(※行為には及びませんが、エロチックな描写がごく僅かに軽く入ります。注意。)



その人を見たのは、本当に偶然だった。

大学からの帰り道、春の陽気があんまり心地好かったから少し遠回りでもしてみようかと、訪れたのは最近できたらしい古本屋。
最近できたわりに品揃えもよく、店内の雰囲気もいいと、書生の間で話題の店。一度、いってみたいと思っていたのだ。
それでも、その古本屋は大学から下宿までの道のりにあったわけではなかったから、何となくめんどくさくて、やっとその日、行けたわけなのだけれど。

その古本屋は、晴れているからだろうか、表にも本を並べて、盛んに人を呼び込んでいた。
中に入ってみると、空間が捻れているのかと疑うほどに本が押し込まれ、積み上げられ、なるほど探求心を煽る。
手近な一冊を手にとる。
中々質も良く見えて、たいした店だと、ぐるりと辺りを見回してみたときだった。

店の小さい入り口から見える外界。
薄暗い店内とは対照的に、春の光に溢れた外、桜並木の下。

あれは日本人だろうか。
色素の薄い、栗色の髪。
顔は見えないものの、きっと精巧な作りをしているに違いないと思った。
綺麗な人だった。
同時に、触れるだけで壊れてしまいそうな、危うげな儚さも感じさせた。

桜の木に寄りかかり、誰かを待っているのだろうか、時々視線を右から左にはしらせる。

呆けたようにその人を見つめていると、その人はふとこちらを見た。
目が合う。
そらさない。
お互いに、そらさない。

そら、せない。

あぁ思えばこの時だ。
初めから俺たちは間違いだらけだったのだ。
ここで俺が、一瞬でいい、目をそらしていれば。

なんて、後悔しても仕方がないのだけれど。

笑ったのだ。
桜の下のその人が。

薄青い瞳がゆるりと細められ、その瞳に自分が映っているのかと思うと。

一目惚れ。

多分すべて、この一言に尽きる。
これ以上でもこれ以下でもない。
だから、それからすぐにその人の待ち人らしき男性が現れて、仲睦まじく腕を組んで去っていった時には、心底落胆した。
しかしまぁ、あんな美人が独り身なはずもないし、見られただけ幸であったかと自分で自分を慰める。慰めながらも、胸の燻りはちっとも無くならないものだから、全く途方にくれた。



それから三日ほど経った今日、俺はとある喫茶店に居座っていた。
今日はたまたま午後に講義がなく、同大学の書生を何人か誘って、だらだらと世間話をしていたのだ。始めは高尚に政治や外国情勢の話を意気込んでしていたものの、ともすれば下世話な話をコソコソと。俺も話に入ったり抜けたりして、それなりにその雰囲気を楽しんでいた。
この喫茶店といえば前述した古本屋の二・三店舗隣にあり、これまた書生に人気である。こ洒落た内装や本などを読むには最適な静けさが、その理由らしい。
桜はいまだ咲いていて、その並木通りを散歩する人で、目の前の通りはわりと賑やかだった。
そんな中、頭を支配するのはやはりあの人。珍しい目の色をした、桜の君。
まさか再び会えることを期待しているわけではないが、チラチラと窓に視線を送ってしまうのは仕方がないもの。しかし先程から、めぼしき人は現れず。
ため息と共に視線を落とした、時だった。

カラン

店の扉が開けられる控えめな音。
何となくそちらに目を向けて、その栗色を目に入れた、瞬間。

ポロリ

口にくわえていた煙草を、テーブルの上に、思わず落としてしまった。
友達が、テーブルが焦げてはたまらないと焦ってそれを灰皿に移す。中々出来たやつらだ。
暫しその煙草に向けていた視線、思い出したようにその人に戻せば、どんな運命の悪戯か、すぐ横の席に座っていて。
店長が「いつもの?」と尋ねて、それに笑顔で応えていた。もしかしたら、ここの常連なのかもしれない。

覚えているだろうか。

今日も前見たときと同じ、白っぽい着物を身に付けている。

覚えているだろうか。

ポヤンと窓を見つめるその瞳に、俺が映っていたのかと再認識。

覚えているだろうか。

俺を。
俺を、覚えているだろうか。

覚えているかもしれないし、いないかもしれない。
結局分からず仕舞いだった。
聞く前に、俺が、逃げ出したから。

「悪ぃ、俺用思い出したわ」

早口にそう告げて代金をテーブルに置くと、足早に店内から去る。
横目に青が映った気もするが、気のせいかもしれない。
友達が少し驚いたように返事をするのを後ろに聞きながら、外に出た。

店から少し歩くと、思い余ったように桜に寄りかかる。そうして初めて、ゆっくり呼吸が出来た。
耳元で心臓が鳴っている。全く、どこのガキだ。
俺だってだてに男を十数年やってきたわけじゃない、それなりに経験もしてきたし、容姿に恵まれたらしく相手にも困らなかった。

でも、あの人は何か違う。
そう思った。

まるで初恋のようだと自分に苦笑して、落ち着くために煙草でも吸おうと思い、懐を探った。が、しかし、どうにも見つからない。
おそらく、急ぐあまりに店内に忘れてきたのだろう。あるいは、歩き途中に落としたか。
どちらにせよ代えは自室にあるわけで、とりあえず帰ろうと、桜から離れた、その時だった。

