パッ、と
いやに綺麗に、まるで椿の花が散るかのように宙に舞った赤を
その直後にグラリと揺れた蜂蜜色を
土方はまるで信じることができなかった。
いつもの夜だった。いつものように夜の見回りをしている時、総悟は唐突に桜が見たいと、そう土方に持ちかけた。サボりかよと言いつつすぐに方向転換したのは、暗闇の中で総悟がいやに儚いものに思えたからだ。それが何故か、桜を連想させたのだ。
総悟はよもや承諾してもらえるとは思っていなかったのだろう、ちょっと驚いた顔をしてから、嬉しそうに土方の背を追った。
見回りのコースから少し外れると、大きな川の横に出る。江戸の町を横断し、重要な水の供給源となっているそれの周りは綺麗に整備されていて、川に沿ってたくさんの桜が植えてある。満開まであと何日もかからないだろう、総悟はこの時期の桜がとても好きだった。
あとは散るだけのそれより、咲き誇るその瞬間に向かうそれが好きなのだと、聞いたのはいつだったか。それを聞いてから、土方もこの時期の桜が好きになった。その桜を見る総悟の横顔を眺められるのが、とても嬉しかった。
「わあっ」
横で歓声が上がったのを耳に入れると、土方の顔は自然とゆるんだ。
塀に両側を囲まれた道の角を曲がると、急に視界が開けて、淡い桜色が道を彩る。少し前まで江戸でも夜には満点の星が見えたらしいが、江戸にターミナルができてからは、地上の光が天上のそれを覆ってしまった。今上を見ても、真っ暗な空があるだけで、星があるなんて全く信じられない。
「…今年も」
「ん?」
「今年もこの桜、あんたと見ちまったなぁって」
「…そうかよ」
春と言えど夜は冷える。まして今は夜明け前だから、総悟には相当こたえているはずだ。
土方は川辺に座り込んでいる総悟の横に腰を下ろすと、くしゃくしゃと蜂蜜色を混ぜた。
何すんでさァとか何とか、異を唱えながらもその声音はどこか楽しそうで、悪戯っぽく見上げてくる紅い瞳に、土方は思わず息をのんだ。
(……、なんか、)
言える、かも
いつもの夜回りのはずだった、のだけれど、隣の蜂蜜色は何だか機嫌がいいし、いつものように突っかかってこないし、春だし、桜だし。
今なら、言えるかもしれない。
土方は誰にも聞こえないくらいそっと深呼吸した。今になって心臓が役割を思い出したのか、耳元で鼓動が鳴り始める。
「……あの…総悟?」
「?」
呼ばれてこちらを向いた彼の瞳に映る自分を認めた瞬間、土方の思考は完全に飛んだ。
手を伸ばせば届く距離に焦がれてやまなかった彼がいる。欲しくてたまらなかった彼の視線を、自分が占有している。
それだけで、土方は、怖いくらいに幸せだった。
「…俺、」
その台詞の続きは、チャキ、と小さいながらもたっぷりと殺気を乗せた音に阻まれた。
ガバリと立ち上がって、振り向きざまに刀を一閃させると、確かな手応えと共に鉄臭さがパッと充満した。
「チッ…攘夷派かァ?」
地平線のすぐそこまで太陽が来ているらしい、暗いながらも自分たちが五人程の攘夷派に囲まれているのが分かった。どうして今まで気付かなかったのかが不思議なくらいである。
攘夷派どもは出会い頭に幕府や真選組への罵倒をするものだったのだが、なぜだか今目の前にいるやつらは一言も発すことなく刀を向けてくる。それが堪らなく不気味だった。
トン、と背中に軽い衝撃を感じる。総悟だ。先の一瞬で、すでに二人仕留めている。
「あーもう最悪でさァ」
「ホントにな…」
土方はいっそ、泣き出したいくらいである。
「足引っ張んねーでくだせェよ」
「お前こそ…っ!」
言い終わるや否や、二人は目の前に飛んだ。
飛び出した、というのが本当なのだが、総悟に至っては本当に「飛ぶ」のだからどうしたものか。総悟が着地すると共に一人が倒れる。そのまま屈んで刀を避けると、後ろに飛びながら足の健を斬る。
ひらりひらりと、蝶のように舞い蛇のように急所を捉える総悟を横目に、土方も敵の肩に剣をぶちこんだ。
決して、強い相手ではなかった。
だから、土方は本当に自分の目が信じられなかった。
総悟は、最後の一人を斬ると、グラリと前に倒れ込んだ。
「そ…っ」
動かない足を無理やり地面から引き剥がして総悟の体を抱きとめると、土方はそのまま座り込んでしまった。
太陽が地平線から顔を出す。
桜が朝露に太陽の光を反射して、それは美しい光景を作り出す。
土方の目には、何一つ映らなかった。
ただ、ただ、苦しげに呼吸を繰り返す総悟の、その体温が儚くなっていくのを、否定したくてたまらなかった。
「総悟…?」
総悟はきつく目を閉じたまま、ハッと短く息をはいた。その顔には一滴の赤もないのに、足の付け根の辺りから、おかしいくらいに血が溢れている。動脈を傷つけられたのかもしれない。左腕にも刀傷がある、これがおそらく土方が見たものだろうが、大したことはなかった。
「お前…何…何してんの…?」
語尾が震えてしまうのなんて、気にしている余裕は無かった。
右手を総悟の右肩にまわし、左手で静かに瞼をなぞる。
ピクリと瞼が動いて、そうっと紅い瞳がのぞいた。
土方は食い入るようにそれを見た、なれど、それが自分を映すことはなかった。
「お前…見えないの?」
「…土方、さん…?」
瞬間
土方の瞳から涙が溢れた。
信じられない。
色んな物を映して、多分自分よりも沢山の綺麗なものを見てきた、総悟の、目が。
見えないなんて。
総悟はもう、自分を抱きとめているやつが誰かも、分からないなんて。
「土方さん…?でしょう?煙草、くせェもん」
「…」
「すいやせ、ん…足…やられ、て…」
言われて、土方の頭に衝撃が走った。
攘夷浪士と刀を交わらせているとき、背後で銃声が聞こえたのだ。振り向くと総悟がいたものだから、その銃声の主を斬った瞬間だったから、胸を撫で下ろしたのだ。
(ちくしょう…ちくしょう!!)
