春眠 | ナノ

早駆け

景色は飛ぶように過ぎ去り、風が汗ばむ体を撫でて心地よい。
戦車もよいが、己の身一つで馬に乗り、野を駆けるというのもクー・フーリンは嫌いではなかった。そして何より、と横目で追並するように駆ける姿を見る。こんな風に楽しそうな妻と駆けるのは、胸がすくような思いになった。大きく息を吸い込めば、陽射しを浴びて乾いた草の香りが胸いっぱいに広がり、澄み渡った空に舞う花びらが目を楽しませる。

水辺にたどり着いた。馬を止め、休息を与えることにする。
その間にと、以前見つけた湖で汗を流すことにしたのだが、エウェルを誘ったものの、にべもなく断られてしまった。

『全く、ノリがわりぃな』

小さな波紋を腰の下に感じながら、頭までつかり、透明な水の中で揺蕩う。
勢いよく立ち上がると、冷たく身が引き締まるような湖水は、精悍な男の身体を静かに流し、引き締まった肌を滑り落ちるのが心地よい。

とはいえ、エウェルを待たせているのだ。
あまり、長居するのはよくあるまいと考え、頭を軽く振りながら濡れ髪を掻き揚げ、岸に向かう。
そうして、濡れた体を軽く拭い、待っているエウェルの元へと足を進めた。

「待たせたな」
「いいえ、もっとゆっくりしてもよろしいのに」

エウェルはそう言いながら、こちらを見た後、目を少し見張り、いつの間に摘んだのか、手に持っていた小さな花にどこかあわてたように視線を戻した。

その言葉に甘え、身支度を進める。
流石に濡れた上半身裸では、この春の陽気とはいえ、早駆けするには相応しくないからである。

が、視界に入らなくとも、突き刺さるような視線は痛いくらいに感じられる。

「あ?どうしたってんだエウェル」
「別に、何も、ありません」
「何もねえってことはないだろう。そんな目で見ておいて。……もしかしてあの日か?」
「ちがっ、!?―――昔はあんなにも可愛い子どもだったのにと思っただけです」

そのぶしつけな質問に、かみつく様に目じりを上げて怒るエウェル。

「へえ」

クー・フーリンは上からかがみこむように、覗き込み

「これでも、これでも子ども扱いできんのか?」

そう、熱っぽく耳元に囁いてみる。
が、それを軽くいなすようにエウェルは目も合わせずに、詰んだナナカマドの実を無造作にちぎっている。

「さあ、子どもは成長するものですもの―――そんな大きさで私を見下ろして子どもなんて言ったら怒りますよ」
「ははあ」

その言葉にクー・フーリンはにやりと笑い、納得がいったとばかりに紅い瞳でエウェルを上から下まで眺めた。

「お前、デカくなりたかったんだな!まあ、初めて会った時から、男にしちゃ小さいと思ってたんだよ」
「っ!ええ、小さくて悪かったですね!」
「いんや、悪くはねえよ。まあ、ちゃんと欲しいところはあるわけだしな」
「……どこみているんですか」

両腕で、体を抱きしめるように身を縮める女。
実は求婚した時から、気にはなっていたんだが、その仕草はだめだ。
柔らかな胸がことさら強調されて、逆効果だ、非常にけしからん。
だが、クー・フーリンにとっては、まあ役得なので、何も言わないでおこう。
他に見る者がいれば、そんな不忠者の体に直に言い聞かせればいいだけの話だ。

髪から滴り落ちる雫が、胸板を流れ落ちてゆき、風が体の熱を奪ってゆく。

「いやあ、別に何でもねえよ。で、何でこっちを見ないんだ?」

一歩近づいても、エウェルは明後日をむいたままこっちを見ようともしない。それどころか、遠ざかろうとすらするエウェルの手を、もどかしい思いで取って身体をひきよせても、一向にナナカマドから目を離そうともしない。
自分の髪から滴る雫がエウェルの首元に落ち、筋を描いて首筋から胸の谷間を伝い、その奥へと一筋に垂れ進むさまに目を奪われる。
それに驚いて、肩をびくつかせたくせに、雫が落ちたことにも何も言おうとしない。
いい度胸だ。嫌でもこっちを見てもらおうじゃねえかと、クー・フーリンは意地になる。

「別に見る必要なんてないでしょう」
「あるね、だいたいお前は言葉が足りないからな。
少しでも違和感を感じたら追及することにしてんだよ。
なあ、本当に具合が悪いならちゃんと言えよ」

その言葉に、エウェルは目を丸くしてから、眉を下げて、妙に小さい声で呟いた。


「本当に暇人なんですから」
「なんとでも言えや。で、なんでだ。言えよ」

そうして、口を閉じたり開いたりしながら、たっぷりと間を取って観念したように口を開いた。


「………今更何ですけど、その、」

エウェルは消え入りそうな声で言った

「落ち着かないんです。今のあなたにそばに立たれると」

視線はうろうろと落ち着かず、よく見れば耳が熟れた林檎のように赤い。
それを見てクー・フーリンは一瞬息をのみ、次の瞬間愉快そうに笑った。

「本当に今更だなあ、おい。それ以上のことだって、見てきただろ」
「…!それ以上言ったら怒りますからね!」

だがまあ、そんな火照った顔でにらみつけられたところで、怖くはない。
クー・フーリンは目を輝かせる。
少年のような無垢な輝かせ方ではなく、獲物を前にした獣のような危険で、それでいて艶っぽい光で。

「まあ、いいさ。それだけ俺が男として魅力的だったってことだろ」
「そう思いたいなら、勝手に思われればいいじゃありませんか」

自信と期待に満ちた発言に、エウェルはそう、そっぽを向いてはき捨てるように言った。
が、撫子のように染まった頬がすべての努力を無にしている。

「へいへい」

そうして、クー・フーリンは暴れようとする女の柔らかな肢体を難なく抱き締めた。
冷えた素肌にはこの暖かさが心地よい。
エウェルの髪から香る、爽やかな香りに誘われるように首筋に頭を寄せる。
そうして、白い首筋に顔を寄せて、吐息が掛かるような近さで。

「なら、そんな余計なこと考えられなくなればいいと思うんだが、どうだ?」

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