チリン
「…は?」
時は猛暑の続く八月上旬。
ただでも暑いのに、日本独特の湿っぽさ、嫌がらせとしか思えない蝉の鳴き声。
そしてここが男所帯であることをいれても良いかもしれない、とにかく体感温度が酷いことになっている。
暑い。
否、暑いなんてもんじゃない。
体からエネルギーというエネルギーを全て絞りとらんとする意思が確かに感じられる。
この、夏というやつは。
そしてこれは俺に限ることだが、更に体感温度を上げんと企むやつがいる。
体感温度を上げるだけならいい、しかして俺を亡き者にしようと企まれては、さすがに放ってはおけない。
そしてやつの場合、それを実行できるのが、また厄介なところだ。
その、研ぎ澄まされた剣術によって。
(チクショー…どこに行きやがった…)
昼過ぎの恒例稽古、今日は沖田が稽古をつける日、なのに。
沖田は真選組において、撃剣師範であり、斬り込み隊長の異名をとる。
つまり、それほど剣術に優れているのだ。
あの齢にして。
隊士の中には沖田の剣に憧れ、稽古をつけてもらう、というより、間近で剣術を見ることを楽しみにしている者もいる。
楽しみ、というと語弊があるかもしれないが。
そんな中で、沖田総悟、恒例の職務放棄。
今日は沖田や永倉、土方、そして原田といった隊長格四人で稽古をつける日だった。
しかし沖田が来ない。
何かあったのか、と心配する者はいない。皆で目をあわせて苦笑し、土方に同情の眼差しをなげかけるだけだ。
(いや…まだ俺何も言ってねぇし…)
土方は沖田を探す役目。もはや公認となったそれを悲しく思いながら、土方は一人、道場をあとにしたのだった。
沖田が居る場所なんてたかが知れている、まずは屯所の中から探そうと歩いていた土方は、ふと自室の前で足を止めた。
チリン
「……」
もちろん、土方の自室である。
それなのに、何故か。
チリン
つけた覚えのない風鈴が、涼しげに、ゆるり、揺れているではないか。
軒下、時おり風に煽られて、チリンと音を溢しながら。
(誰だ、こんなもんつけやがったのは)
こういう季節限定の物は、色々と面倒くさいのだ。
出したと思ったらすぐにしまわなければいけない、それに自室で風鈴の音に涼むような職務ではない。
ため息混じりに、チリチリと音を鳴らすそれから目を離すと、再び沖田を探そうとした。
探そうとして、そうしたら自室から、誰もいないはずの自室から、微かに、物音がした。
「ーッ!」
…え?何これ。
これはあれか、アレなのか、夏と言えば…な奴らが出たのか!?こんな昼間っから!?
以前騒ぎになった蚊の天人ならばまだ大丈夫だ。
しかしもしホンモノだったら…!
そう考えると容易に動くことはできない、できるだけ生命反応を抑えようと息をつめていると、スッと開く障子、ひょっこり出てきた蜂蜜色。
「あ」
「…『あ』じゃねーよ…」
そのくりっとした紅い瞳が自分を認識したのとほぼ時を同じくして、土方も物音の正体が沖田だったと理解する。
沖田はというと、後ろ手に何かを隠し持つようにしながら、決まり悪そうに目を伏せている。
感情を表に出さないこいつにしては珍しい、土方は少しならず気になって、沖田に問うた。
「総悟、テメー稽古サボって何」
「あ、土方さん、俺はこれにて失礼しまさぁ」
「人の話を聞けェェ!」
何が失礼しますだ、大体俺の部屋で何してやがる!そう渾身のツッコミをかませば、沖田はやはり珍しい、動揺するそぶりを見せた。
(ラチがあかねぇ…)
土方は草履を脱ぐと、縁側に上がる。
沖田がギクリとして逃げの体制に入るが、そうはさせないとばかりに着物の袖をひっつかむ。
そうして再び問おうとすると、
「暑ぃー」
「原田おまっ、暑い!お前暑いから来んな寄るな!」
「るせーよ永倉ァ!ギャーギャー騒ぐんじゃねぇ!」
原田・永倉、馬鹿コンビの声が響いてきた。
「ーッ!」
沖田は咄嗟に開きかけの障子の中に飛び込み、つられて土方も自室に入ってしまう。
