校門に寄りかかって何やら眉間に皺を寄せていた黒髪は、パタパタという軽快な足音が後ろから聞こえてくると同時に、視線を落としていた携帯電話をパチリとたたんだ。別にこれといって、一生懸命見つめていたわけでもないのだ。
「…っは、土方さ、ん」
昇降口から校門まで走ったところで息が上がるわけもない。だから今自分の名前を呼んだ奴は、きっと、校内から走ってきたのだろう。
そう思うと、腹の底に何やら暖かい、自分には到底似合わない感情がふわり漂って、土方は僅かに口角を上げ、前に垂れた黒髪の隙間から彼を見た。
彼は夕日に髪を金色に塗りながら、土方さん、と呼んだ口のままキョトンと突っ立っている。
土方は耐えられずにぷ、と吹き出すと、歩き出しながら後ろに声をかけた。
「帰るぞ、総悟」
高校3年の夏。
詳しく言えば夏休み。
しかし夏休みといえど、学生に休みはないわけで。
海の近くに立地した校舎はとても好みなのだけど、こうして帰り道、楽しそうな海水浴者を大量に見なければいけないというデメリットがある。
これは大問題だ。由々しき事態だ。学校パンフにはこんなこと書いてなかった。詐欺だ。
「暇人どもが…夏休みで浮かれてる奴もれなく小指をドアにぶつけろ」
「…物騒なこと言ってんじゃねぇよ」
自分が出勤あるいは登校している日に休みで浮かれてる愚民どもを見る時ほど、いやにヤル気を奪われることはない。
つまり何が言いたいかというと、だ。
さっきからシアワセそうな家族、恋人なんかが車に笑顔いっぱいでつまって、横をスイスイ通りすぎていくのだ。
それが非常に気にくわないのだ。
分かっているがかなり理不尽な感情である。
しかし現実なんて理不尽なことだらけだ。
今自分が理不尽なことでちょっとムカついてみたって、バチがあたるだろうか。
答えはノーだ。
「土方ァァ!!死ねぇえ!!」
「ぶほぉっ!?」
だから今自分が人気のない砂浜にムカつく野郎を蹴り出したって、ちっともバチなんかあたらないはずだ。
ちょっと強く蹴りすぎてそいつが砂を撒き散らしながら盛大に転んだって、神様は目をつぶってくれるのだ。
ついでにそれの背中に馬乗りして窒息させてみようとしたりしても、全然平気なのだ。
だって
(だって土方さんは何時だって俺に甘い、から)
総悟は唇をかみしめてそんなことを思う。背中に乗っているから、土方にはその表情が見えない。無言の攻防が暫く続いて、結局おとなしく馬乗りしているならと、総悟はそのままの体勢にお許しをいただいた。
息が整えば急に静寂が訪れて、土方も総悟も、なんだか声を落としてきたみたいな顔をして海と空の間を見ていた。
夕焼けが空を桃色か橙色かに染めて、海にそれが映っていて。春は曙とか言うけど、いつだって空は不意に息が詰まるほど綺麗な表情を見せる。例えば今だって、とても、綺麗で。
綺麗すぎて。
「…土方さん、」
総悟は自分の声があんまり震えているのに泣き出したくなった。
夏休みだ。
もうすぐ、みんな大学生になって、就職するやつもいて、文字通りバラバラになるのだ。
夏休みだ。
それで、二人の志望はやっぱり違うわけで。
実は今更ながら、二人はお付き合いをしている仲だったりするのだけれど。
隠して、隠して、隠し通して、まだ一年にも満たない時間ではあるけれど、それでも二人には満身創痍な数ヵ月だったのだ。
男同士とか幼なじみとか、世間は想像以上に厳しかったから。だからこうして隠れて、必死に愛し合う場所を探して。
夏休みだ。
潮時だ。
お互いに、そう、思っているはずなのだ。
だってほら、八月の海は自分たちにはあまりにも眩しすぎるじゃないか。
「土方、さ…」
土方は総悟の声があんまり震えているのに、耳を塞いでしまいたくなった。
でも、できなかった。
それをするには背中が重すぎて、とてもじゃないが腕を動かすことはできない。
(くそ…っ!)
好き、だけで走れるほど、世界は優しくなかった。
しかし困ったことにそんな世界が好きだった。
僕の運命を君にしてくれたのは、きっとこの世界だろうから。
「土方さん…」
総悟はぼんやり思った。
この人、今どうしようもないこと考えてんだろうな。
俺はちっとも何にも考えてないのに。
馬鹿だなあ。
「……土方さ、」
俺はね、ただ、生きてる間にあと何回「土方さん」って言えるのかなって、それだけを考えていたんだよ。
直後に襲ってきた夕立に紛れるようにして、濡れたワイシャツをでたらめに掴まれて
そこからは何故か壊れ物でも扱うように口づけされながら
総悟はそんなことを思った。
あんまり心配そうに大切に扱われたものだから、もしかして自分は本当に壊れ物で
土方の手が離れた瞬間に砂のお城みたいに崩れて消えてしまうんじゃないかと
それだけが怖かった。
……………………
BGM:夕立(歌:奥華子)