春眠 | ナノ
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夏の夕暮

過ぎ去った古い光景が、夜明け前に見る幻夢のように脳裏を走る。
セピアに染まった記憶の中、リンゴに木の下ではじめて一人の少年と出会った日のことを。

淡い色の空に薄い雲が奔るように流れ、やがて溶けるように消え去り、鮮やかな陽射しが大地に降り注ぐ。木々の香りを乗せた気持ちの良い風が吹く夏の日のことだ。

木や踏みしだかれる葉のにおいが芳しく、頭上にそよぐ葉擦れの音から多くの音色が聞き取られ、さらさらと流れる水音や鳥の鳴き声がかそけく聞こえた。
そんな日に、森を逍遥する私の目の前に、青い影を落とす林檎の枝々の下から、森の魔力に惑わされたのか道に迷った少年が獣を追って転がり出たのだ。

深い森の中、見知らぬ男に物怖じすることなく話しかけてきた少年。
海のように深い青を宿した髪に、どこか力を感じる紅玉のような瞳、見た瞬間に雷鳴に打たれたように理解した。

この少年こそがクランの猛犬、かの予言の御子だと言うことが。

『この日、幼き手に槍持つ者はあらゆる栄光、あらゆる賛美をほしいままにするだろう。この土地、この時代が海に没するその時まで、人も鳥も花でさえも彼を忘れる事はない』

あの夜、この少年はたとえ自分が手を出さなくても、己のあるべき場所へと帰れただろう。彼はそれだけの強さと、そして来たるべき定めを背負った人間なのだから。だが、なぜだろう、その奇跡のような縁をあそこで断ち切るのが酷く惜しく思ってしまったのだ。
―――きっと、葉や木々の面を吹き渡る薫風に、心が浮かれていたからだろう。

歩む足取りも軽く、少年の声も弾んでいる。
枝葉の合間を縫って零れ落ちてくる木漏れ日が光の雨のように大地を彩る中、益体のない会話を交わしながら、共に歩みを進める。


『五つ国に知らぬものなく
彼を愛さぬ女はおらず、彼を誇らぬ男はおるまい
槍の閃きは赤枝の誉れとなり、戦車の嘶きは牛獲りを震えさせる
いと崇き光の御子、その手に掴むは栄光のみ
命を終える刻ですら、地に膝をつく事はない』

だがら、そのまま、どうでもよい会話を続ければよかったというのに、
少年と言葉を交わすうちに、かつて見知った予言の一説が何故か頭をよぎって離れなくなったのだ。


『だが心せよ、ハシバミの幼子よ
星の瞬きのように、その栄光は疾く燃え尽きる
何よりも高い武勲と共に、お前は誰よりも速く、地平の彼方に没するのだ――』



「君は…生き急ぐんだね」

駆け抜ける少年の生きざまを、憐れむつもりはないが、思わず口を突いて出てしまった言葉。
彼はまるで駿馬のようだった。
この荒々しくも厳しい時代に生を享けながら、目も眩むような、それでいて目の離せない鮮やかな光を放ち、諸人を魅了し、捉えて――そして、瞬く間に消えてゆく。
だから、怖くはないのかと、その定めに一言くらい物申したいことくらいはあるだろうと、思ったのだ。


それに

「別に、そうすると決めたからな」

そう、此れより先に待ち受けるあらゆる理不尽を飲む込むかのような鮮やかさで、なんでもないと言った風に返答した。
少年はそう楽しげに言って、空を仰ぎながら屈託なく笑った。


それを見て、言葉を失った。

理解したのだ。
この少年は何れ来る終焉を見据えて尚、止まらないのだということに。
いやきっと彼は確信していたのだ、その予言など生まれた時から知っていたのだから。
そう、私と同じように。

私と決定的に違うのはたった一つ、彼はドルイドの予言を恐れず、疑わず、それが自分に与えられた責務として受け入れていることだ。
そして、定めを回避することで生きながられているわが身が、何故か無性に恥ずかしく
思え、それを隠すように少年の頭に手を載せ、髪を力任せに撫ぜ回した。


「君は聞き分けがよすぎるな。まだ、子どもなんだ。もう少しくらい、ふてぶてしく生きてもいいと思うが」

そうして、笑いかけてみると、彼は邪険にティーナンの手を振り払おうとするが、そうは問屋が卸さない。
この際、心行くまでこの少年を撫でまわしてみよう。
長じれば、いずれ触れることすらできなくなる武勇と栄誉に包まれるのだ。
まあ、話のタネか、御利益ぐらいにはなるだろうと、考え思いのほか柔らかな髪を撫でつけてみる。

「子供扱いしないでくれ」

彼はそう、拗ねたように言葉をつづけようとして、全く自分が彼の意向に頓着してないことに気づいたからか。あるいは、反発するのも無意味と悟ったのかか、むくれたように頬を膨らますと、一緒に歩きながら、呆れた顔でティーナンを見上げ、呟いた。

「あんたって結構人の話を聞かないって言われないか」
「うむ、よくわかったね。
だが、言い訳をするのであれば、聞かないのではなく、少しばかり強情なだけだと言わせてもらいたい」
「少しじゃねーだろ、これ」

そうして触れた髪は、冴えわたるような蒼い色とは違い、柔らかで暖かい。
少年の盛りを迎え、これから若駒のように成長するだろう片鱗をかいま見せる彼は、目を逸らし続けている目には少し眩しく感じる。
だが、そう、それでもこの輝きが一日でも長く続くことを、心から祈りたいと思った。


そんなティーナンの胸中を知ってか知らずにか、クー・フーリンはむくれたように口を開く。

「子どもだと思って見くびるなよ、そのうちあんたが驚くようなことを成し遂げてみせるんだからな」
「ああ」

そんなセタンタの眩しい眼差しを細めながら見やり、そうティーナンは頷き、彼へと寿いだ。

「ああ、きっと―――君が為す偉業はずっと謳われ続けるものになるだろう」



「…それで、俺はあんたをどう呼んだらいいんだ?」
「ん?どうとは?」
「名前。呼ぶのに名を知らないと、やりにくくて仕方ないだろ?」

それを聞き、なるほど、まあそうだな言わんばかりに頷き、ティーナンは返答した。

「私の名はティーナン。ルスカのフォルガルの血族に連なるものだ」

彼はティーナン、と口の中で転がすように噛み締め、呟いた後

「そうか!俺の名はクー・フーリン。クランの猛犬と名付けられた男だ。
以後、まあ、よろしく頼むな」

そう言って心底楽しそうに、痛快な笑みを森に響かせた。
一体何が楽しいのだろうかティーナンにはよくわからなかったが、だが、そう気分の悪い笑い声ではない。そこには卑下するものはなく、暖かで慕わしいなにかがあったからだ。
ああもう、良くわからないが完敗した気分だ。
にじみ出るような苦笑をこぼしながら、道を行く。


それが始まり。
その鮮やかな生きざまを何よりも眩しく思った、夏至の夕暮の話だ。


それから年月は川のごとく流れたが、あの少年の瞳を、強い光を抱いた紅色のまなざしを、私は忘れることはなかった。


*****


夢主目線の初めての邂逅話

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