そして障子の影に膝を抱えて座り込んだ沖田の横に、ドカリと腰をおろした。
(何で俺まで隠れなきゃいけねぇんだ…)
しかし横の沖田を盗み見れば、いつになく寡黙で、頬は上気し、何故か目にいたっては潤んでいやがる。
袴の裾をキュッと握っているその姿は、見ているだけで庇護欲を煽る。
ほとほと、土方も沖田には甘いらしい。
嘆息の後に、聞こえてくる馬鹿コンビの会話に耳を澄ませていると、
「原田、原田。見ろ、風鈴」
「どこ…って副長の部屋かよ!似合わねー!」
(…あいつら)
ギャハハハと豪快に笑いながら似合わない似合わないと連呼する馬鹿コンビ。
後でシメてやると決意、しかし横を見ればやはりらしくない沖田。
らしくないどころか、いよいよ耳を赤くしてうつ向いている。
そこで土方はピンときた。
風鈴を取り付けたのは、沖田ではないのか、と。
きっと後ろ手に隠していたものは、その包装か何かだろう。
でも、どうしてわざわざ。
新手の嫌がらせ…音による安眠妨害だろうか。あり得る。十分あり得る。
しかして再び聞こえてくる会話。
「そういやぁ、風鈴って鬼よけになるんだってな」
「あー、鬼とか邪気とかな。いやでも副長が魔除け…ある意味ではあり得るけどやっぱり…似合わねー!」
ゲラゲラ笑いながら、その笑い声がだんだん遠ざかる。大方、水でも飲みに行くのだろう。
「…」
「…」
そして残されたのは黙りを決め込む二人。
…らしくない。
非常にらしくない。
あの、沖田が。
土方が言葉を選べずにいると、沖田がポツリ、
「…アンタ、鬼の副長って言われてるだろィ?」
「だから、この部屋に入れなくなると良いと思ったんでィ」
「…は?」
「そしたら、俺がここを使ってやりまさぁ。ついでに晴れて沖田副長になってやりまさぁ」
口達者なのはいつもと変わらない、違うのは、
(何、こいつ)
耳まで真っ赤に染まった顔と、微かに震える声。
(…可愛いんだけど)
沖田の必死の憎まれ口には答えず、土方はその華奢な体を、抱き込んだ。
耳元で感謝の意を伝えれば、ギュッと目を瞑って、着流しの黒を握りこんでくるものだから。
いよいよ沖田が愛しく感じられて、蜂蜜色の髪に、そっと口づけを落として。
チリン
風鈴が、控えめに音を弾いた。
チリン
「…?」
過去に想いを馳せていたための幻聴かと思ったが、確かに鈴の音がした。
あの、風鈴のような。
しかしここには風鈴などあるはずもなく、辺りを見渡せば、山崎の剣の鞘に、キラリ、光る音源が揺れていた。
「山崎、それは…」
「ああ、鈴ですよ、鈴」
綺麗でしょう、と目の前でブンブン鞘を振られる。
鈴がつられてチリチリと鳴る。
…情趣のないやつめ。
「…沖田隊長に、いただいたんですよ」
山崎にしては珍しく声のトーンが下がる。
俺も、そうか、とだけ言って山崎をさがらせた。
その鈴の意味は
きっと、あの風鈴の意味に一致するのだろう
自分が守ってやれない、から。
目を閉じれば、また、あの音色が聞こえるようだった。
沖田がつるした風鈴。
鬼を寄せ付けない、そういう言い伝えがあることは知っていたのだろう。
知っていて、だから、つるしたのだろう。
赤い不治の病に肺を侵された自分の代わりに
大切な人を、守ってくれるように、と
(ませたことしやがって)
ずっと一緒にいて、守り、守られる、唯一の存在だった彼は、病に倒れ。
そして、一ヶ月ほど前に果てた。
あんなに孤独を怖がったあいつを、最期の最期に一人にしちまったなぁ、と思えば、何かがせり上がってきて喉の辺りを苦しくした。
目を閉じて、スウと深呼吸すれば、冷たい空気が肺を満たす。
江戸のような暑さもなければ、嫌がらせとしか思えない蝉だっていない。
蒸し暑さも感じられないし、江戸に慣れた俺たちにとっては、むしろ寒いくらいかもしれない。
それでも
抱き込んだ華奢な体、触れた部分から生まれる温度。それらを思い出すたびに。
隔離された北の大地で、一人、あの夏の暑さに胸を焦がしている。