春眠 | ナノ

思案

閂を持ち上げ、大きな蝶番を軋ませながら扉を開いて、館に入る。内部は暗く、暗がりと薄明かりがあたりを満たしており荘厳な雰囲気を醸し出している。


そうして広間を抜け、一番奥の少し埃っぽい部屋に足を踏み入れた。
太い柱が高い天井を支えて、軒下の東側の高窓からは、明るい日光が光の矢をそこかしこに落としている。天窓の向こうからは、煙り出しから細く立ち上る幾筋かの煙の彼方に薄青い空が見え、戦車の音と姉と女たちのはしゃぐ声が聞こえる。

その声に背をむけて、一人壁に掛けられている織布を眺める。その広い面には神々や一族の歴史や人物があるものは年月に色あせ、またあるものは暗がりから浮かび上がるように描かれている。


ここは歴史の重みを感じる場
紗で覆われた壁
逃れざる責務を訴えかけてくる檻


だが、エウェルは普段は滅多に使われないこの部屋が好きだった。
何れは自分もこの部屋を彩る一族の者のように、この地の要となり、この中に織り込まれる未来を夢想できるからである。
そうして、夢見る未来は自分に少しの重さと、それ以上の誇りを持たせてくれるのだ。

そうして
『お前は一族の宝だ』
そう、重々しく告げた父の言葉を思い出した。



*****

あれは旅立ちの朝のことである。
朝から低く垂れこめた空から、春の雨がけぶるように降り、降りしきる灰色のカーテンが視界を柔らかく遮っていた。やがて雲が去り、切れ間から淡い陽が行く道を照らす。
そんな日に旅立つ私を見送りに父が来るとは思ってもいなかったので、正直少し驚いたのを覚えている。

「ゆえに、お前は誰のものにもなってはならぬ」

たとえ、己の不徳で死に至ることがあろうとも、誰とも添い遂げてはならないと、一抹の申し訳なさを瞳に秘めながら、父はそういった。反対に言うのであれば、この身の所有権を明け渡さないのであれば、どこで何をしようとも、許されるのである。
そう、たとえ、異国で死にいたろうとも、一族に名を残している限り、一族の加護は然るべきものに引き継がれ、何ら問題はないのだから。


その厳しい言葉に反論するつもりは毛頭ない。一族に与えられた豊穣の加護の「かなめ」は一族の長男でも、決まったものでもなく、その一族の中で最も適したものに自動的に付与されるのだ。音に聞く魔術刻印のようなものだろうか。それは私が生まれた時からわかっていたことである。
だが、豊穣と繁栄そして土地の領有権をもたらす女など奪われないはずがない。だからこそ、私は男としての名を得、その代わりに、いまこうして旅に出るという自由さえも得ることができているのだ。


「わかっております」

だが、今になって何故、こんなわかりきったことを言うのだろう。


それに答える父の声は風のない湖面のごとく、感情の乱れ一つなく平然としていたが、後に思えば、それは分かってなお足掻く、見苦しい己を嘲っていたのかもしれない。

「我らは予言によって守られているのだ、であればこそお前の運命を網かけるやもしれん」
「未だ来てはいない、運命を恐れておいでなのですか」

そう怖気づいたような、未だかつて見たことのない父の姿に驚いたことに気づいたのか、父は苦く微笑み、かぶりを振った。

「そうではない。だが、そなたにもいずれ理解しよう。…それが先を見るものの宿業であるがゆえに」

それだけ告げて、馬を走らせ、去っていく父。
その背は、かつてよりもどこか老いて、弱弱しく見えた。
そうして一人残された、もう自分以外に誰もいない荒野で、その言葉は重苦しく心に影を落とす。

あれはいったい何を意味していたのだろうか。
それが、いまだに理解ができないのだ。


*****


隙を見て抜け出してきたが、いくら向う見ずなクー・フーリンとはいえ、主がいない館に、おまけに許可なく足を踏み入れるのは、礼に反するとは分かっている。
それでも、求めた人に会わずして、おめおめと帰ることなどできるはずもない。
そう、クー・フーリンは若者特有の、無謀さと行動力によって、足を進める。

人気のない静寂に満ちた廊下を歩む。
早くしないと、己の不在を気づかれてしまう。
焦りを噛み殺しながら、いや、それすらも興奮に変えて館を散策する。
と、その時、薄らと開いている扉が目に入った。

その隙間からのぞくと、クー・フーリンを貫くようにこちらを見る幾つも人影がある。
いや、人ではない。タペストリーの絵だ。
そうして、その壁の前には一人の女の姿があった。
それを見て、クー・フーリンは立ち尽くした。


ほっそりとした人影、波打つ黒曜石のように艶やかな髪。
明り取りの窓から、細く差し込む光がその女を包み込むように照らし出している。
女はクー・フーリンに背を向けたまま、身じろぎひとつせずに、描かれた過去を見つめる。

その女のまなざしは憂いにけぶり、白いなめらかなかいなは、慈しむように、また、祈るように父祖の雄姿が織り込まれたタペストリーを愛でている。
彼女の目は瞬きひとつもせずに一心に織布に注がれていた。長いまつげが頼りなげに細かく震える。優美な弧を描く眉には、意志の強さが見て取れる。
そう、薄暗い部屋だが、彼女の周囲だけは差し込む光が埃により形作られ、煌めいているように見えた。


だが、彼女は深く物思いに沈んでいるようで、こうして見つめる者がいることに気付いていない。


「エウェル」

だから、堪え切れなくなった。
その瞳をこちらに向けるため、胸から湧き上がる熱情を宿した声が、クー・フーリンの口からこぼれ出た。

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