもなく、隣で座りこんでいる仁王を見下ろした。


「……あんた、言ったよね。自分と仲間を天秤にかけて、自分に傾く時がくるかもしれないって」

「………」

「…それでも、それでもあんたは助けるでしょ」

「!」


ぼんやりと此方を見上げていた仁王の目が驚きに見開かれる。私はそんな仁王を見下ろしながら話す。


「どちらに天秤が傾こうが優先順位が変わるだけで、テニス部の事は何が何でも助けるんでしょ」

「………」

「私は私が1番大事。テニス部だろうが、関係ない。そりゃあいつもの仲が良い友達なら迷うかもしれないけど、最終的には自分を選んじゃうんだと思う。それを私みたいに口に出すか、心の中に閉まったままにしておくかの違い。皆きっと同じ」

「………」

「本当なら全力でお断りしたいけど、このよく分からない怪奇現象が1ヵ月ぐらい前からテニス部と私を巻き込んで起こってる。原因は分からないし、そんなのは柳に任せておく。でも確実なのは、テニス部と私が巻き込まれている。もうここまで来たら否定できない」


そう否定できないのだ。確かに私は偶然テニス部に巻き込まれている形だ。1番最初の放課後、丸井、真田、桑原、仁王。だがここまで偶然が続くものだろうか。それは今後も起こらないといえるだろうか。否定できない。本当に全力で逃げ出したい所だが、出来るものなら今までだって逃げ出している。だがこの偶然の事実に気づいているのはもちろん私だけではないだろう。テニス部だって気付いているはずだ。それならば柳が何かしら動いているはず。しかし今回の仁王の事件が起こった。それは容易く解決できるものではないらしい。


「きっとこれからだってその怪奇現象が、私とテニス部を巻き込まないとは言い切れない。そうなった場合私は自分の身の安全が優先だから、テニス部に今回のように協力する事も見捨てる事もする」

「…俺はお前さんがこれ以上テニス部に関わって色々なものをぶち壊していくなら、本気でお前さんを排除するぜよ」

「あんたの考えなんてどうでもいい。あんたが私の考えをどうでもいいと思ってるようにね。私は私のために動く。怖い思いも痛い思いもしたくない。死にたくない」

「……どうあっても分かり合えんようじゃ」

「分かり合うつもりなんてないくせに」

「…お前さん、教室では周りと同じようにしてるくせに、考えてる事はえげつないのう。とんだ詐欺師じゃ。自分を見てるようじゃよ」

「…私もそう思うよ」


護るものは違えど、そのためなら手段を選ばない所も、自分と他人を即座に天秤に測れる所も、似ているといえる。だからこそ本当なら分かり合えるのかもしれないが、護りたいものが違えば分かり合えなくなる。いや、むしろこれは同属嫌悪か。自分を見ているようで腹が立つ。自分はこんなに根暗で病んでいないが。



「お前さんが心底嫌いじゃよ」

「ありがとう。私も大嫌い」



お互いに口端を上げ別れを告げる。



そこには大量の水たまりも、赤い雫も、海のにおいも、全てが跡形もなく消えていた。残るは私と仁王の重苦しい空気だけ。



私はそのまま仁王の横を通り過ぎ、教室内を出たのだった。










仁王編もう少し続きます
(2014/02/23)



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