ああ、総悟は自分を庇ったのだと、思うだけで死ねる気がした。
「総悟…?」
「ひ…、…?」
「……あのな、」
どうして今まで言えなかったんだろう。好きだと、そう伝えようとした唇は、総悟の指に押し止められた。
そのあまりの冷たさに、土方は呼吸の仕方を忘れた。
「…っ……言、っ、……、で…」
本当に総悟は死ぬらしい、その事実に呆然としたまま、土方はその手を左手で握りしめた。
死ぬってなんだろう
こいつがいない世界ってどんなんだろう
土方はもう、涙も出なかった。
総悟は、静かに瞳を閉じた。
そして、動かなくなった。
*****
沖田総悟は深夜の街を走っていた。
街といっても、今現在いるところは繁華街から少し外れた道だ。
春と言えど夜は冷える。
総悟はその寒さにたえられず、仕方なくパーカーのフードを目深に被っていた。どうしてこんな夜中に、そんな寒い中走っているかというと、走りたくなったらの一言に尽きる。
(…って、どこのスポーツマンでィ…)
自分でセルフツッコミしてしまうくらい、本当に理由はそれしかないのだ。しかも、きちんと目的地があるのがまた気持ち悪い。
川辺の桜並木。
多分、そこに行きたいのだと思う。
まあ急にマックのポテトが食べたくなるとか、そういった類いの衝動かと思い、家を出て数十分。
あと少し走って、角を曲がれば目的地に着くはずだ。
そこに近付けば近付くほど心臓が早鐘を打ち、どんなに急いでも遅すぎるような気がして、総悟は目眩すら覚えた。
(そこ、を、)
曲がれば、と足に力を込める。
が、
どん
角を曲がったその時、同じように角を曲がったらしい人にぶつかってしまった。
衝撃で、その人が持っていた鞄から、バサバサと中身が道路に散らばる。
「っ、すみません」
言いながら、地面に散乱した中身を拾う。
総悟は自分の迂濶さをじれったく思いながら、それでも、相手の風体をそれとなくチェックすることは忘れない。
(…よかった…)
その、総悟よりいくぶん背の高い男性とは、全くの初対面だった。知り合いだったら後々面倒だったなぁ、と不幸中の幸いに胸を撫で下ろすと、最後に細身のシャーペンを拾って、ノートやらと一緒に差し出す。
「ほんとに、」
ごめんなさい、言いながら、初めてよくその男性の顔に、視線を当てた。
ノートに筆記用具。もしかしたら大学生かな、と思っていたけれど、どうだろう。大学生にしては大人っぽいような、それでも、社会人にしては内面の落ち着きが感じられないような。
何にしても、容姿が整っていることには違いない。
「俺も悪かったから、」
だから気にするな、と含めると、その人は急ぎの用でもあるのか、この場を立ち去ろうとして、
その瞬間だった。
地面に散らばる桜の花びらを全て巻き上げるような風が吹いて、総悟の被っていたフードが、パサリ、肩にのる。
そうして、薄紅色が舞う中、柔らかな蜂蜜色の髪が、フワリ、風に巻き上げられた。
目の前の彼がその蜂蜜色を見た瞬間凍りついたことなんて、総悟は知らない。
「…わー、何ですかィ、今の」
ギュッと閉じていた目を開くと、さっきとさほど変わらない位置に立っている、その人。
もう居ないだろうと思って言った独り言を聞かれた総悟は、ポワンと頬を赤らめる。
全力で誤魔化そうと頭をフル回転させる、が、そいつの様子がどうもおかしい。
虚につかれたような顔をして、そう、いかにも「ポカン」とした表情を見せている。
怪訝そうな視線を送ってやれば、やっと開く口。しかして、その言葉を聞けば、ますます訳が分からなくなる。
だって、なんだっていうんだ。
初対面の人に向かって、「嘘だろ…?」って。
嘘も何も、今が初対面なのに。本当の本当に、わけがわからない。
ああ、でもなんでかな
泣きそう
総悟が何かしら言葉を発する前に、その体が軋むくらいに抱きしめられていた。
さっきは分からなかったけれど、少なからず煙草の香りがする。
それが懐かしくて、嬉しくて、なのに悲しいって、これ、一体どういうこと?
訳も分からないままに、総悟の瞳からはいよいよ涙が溢れて、抱きしめている彼も、何だか肩が震えていて。
そうして、馬鹿みたいに震えた声で、名前を呼ばれた。
それだけで、十分だった。
満天の空に君の声が
響いてもいいような綺麗な夜
悲しみが悲しみで終わらぬよう
せめて地球は周ってみせた
本当に伝えたい思いだけは
うまく伝わらないようにできてた
そのもどかしさに抱かれぬよう
せめて僕は笑ってみせた
せめて地球は(絶対言わせろよ、もう絶対止めんなよ)(…何ですかィ)(…愛してる)
……………………
前サイト(『せめて地球は』)の一周年記念に書きました。
(歌詞引用:RADWINPS:トレモロ)