春眠 | ナノ

幕間:誇り

シャノンの窮地を知ったケイネスが、食い下がるランサーを彼女のもとへとやることを許したのは、ひとえにシャノンがまだケイネスにとって役に立つと判断したからである。なによりリヴィエール家がつむいできた人脈やパイプは、アーチボルト家には決して持ちえないものである。時計塔における政治闘争の切り札。かの家を味方につけることと、権力を牛耳ることができることは、同意義といってもよいほどである。

ならばこそ、彼女が死することで、どれほどの損害が出るのか考えたくもないくらいだ。反対に言うのであれば、この場において、彼女を助けるということで、得られる利益も相当数に上ると容易に予測できる。
今からも、そして勝利して時計塔に帰ったのちも、彼女の助力があるのとないのとでは大きな―――相当の差が出るのは自明の理だった。
それが公的な場面でも……私的な場面でも。


ゆえに、ランサーを向かわせることを許可したのだ。
誰よりも冷静な魔術師としての判断が、シャノンに借りを作れるといった打算を導き出した。
何より、相手がキャスターだということも大きな要因だったのだろう。
運が良ければ、キャスターの首を打ち取れるに違いない、そういった算段から屋敷を離れることを許したのが―――それが、ここにきて裏目に出た。


ランサーが屋敷を飛び出してのち、キャスターらを見定めようと、万全の守りを敷いていた屋敷を出て視界の広い場所へと移動したのが運の知己。それを溝の隙間から鼠のように見ていたのだろう。冴えない風貌の魔術師が、見合わぬほど礼に則って決闘を申し込んできたのだ。だが、名乗られて答えぬのは魔術師の恥。

そうして、正々堂々とこちらも姿を見せてやったというのに、男はケイネスに叶わぬと見るや、無様に逃亡を図ったのだ。姑息にも決闘の最中に。魔術ではなく、単なる破裂弾を放たれ頭に血が上ったのも悪かったのだろう。このような恥知らずな手を使うのは、十中八九セイバーのマスターに違いない。



その無様な姿をケイネスは嘲笑いながら、相手の領域へと一歩足を踏み出し――そして、罠に掛けられたことを知ったのだ。



シャノンにあれほど注意するよう、言われていたのだが、その忠告を無視したツケがこれだ。
自慢の「月霊髄液」は策にかけられた際に、相手の攻撃で一時制御ができなくなった。
時間があれば、魔術式を再構築することとて可能だったが、相手がその隙を与えてはくれなかったのだ。
しかし、一体あれはなんだったのだろうか、この一流魔術師たる己が、まるで魔力が暴走したように制御を失うなど。いまだに暴走しかけた魔術回路が、隆起したようにじくじくと痛みを訴えかけている。女の忠告により事前に用意した身代わりとなる礼装がなければ、どういう結果になったのか……考えたくもない。だが、それだけならまだよかった。


身代わりがあったとはいえ、魔術回路の暴走が起こった事実は消せはしない。この礼装ではその事実を覆せるわけではないのだから。結論から言うと、その反動により、魔術回路が一時的にマヒしたのだ。特に右腕の損傷が激しい。つまりは、令呪の使用すらも一時的にだが、使用できないも同義である。

もちろん、令呪が使えていたからと言って、相手はサーヴァントではなく、魔術師なのだ。零落した魔術師風情に貴重な令呪を用したかと言ったら極めて疑問だが、いざという時のための使用が一時的とはいえ不可能になったというのは、この場においてあまりにも運が悪いと言わざるを得なかった。普段から行われていないため、念話が途切れたことからマスターの危機を察することもできない。

さらには、パスを分けるという変則的な契約のうえ、魔力供給源であるシャノンが、魔術回路を最大限に隆起させていたのも、裏目に出た。
令呪の束縛によって結ばれたものは、一方が生命の危機に瀕していたのであれば、乱れた気配により察することができる。
だが、ケイネスが陥っている状況は、いまだ直接的な生命の危機とまではいかず、本来であれば乱れるはずの魔力供給もシャノンから滞りなく行われている状態で、ランサーに察しろという方が無理難題というものだろう。



起源弾を使用してなお行動できることに男は目を見張ったものの、明らかに動きの悪くなったケイネスを追撃した。
そうして、辛うじて、遮蔽物…空家に逃げ込んだものの、3階まで追い込まれてしまった。これ以上逃げ場などあるまい。
無論、窓から飛び降りれば別だろうが


『ふん、これも相手の手の内だろう、ならば窓から下に降りたところで殺されるだろうな』

こんな窮地にもかかわらず、嫌に冷静な思考で判断する。
そうして、その判断は間違ってはいなかった。


とその時、どこからともなく冷たい声が響いた。

「なるほど、理論ばかりの魔術師ではなかったということか」

今までにいたるまで、無言を貫いていた男がうっそうと口を開いた。

「はっ、魔術師としての誇りも欠片も介さぬ恥知らずが、この私を批評するなどとはな。恥を知れ!」
「決まっている、それが結果に結びつくのなら、なんだってするさ。ああ、――――愚にもつかない魔術師の誇りなどそこらの犬にでも食わせるがいいさ」

「貴様―――!!」


その言葉で、頭が煮えくり返った。
魔術師と言うのは世間の方より外れた存在であるからこそ、自信の課した法を厳格に順守しなくてはならない。
この聖杯戦争とて、犯してはならない方と理念がある。
そう、無秩序な殺戮であってはならないのだ。
そういった法を犯し、戦いの意義を汚し、貶めるのであれば、それはもはや人ではない。
ただの概念。人たる誇りを忘れ、外道に落ちた畜生だ。


「そんなものを―――私は認めん!」


認めることなどできるはずもない。
人としての、魔術師としての
最低限の誇りを捨ててまで、得た勝利に何の意味があろう―――。


荒い息を吐き、壁に背を預け顎を上げて息を吸いながら、絞り出すように声を上げる。
そうしてケイネスが壁に掛かってある鏡にふと視線をやって……そこに、自分に迫る死神の姿を見た。


瞬間、信じがたい寒気が体を包んだ。
先の会話で場所を特定されたのであろう。
ああ、いかん。これは、死んだな。

――もし、ここにランサーがいたら何かが変わっただろうか、
と自問して、愚かな考えに苦笑した。
あり得るはずがない。
そもそも、いたならばサーヴァントのいない相手は仕掛けてこないだろう。
だが、たとえいたとしても、結末は変わるまい。
死ぬ前の冴えわたる直感なのか、なぜかそんな予感がある。


―――だが、もし。もしだ。
あれの言うことに、ほんの少しでも耳を傾けていたら何かが変わったのだろうか。
私にも譲れない誇りがあるように、あれにも理解こそできないがそういったものがあったのだろう。
そんな正気なら考えもしないことを、死の間際だからか、
思ってしまったのだ。

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