「っわ、」

くんっと袖を引かれた。
背後からのアクションに少なからず動揺して、誰だと後ろを振り向いた。

そこにいたのは、事の発端、桜の下のその人。

いきなり後頭部を殴られた時のように目の前の景色が一瞬ぶれて、しばらくして戻る。しかして鼓動の騒がしさは静まらない。

丸くて大きな目は長い睫毛で縁取られており、その磁器のように白い肌と相まって、人形のような美しさを感じさせる。

ごくり、と。
喉が鳴った。

「え、と…」

何か用か、ときくのは失礼な気がして、そこで行き詰まる。いや、失礼を気にしたというよりは、もっと一緒にいたいとか、そんな子供じみた考えだったかもしれない。
近くで見ると、容姿の端整さだけではなく、華奢な体の造りがよく分かる。女性にしては少し肉付きが悪すぎるような、それほどに細い。

俺が目のやり場やら話題やらに迷走していると、その人は何かを差し出してきた。
そうして、首をちょこん、と傾げてみせる。
まるで、「これ、あなたの?」と聞くように。
つられてそれを見れば、なるほど俺が落としたのだろう煙草で。

(…ああ、なんだ…)

つまり、これを届けにきたわけか。きっと店内で落としたのだろう。
少しがっかりしたのと、わざわざ届けてくれたことが嬉しいので心がざわつくのをどうにか抑え、感謝の意を伝えた。
すると、花が一斉に咲き乱れるような、そんな笑顔を見せるものだから、こちらも苦笑まじりに笑ってしまったりして。
初対面どうし、どこかギクシャクしていた空気が、嘘みたいに解れるのを感じた。

「わざわざすみません。俺が出て、すぐ追いかけてきたんでしょう?」

こくん。
一つ頷いて、肯定を示す。

「俺の、こと…」

覚えてました?と冗談のように聞けば、一瞬きょとんと目を見開いて、もう一度頷いた。

胸の燻りが一気に昇華して、ザワリと身体中を巡った気がした。



その後、その人とは別れたものの、それからも何度か見かけたりして、その度に会釈をし合うくらいには親しくなった。

連れがいることは知っていたし、そこに割り込むほど野暮ではなかったから、いつも俺は一歩引いたところから接するように心がけていた。

心がけて、


いた





つもりだった。


それが崩壊したのは、とある夕暮れ。

その日、いつもの喫茶店で時間をつぶしていた俺は、いつの間にか新しく買った本にのめりこんでいて、ハッと気付いて窓を見れば、日が暮れていて。
俺は大学進学と共に下宿していたから、連絡も無しに遅くに帰宅するわけにはいかず、急いで立ち上がり、会計を済ませた。
そして外に出てみると、かろうじて地平線に太陽がへばりついていて、思わず自分に舌打ちをした。これは、走るくらいの勢いで行かなければならないかもしれない。
その通り、限りなく走るに近い速度で歩き始めて、数分。
俺は、とある宿屋の前で足を止めた。

宿屋といっても所謂連れ込み宿で、何をするところってナニをするところ。
そんなところから、こんな時間に、何故。

あの人の連れが、出てくる?


誓って、好奇心だけだった。
若気の至りってやつだ。
若さ故の過ちというやつだ。

その男性が足早に立ち去るのを見届けると、そろり、宿屋の中を除いてみる。
幸か不幸か、番頭は偶々か客がこないから不在だった。
そろり、そろり、まるで泥棒か何かのようだと苦笑しながら、足を進める。貸し部屋は二階にあるようだったから、なるべく足音をたてないように階段を上った。

二階には、薄暗い廊下と障子と、今まさに事に至っているらしき物音しか無かった。
その生々しい音を極力耳に入れないようにしながら、左右に視線を巡らせる。部屋数は少なく、多く見積もっても二桁にはいかないくらいしかない。
その連なる部屋の、一番奥。
そこが、目に止まった。

(襖が…)

開いていたから。
開いていたとはいっても、人が一人入れるか入れないか程度の隙間。しかし事に至っているならばきちんと閉めるはず。

色々と論理立てて考えてみたものの、結局は勘。
勘に頼って廊下を進み、その部屋の前に膝をついてみるも、中からは一切の音がしない。
もしや誰もいないのでは、思って、開いていた隙間から除いてみれば、


そこには、想像を絶する光景が横たわっていた。


思わず、ペタリとその場に座り込む。

そこには、誰もいないのではなかった。
いた。
いて欲しくなかった人が。
いてはいけない人が。

あの人だ。

桜の下の、あの人だ。

気を失っているのかもしれない。ピクリとも動かない。
その四肢はダラリと投げ出され、腰の辺りだけ、お情けのように着物が被せてあるのが、かえって卑猥だ。
太ももには白濁が伝い、身体中にキスマークが散らばっている。いや、キスマークではないかもしれない。どちらかといえば、噛みついた後のようにも見える。
栗色の髪は無様に床に泳ぎ、目元は泣いた後のように赤みを帯びていた。

どう見ても情事後の、それ。
そして、俺が驚いたのは、それだけではない。

女にしては肉付きが悪すぎると、思ったのは正解だったのか。
つまるところ、女ではなかった。
男、だ。



外はいよいよ暗くなり、部屋の中を暗闇が満たす。今日が、終わる。

終わるのは、今日だけか?

鳴り始めた終焉へのメロディー、気付きたくなくて、聞きたくなくて、理解したくなくて。

ただ、魂が抜けたようにそこに座りこんでいた。



一歩引いたところから、なんて。

ほうら、初めから、無理だったじゃないか?


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